0戦∞勝0敗

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「人生というものは、近くから見ると悲劇だが、遠くから見ると喜劇である」これほど自分の人生について的を得た表現に、これまでの人生で出会ったことがない。自分の人生を振り返ってみると、転換点で感じていた後悔は、今の自分を規定する重要な要素となっていたことに気がつく。 自分の人生を規定した重要な瞬間を思い返すと、まず先に現れるのが「壁」だ。実家から少し下ったところに静かに佇むコンクリートの壁。この壁があるのとないのとでは、きっと自分の人生は別のものになっていたことだろう。 「お前の最高のボールを投げ込んでこいよ」 9回裏、2アウト満塁。カウントは2ボール2ストライク。バッターは今年首位打者になることがほぼ決まっている好打者。左打席からスラリと伸びた右腕と、その先にブレることなくそびえるバットが空を指す。多くの少年が、その姿の意味も知ることなくその仕草を真似したそれが、とうとう自分の前に姿を現した。 「やってやるよ…」 僕は小さく口ずさみ、グラブの中に静かに仕舞われていたボールをゆっくりと握る。力が全身にみなぎるのがわかる。力みすぎているのかもしれない。大きく息を吐く。周りの音は何も聞こえない。そこにいる誰もが、僕の全身から放たれる集中に息を飲んでいる。 誰もが目を見張るような豪速球を投げたいがために振りかぶりたい気持ちを抑えつつ、右足をプレートに沿わせ、胸の前でグラブを持ち、その中でボールを握る。2度目の深い吐息。 ゆっくりと左足を上げ、下半身の力が解け、上半身のさらにその先にまで力が集約されていく。一点。指先にかかった力は綺麗にボールを弾き出し、キャッチャーの構えたミットへと線を描いて進んでいく。同じくして、バットが鋭く動き出す。 当てられるか。いや、当たらないだろう。わかる。刹那にそう思った通り、バットはボールの下を勢いおく走る。 「バンッ!」 「ストライイイイク!バッターアウッ!」 今日も僕の勝ち。そう。僕は一度だって負けたことがなかった。どんなバッターにも、どんなシチュエーションだったとしても、絶対に抑えると決めたその時に僕が打たれるなんてことはありえなかった。 鈍い音を出して弾けたボールは自分の方に綺麗に返ってこず、転々と誰もいない草むらに走っていった。無言でボールを拾いに行く。面倒だとは思わない。ここ最近、ボールが素直に返ってくる方が少なくなってきた。壁をよく見ると、コンクリートであるにも関わらず、所々欠けているのが目に映る。 地元の野球チームに入ってからは、誰かとキャッチボールする機会も増え、壁と対峙する機会もかなり減った。でも、僕の根幹を作ったのは、紛れもなくコンクリートの壁。僕と一緒に育ってきたたくさんの「仲間」であり「ライバル」たち。 彼らは、ずっと僕のことを勝たせてくれる。いつだって、どんな時だって、勝たせてくれる。僕が負けることはない、絶対にない、絶対に有り得ない。 だからやっぱり「あいつら」とは関わりたくないんだ。思い通りにならないし、我儘で、余計なことをしてくる。もっと思ったとおりに動いてくれよ、僕を勝たせてくれよ。お前らは僕を勝たせてくれるだけでいいんだよ。まったくもう…。 「おいっ!何してんだよ!早く来いって!」 スーツやドレスで着飾った若者たちが僕を呼んでいる。その中心に、純白で眩いドレスを着た女性が微笑みながら待っている。その横には1人だけ入り込めそうなスペースが空いている。 私服には絶対に選ばない白すぎるスーツを着た僕がそこに座る。集合写真は嫌いだ。どんな顔をすれば良いのかわからない。カメラマンがレンズ越しにこちらを眺め、大きな声で叫んだ。 「撮りますよ〜!笑って〜!」 刹那、閃光が3回ほど飛び交う。瞬きをしていないだろうか。また光る。目に力を入れていたから、きっと大丈夫だろう。 「はい、ありがとうございましたー!」 周りの人たちが口々に「おめでとう」という言葉と笑顔を残し、その場から去っていく。残ったのは僕と、純白のドレスに包まれた女性の2人。彼女の顔を覗く。飾らない笑顔で迎え入れられた僕は、つられて笑い返した。
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