お月様

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お月様

 あかりと私はサンダルを履いた。  玄関のドアが開いている。家の前の道路には、先客がいた。 「おっ、来たね」  腰に手をあてた夫が、こちらを見た。Tシャツに短パンの、ラフな格好だ。 「なに? どうしたの?」 「まま、おちゅきさまー」  あかりが、夜空を指した。その小さな指が示す方向を見上げて、私は「あ」と声をあげた。  夜空に、大きな黄金色の満月が出ていた。 「きれい……」 「まんまる!」 「そうだね、まんまるだね……」  きゅっ、とあかりの手が力強く私の手を握る。  満月は、夜空を明るく照らしていた。柔らかい光は、神々しさすら感じさせる。輪郭を光が縁取る。 「今日、満月だったんだね」  ふと、夫に話しかけた。 「そう、中秋の名月らしいよ。帰ってくる時にスマホのニュースで見たんだ。  一緒に見たいな、と思って」  夫は優しく微笑む。ほわぁ、とあたたかい気持ちが浮かび、私を包み、楽にしてくれるような笑顔だった。 ――ああ、そうか、私には味方がいたんだっけ。  仕事やあかりのことで視野が狭くなり、いっぱいいっぱいになると、いつもこの笑顔に助けられる。  あかりが自分で満月に気づいたのではなく、この人があかりに言ったのだろう。 「ママにお月様みようって、呼んでおいで」って。    ニュースを見て、夫は私と、あかりにこの月を見せたいと思ったんだ。  肩に乗っていた重苦しいものが溶けてなくなった気がした。 「まま、みて! おちゅきさま!」 「ん?」  あかりは月ではなく、下を見ている。  私がしゃがみこむと、あかりは両手で丸を作っていた。  まだ手は小さいけれど、私はこの手がもっと小さかった頃を知っている。  ふにゃふにゃしていて、小さな小さな手で、いろんなものをさわって、ハイハイして、立ち上がって、いろんなものを食べるようになって……生まれて五年で、この子はこんなこともできるようになったんだ。  両手でお月様と同じ形を作って、自慢げに見せてくれる。胸がいっぱいになった。 ――問題は山積みだけど、今夜はこの月と、夫とあかりがいればいい。  もう一度月を見て、不思議な感覚にとらわれた。満月が道を照らす。この世に私達三人しかいないみたいだ。  発達が遅い悩みとか、世間の目とか、そんなものがどこかに行ってしまったようだった。  呼吸する度に、夜の澄んだ空気が私の中を通り抜けていく。中身が少しずつ入れ替わっていく気さえした。 「ちょっとだけ散歩しようか」  夫が、あかりの右手を取った。  私も、あかりの左手を握った。  私達は三人で、家があるブロックをぐるりとまわった。真ん中のあかりの歩幅に合わせて、ゆっくり歩く。夫が「星も綺麗だね」と言う。ご近所の植え込みからは金木犀の香りがした。  あかりは時折見上げたり、振り返ったりしながら、まんまるのお月様をずっと見ていた。
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