戦時山号寺号

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戦時山号寺号

 太平洋戦争、戦局は最初だけ日本優勢だったよ。  真珠湾、みんな知っているわな。最新鋭のゼロ戦を使っての奇襲攻撃。見事に決まった。  だが、それだけではアメリカさんの物量には勝てん。  軍部のお偉方が考えたのが、大和魂、なる根性論さ。  バカな話さ。  気合で兵器に勝てる訳がない。  それでも、俺は信じてしまった。 『もう降敵に言わせろ突撃』  南方では、マレーシアの辺りだったかな、日本軍の落下傘部隊が活躍してな。 『部隊は落下快進撃なり日本男』  そのうち戦局が悪化してね、次々と男子に召集令状が、赤紙とも言うんだが送られてきたのよ。その光景を見てな、 『お母心配するな俺は無』  ますます戦況は悪化した。  油は無くなり、松の油まで取るようになった。松根(しょうこん)油と言ってね。そんなもんまで使うようじゃ、どう見ても日本の負けなんだが、俺や、周りは神風が吹いて日本が勝つと信じ切っちまったのさ。  ほとんど催眠の域だね。  鉄も供出しろと軍部に言われてね、寺の鐘まで軍に渡す始末だよ。  それでも俺は、こう言った。 『鉄をば出絶対勝とうこの戦』  最後にゃ本土に空襲までやられたが、 『アメリカ効きませんよそんな火』  俺はこうやって言葉で戦争を煽っていたのさ。  それも、原爆が落とされて、終戦のラジオが響いて全て終わり。  残ったのは尋常小学校を出て、少しばかり落語を覚えた餓鬼一人だ。  師匠。  ああ師匠は出征して亡くなっちまった。  抜群に噺の上手い方だったから、現地の兵隊を笑わせてくれたんじゃないかなと思うな。  そうこうしている間に、夏が過ぎようとしていた。  日本は内地からの引き揚げや、満州からの脱出者で人口が膨れ上がった。ついさっき話したね。  だのにその胃袋を満たすだけの食料は無かった。  俺は高い着物を持って、農家のおばさんに食料と交換してもらう日々になったよ。  幸い口は回るから、というか、口先しか芸のねえ少年だった。まあ何とか生きるだけの食料は確保できた。と言っても、薄い粥さ。 『農家のおかみ米売ってくれ ああひも』  お前さん方、空腹を、いや、飢餓を知らんだろう。  知らない方がいいんだけどな。  今でもテレビを見ると、戦争してるな。  どんな大義や名分があるのか分からんが、国民は飢えるぞ。  戦後当時、夏の終わりには俺の着物は無くなった。  もう米と交換できる物はねえ。    イモの葉っぱまで食べたものよ。 『ああ悲食糧難での草の』                                完
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