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新しく配属されてくるらしい人の噂はそれなりに知っていた。
中途入社はともかく、その経歴が一般的な社会人ではないから特に。
元・実業団陸上部の長距離選手。
逸材と期待されながら怪我と故障で成績を残せないまま、つい近頃現役を引退した。
そんな人がなぜ、畑違いのうちの会社に。
確かに、ここ数年、社長はマラソンにハマっているけれども。
「高梨青葉です! よろしくお願いいたします!」
────『あおば』。うちのアオバと同じ名前だ。
新入社員の挨拶を聞きながら、陣内紅子は実家の庭につながれた犬を思い出していた。
*
紅子は自分が高梨の教育係にされた理由がよくわからなかった。
社歴が浅い一番下っ端というポジションでもなかったし、同じ部署というわけでもない。
そもそも社員三十人足らずのベンチャー企業。菓子の製造・販売をメインのだけれども事業は他にももろもろ、仕事内容も担当も上下関係もあいまいだから、この先高梨が何の仕事をするのかわからないが、誰が教育係になっても特におかしいことはない。
ただ、愛想がいいとか面倒見がいいとか人当たりがいい、優しいとか、その種のイメージをおそらく誰も持っていない紅子に、という点で人選ミスではないのかと思わなくもない。
そもそも経験でいえば、一度失敗している。以前に紅子が担当した新入社員は二日で辞めた。
紅子は自称、一般的三十歳女性の中の下にランキングしている人物だ。
とっつきにくいほど変わり者だとか根暗ではないが、そこそこかわいい安定系のキラキラ女子でもない。
外見も、ノーメイクだとか着るものにこだわりゼロというほど女子力を捨てているわけではないが、最低限の努力しかしていない。
上にも下にも飛びぬけない最低限のところで、可もなく不可もなく、三十代にのったばかりの人生を謳歌するでもないし悲観もしていない脱力系といえば聞こえはいい省エネ人生。
やる気がないわけではない。あるわけでもないが。
以前の新入社員は、王道の映え系女子だったので、紅子は彼女が会社に来なくなった原因を自分が直接的な原因ではないにしても、要因の一つくらいではあったかもしれないと密かに責任を感じていたのに。
*
高梨青葉は想像していたよりも明るかった。
長身で細身。短髪でさわやか、まぶしい笑顔。
さすがに社会人になって数年は経つだろうからスーツに着られている感はないけれど、高梨がお正月のテレビで見る大学カラーのたすき姿は簡単に想像できた。中継所で手を上げて前走のランナーからたすきをもらうときの映像がありありとイメージできる。
そもそもいけない先入観で経歴だけを聞いて、もっとチャラっとしたスポーツ選手を想像していた。
そして、その人となりは、無冠の裸の王様か、卑屈な構ってちゃんか、燃え尽き症候群の抜け殻か。
なぜなら陸上強豪高校の出身で大学は箱根駅伝常連校、そこから実業団。
まさにそんな陸上エリートが、若くして失意のうちに引退をせざるを得なかったその無念を察するに、教育以前にメンタル面でカウンセリングやケアが必要な人材だろうと。
「陣内さん、一からよろしくお願いします!」
一からとは、まさに教えられたことをメモに取る、弊社御社、電話の受け方、報連相など、紅子が新卒で入った会社の新人研修以前の、大学のプレ社会人講座で教えてもらったようなことだ。
「コピー機はここに」
「はい!」
紅子の一言一句をまじめにメモしている。
ちらっと伺ったところ見た目とはうらはらに字は下手だった。彼は走ってばかりいたのだからそれは仕方がないことだ。
オフィスの説明や備品の場所などの説明もしていたらあっという間に昼になった。
「お昼ご飯は? 私は外に買いに行きますけど」
「では、私も買いにいきます」
「対外的にはそれでいいけど、普段の一人称は『私』でなくてもいいですよ。ゆるい社風ですから、うち」
「はい!」
どんなときにもいい返事だ。さすが体育会系。
各チェーンのコンビニやキッチンカーや弁当の出店の場所、それから買ってきたものを食べる場所などいくつか案内をして、「13時にデスクに戻ってください。では」とビルの一階で別れた。
新人が女性だったら、昼食も一緒に食べるかどうか誘わないといけなかったかもしれないが、そんな気遣いは不要だろう。男性でよかったと思いながらオフィスビルの一階にあるコンビニに向かった。
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