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りーん、りーんと虫の声が聞こえる。質素な掘立小屋の縁側から小さな庭をはさんで竹藪が生い茂る。生え散らかしたススキたちは凛と背を伸ばす。男は縁側に座り、秋の夜風と虫の音を楽しんでいた。
りんりんりん、チンチロリン。
田舎の夜はとても静かだ。
幾刻か耳を澄まし腰掛けていると、突然何かがどさっと落ちる音がした。竹藪ががさがさと音をたてる。男は何事かと聴覚を研ぎ澄ます。何者かが目の前に立ちふさがったようだった。
「ねえ、あなたはここの住人?」
とてもやさしい男性の声が耳に届いた。
突然聞こえた人の声に男は驚く。警戒するように何か武器になるものを手探りで探した。探るそれを心地よいくらいに冷たい手が包む。
「あなた、目が見えないの?」
男はまっすぐ前を向く。声の主は男の前にしゃがみ込んだ。見上げるように話しかけたが、男はしばらく声の元をたどるようにきょろきょろと首を動かしていた。
「吾はここに迷い込んだらしい」
危険なにおいもしない、ただ柔らかく優しい声に男の警戒心は解かれていた。
「旅の人ですか?」
「うん、そんなところかな。いろいろあってここに落とされたみたい」
「落とされた?」
男は聞き間違えたかと思い首をかしげる。
「出来ればここに少し置いてもらえないかな。迎えがくるまで」
「この家は見ての通り何もありませんし、私もこの状態です。貴方が物盗りということはなさそうですね」
男が柔らかく笑う。
「迎えが来るなら、どうぞそれまで。何ももてなしはできませんが」
客は縁側から家の中を見渡し、本当にみすぼらしいなと思った。それでも男が水を汲み差し出すものだから、大変に驚いた。
「どこの誰かも分からないのに、家に招いて大丈夫なの?」
「先ほども言ったようにここには盗っていけるものもありません。お渡ししたくても出来ないくらいです」
また男が朗らかに笑う。
手探りでも慣れた手つきで水を入れる。客が男の目の前に回り、男の目に手をかざす。
「少しも見えないの?」
「昔は少し見えていたのですが、今はこのように」
男が瞼を開くと、焦点の合わない眸が覗いた。
「名前は何ていうの?」
「私は嵯峨宮津といいます。あなたは何と?」
「吾は迦具夜というよ」
そういうと迦具夜は湯呑に口をつけ、水を一口すすった。するといきなり思いついたように羽織っていた着物を脱ぎだした。長襦袢姿になると、着ていた着物を宮津の手の上に乗せる。
「これは?」
「宿代みたいなもんだよ。明日町へ行って売ってくるといい。代わりに美味しいものを買ってきてくれたら嬉しい」
「それはそれは」
宮津が丁寧に着物を畳む。
「あと、吾が帰るまで宮津の服を貸してほしい」
「それならば押し入れに……」
押し入れから出した服を一つ一つ手で確かめる。
「いいよいいよ、吾が自分で選ぶ」
直垂に袴が男性の服装としては一般的だったが、迦具夜はあえて小袖を選んだ。それは迦具夜が着ていた小袿によく似ていたからだった。
不思議にも初めて会ったのに昔からの友が遊びにきたような感覚を覚える。そんな調子で宮津と迦具夜の生活が始まった。
次の日の朝、宮津が迦具夜の着物を持って町にでたものだから、暇を持て余した迦具夜が村を散歩する。
「あんた、どなたで? こんな別嬪さん見たことがないよ」
村人の顔は全員が把握しているくらい小さい村。隣に住む婆さんが迦具夜の姿に目を丸くする。麗しの来訪者の噂は瞬く間に広がり、気付けば迦具夜は村人に囲まれていた。
「少しの間宮津の家に居候することになったんだ。よろしくね」
まるで人形のような顔にきらきらと輝きを放つ佇まい。だれもがその容姿に目を奪われる。しかしそれは宮津の知ることのない迦具夜の姿。その容貌と気さくな性格から迦具夜はすぐに村に打ち解けてしまった。
家に戻り宮津を待っていると、夕刻前に宮津が戻ってきた。杖を突き、床座を確認すると腰を下ろす。
「不思議なことにね、村の人たちが花妻が来たと騒ぐんだよ。器量の良い嫁を貰えてよかったなと言われた。なにが間違ったらそうなるのかな」
迦具夜がふふっと笑う。そして宮津の持っている荷物を見た。
「宮津、どうして着物を売って来なかったの?」
「ああ、売りに行ったんだけどね。とても高価なもので、きっと持ち主の大事なものなんじゃないかと言われたんだ。それで持って帰ってきてしまった」
宮津が気まずそうに笑う。迦具夜が目をぱちくりとさせ驚いた。
「宮津みたいな人間は始めてだ」
何のことかと思ったが、迦具夜の様子にやはり着物を売らないでよかったと胸をなでおろした。
「すまないね、これは売れなかったから美味しい物も買ってあげられなかった」
「ううん。宮津、今晩は豪華だよ。村の人達がたくさん夕飯を分けてくれた」
迦具夜が村人にもらった煮物やふかした芋を並べる。いい匂いが鼻をくすぐった。
「すごいね、今日だけでこんなに皆と仲良くなって。迦具夜はきっと撫子のような人なんだね」
宮津に褒められ、迦具夜の口元が緩んだ。
夜になると村は人の音が聞こえないくらいに静まりかえる。竹藪がざわざわと風に揺られる音や、虫の声だけが心地よく響く。宮津が道具を出し、何やら作り出した。すり鉢に粉を入れ、炭粉を入れる。そこへ蜜を垂らし、よくこねる。何度もすり鉢を鼻に近づけ、何かを確認する。そして粘土のようになったそれをころころと掌で小さく丸める。黒目よりももっと小さい塊をいくつも丸めていく。部屋には芳しい匂いが充満していた。
迦具夜が宮津の前に寝そべり、その手を眺めた。
「とてもいい匂いがする。それは何?」
「練香だよ。私は香司といってね、香を作って売っているんだ」
ふーんと相槌を打ち、迦具夜がその手と香りに見惚れた。宮津がふっと笑う。
「見てるのが楽しい?」
気付かれるはずがないと思っていたのに、当てられ驚いた迦具夜の頬に紅葉が浮かぶ。
「どうして分かったの!?」
「手元に熱いものを感じたから」
迦具夜がぷいっと視線を外した。
「迦具夜はどこから来たの?」
「月からだよ」
「月?」
宮津がどうも信じられないといった様子で聞き返す。
「そう。吾は月に住んでいるのだけど、よく悪さをする。するとののさまは罰として吾をこの星へ落とす。人間の願いを叶えてあげると月へ帰れる。でも簡単なんだ。人間の願いはいつも同じだから」
迦具夜の目が少し憂いを帯びる。そして恐々と宮津に問いかけた。
「宮津は願い事がある?」
「困ったな。じゃあ、皆が幸せになりますように。とかはどう?」
宮津が眉をひそめ笑う。その答えに迦具夜の目が大きく見開かれる。まるで星が宿ったように瞳が光る。
「ダメだよ。私欲的な願いじゃないと叶えられない」
「じゃあ、お金持ちになりますように」
「それ本心じゃないでしょ。そういうのは分かるんだ。それもダメ。厄介だな、どうしてこんなにも欲のない宮津のところに落ちちゃったのかな」
愚痴をこぼす口とは反対に、宮津を見上げて見つめる目は嬉しそうだった。
その後もたくさんの練香を作り箱にしまうと部屋の隅へしまった。迦具夜はその一部始終が心地よかった。宮津の作りだす香りがとても気に入った。
宮津が昼間にお香を作っている間、迦具夜が村に遊びに出る。その日は村人に畑仕事を教えてもらい、手伝いを楽しんでいた。村人もそれは楽しそうだった。迦具夜の美しい姿は村から町へ、町から町へと広まった。町で人気の好漢や富豪らが迦具夜へ声を掛けにきたが、一貫して迦具夜は宮津の元にとどまった。
「宮津! 今日は畑仕事を手伝ったよ」
迦具夜が宮津の傍に座り込む。宮津が仕事の手を休め、迦具夜の手を取った。ゆっくりとそれを確かめ、手に着いた土を丁寧に払う。するとその手をそっと口元へ近づける。迦具夜はその仕草に胸が高鳴った。迦具夜の手が少しばかり力む。しかし迦具夜が期待していた行為と違い、宮津が迦具夜の手をすんすんと嗅ぎだす。
「本当だ。牛の肥料の臭いがする」
「もう! 無粋なんだから」
迦具夜が「手を洗ってくる」と家を出ていったので、宮津は分けが分からないまま玄関の方を見送った。
幾分か月日が経った頃、村人の一人が慌てて宮津の家へやってきた。
「宮津さんよ、何やら立派な方がこっちへ向かって来てるよ!」
宮津が杖をつき、外へ出る。遠くから牛舎を牽く音が聞こえて来た。やがて音は宮津の目の前で止まる。
「ここが嵯峨宮津の家か?」
誰かが問うので「そうですが」と宮津が答えた。
「こちらに大層美しい美丈夫がいると聞いたのだが」
尋ねて来たのは三人の貴人であった。
「出来れば我が屋敷に迎え入れたい」
貴人を立ち話させるわけにもいかず、宮津が家へと招き入れる。ただならない雰囲気に村人たちも集まり覗きだしていた。そこへ迦具夜が現れると、貴人たちからは感嘆の声が上がった。
「こんな掘立小屋にいるよりも私の家に来るといい」
貴人の一人が蔑むような目で宮津を睨む。他の二人も同意とばかりの視線を宮津に送る。宮津は表情を変えず、客をもてなす優しい笑顔を崩さずただ静かに座していた。
その様子を眺めると、こんこんと湧き上がる感情に迦具夜が顔を赤くする。しかしゆっくりと息を吐くと気持ちを落ち着かせた。
「迦具夜、せっかくこのような立派な方々が招いてくれてるんだ。こんなみすぼらしい家にいるより、親切を受け入れてはどうだ?」
迦具夜は宮津の言葉には耳を貸さなかった。貴人に対して口を開く。
「それほどまでに吾を貰い受けたいのであれば、吾の願いを聞いてくれますか」
「理が非でも」と三人は目を輝かす。
「吾にはほしいものがあります。龍の涎、東南亜の伽羅、麝香鹿の香嚢。これをお三方それぞれに。一年間は待ちましょう」
そう言い残し、迦具夜はすぐに部屋の奥に隠れた。貴人たちは喜々と心を弾ませ帰っていった。
縁側に座り月を眺める。後ろから宮津の声がした。
「迦具夜?」
迦具夜ははじめ返事をしなかったが、迦具夜を探し困っている宮津に耐え切れず「ここ」と返す。宮津がゆっくりと迦具夜の横に腰掛けた。
「お三方へ求める品は初めて耳にした。どんなものなの? 容易く手に入るものではなさそうだけど、皆大丈夫かな」
迦具夜の返事はなかった。
「間違っているかもしれないけど、泣いてるの?」
迦具夜がむくれた顔で鼻をすする。
「宮津の代わりに悔しがってるの」
「……そう。すまないね?」
どうしてか不機嫌な隣の泣きべその背中を静かにさする。月は十六夜月へと姿を変えようとしていた。
それから一年はあっという間に過ぎた。
「宮津さんよ、また立派な方が来られてるよ」
村人が宮津の家に駆け付けた。遠くから牛車の音が聞こえて来る。
「さあ、美丈夫よ、希望の品を持ってきた」
三人の貴人が引き連れた車にはいっぱいの品物を積んでいる。宮津が迦具夜を呼ぶと奥から迦具夜が姿を現した。それを見て貴人たちは驚いた。
「首を長くしてまっておりましたら、この様な姿になってしまいました」
そこには髪の白く、腰の曲がった老人がいた。
「このような姿でも貰い受けてくださるのでしょうか」
迦具夜が貴人たちを見ると、貴人は狼狽え、品物を置いてそのまま立ち去ってしまった。
「みなさんお帰りになってしまったので?」
宮津が不思議がって迦具夜に尋ねた。
「うん、皆吾の事は諦めるそうだよ」
迦具夜が意地悪に笑って、村人に品物を家の中へ運ばせた。
夜になると満月が顔を見せる。
「これらの品物は一体何?」
「宮津、この星にはね、たくさんの香りがあるんだよ。宮津もまだ知らないものばかり」
「私のために?」
迦具夜は答えず縁側に出ると空を見上げた。
「宮津、今日は満月だよ。吾が生まれ育った星、吾そのものの星が一番綺麗に見える」
迦具夜が宮津の手を引き、縁側へと導いた。
「迦具夜、満月が見たい」
その言葉に迦具夜がはっとした。
「私は満月をもう一度見てみたい」
迦具夜が庭に降り立つと、宮津の前に立ち腰をかがめた。
「見たいのは満月なの?」
不服そうに零すと宮津の頬を両手で包み込む。
「宮津、ゆっくり瞼を開けてみて」
宮津がゆっくりと目を開けると、目の前に迦具夜の顔が現れた。宮津が目を開いたまま固まっている。
「驚いた?」
「迦具夜が月なのか、月と思っていたのは迦具夜なのか、混乱している。とても美しいものだから」
迦具夜が噴き出して笑った。
「私が迦具夜で、あれが満月だよ」
空を指さすと、雲一つない空に煌々と光る月が一つ。それをしばらく二人で眺めた。
「宮津が願い事をしてくれたおかげで迎えが来る」
空から牛のいない牛車が舞い降りて来る。宮津が迦具夜の手を強く握った。
「宮津、吾は満月になれば月から宮津のことを見るよ。もう悪さはしない。宮津以外の人のところへはいかない」
「私は満月の日に月を見るよ。そうすれば迦具夜といつでも会えるものね」
宮津が着物を取り出し、迦具夜に渡す。迦具夜がそっと宮津の背中に手を回した。
迦具夜が車に乗り込むと空へと舞うように走り出し、消えていった。
それから数日秋の長雨が続き、月を見る事が出来なかった。
迦具夜がくれた香料でつくった香はそれはそれは素晴らしい香りを放ち、瞬く間に噂が広がった。当時お香遊びが流行っていた宮中にまで話が届き、宮津の香は平安宮中の御用達とまでになった。
そのおかげで宮津は店を持ち、大層繁盛した。店の仕事で忙しい日々を送っていたが、満月の日だけは忘れる事はなかった。
「宮津の旦那はいつも満月に団子を供えるね。どうしてだい?」
「月の人はね、練香を丸める仕草が好きなんだ。だからこうして団子を丸めて飾っているんですよ」
「へえ、そうなのかい。じゃあ俺も今度から団子を供えようかな」
「ぜひそうしてやってください」
宮津が微笑む。満月がいつもより光を強く放つ。それは誰かに語り掛けるように、喜んでいるように見えた。
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