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幕開け
喜六さん、もうすぐ誕生日ですねって。嬉しいねえ。ありがとう。もうすぐ95だ。いつまでこの世にいるかは分からねえけどな。
施設じゃなく自宅で過ごしたいかって。いやいや、施設で十分さ。娑婆に出ても祝ってくれる人なんざいねえよ。
ここじゃ毎日美味いもん食べて、しょんべん垂れのじじいの世話をしてくれる。感謝感激さ。まったく、いい世の中になったもんだ。
そういやテレビで太平洋戦争特集をやってたな。もうそんな季節かと思うよ。この年の夏の終わりこそ、自分に嫌気がさしたことはねえ。できることなら腹でも切りたいところだった。
でも、俺の持ち物は軍刀じゃねえ、扇子一本だ。これじゃどうやっても腹ぁ切れねえわな。
従軍したことは無かったのかって。
俺は運よく徴兵されなかったよ。
ただ、ただなあ、言葉で人を殺したことはたくさんある。
向こうへ行ったら謝りてぇ軍人さんばっかだ。まあ、俺の魂が靖国に迎えられることはねえだろうがな。
戦後も酷かった。
何せ戦地や満州からの引き上げ者が続々と日本へ入ってくる。
農家は空襲でやられとる。
食べ物はほとんどねえ。
今日の夕飯さえ事欠く有様さ。
それに比べりゃここの施設は天国さ。働きもしねえのに三食おまんまをいただける。
9月にお笑いコンテストがあるって。
ほう、そうか。自由に笑いができる世の中ってのはいいもんだ。
俺なら出場できそうだって。バカ言っちゃいけねえ。
今のお笑いについて落語家である俺からの意見を聞きたい。
とんでもねえ、とっくに廃業したよ。なんせ正座できねえほど足が言うことをきかねえ。
座布団一枚あれば高座はできるって。
まあ、そうだがよ。
何、戦時中の落語を聞きたい。
面白くもなんともねえよ。ヘルパーさんも物好きだね。
ベッドルームでしゃべっちゃみんなの迷惑だ。
どっこいしょ、ホールまで連れてっておくれ。
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