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1.
「そろそろ帰らなきゃ」
兄嫁の友里恵が華奢な腕時計に目を落としてそう言ったのは、午後4時頃だった。外はまだ明るく、喫茶店も混んではいない。未鈴は驚いて顔を上げ、友里恵の黒い瞳を見つめた。
「もう? 小さい子がいるでもなし、このあと何か用事でもあるの?」
子宝に恵まれぬまま、兄は昨年50歳で亡くなった。友里恵は一人暮らしなのだから、凝った夕飯の支度をする必要もないはずだ。
「用事は特にないけれど」
「じゃあ、なんで」
友里恵は細い首を傾げ、眉尻を下げて微笑んだ。
「私が家にいないと、寂しがるから」
「……え?」
兄嫁の表情は、一見困っているようであり、どこかのろけているような雰囲気も感じる。が、喪が明けたばかりだし、年齢を考えても彼女に新しい恋人がいるとは思えない。
「猫でも飼い始めたの?」
「いいえ?」
「だよね」
「生き物は、先立たれるとつらいもの」
じゃあ、何がいるって言うのよ。その言葉を未鈴は飲み込んだ。もしかしたら、植物や人形の話だろうか。葬式の時からあまり悲しんでいるように見えないとはいえ、彼女は夫を亡くしてまだ1年の未亡人だ。寂しさからそういう妄想に取り憑かれてしまっても、無理はないのかもしれない。
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