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昨夜の出来事
「それで群馬館林の東雲先生のところには行かなかったのかね?」課長の顔はあからさまに不機嫌だ。まぁ、もっともその原因を作ったのは私なので特に言い訳する気もない。
「はい」
「ん―――日野森さんは知ってたの?」私では話にならないっといった感じでフワフワ系女子の私の教育係である日野森先輩に話を振る。
「ええ。一応は―――それで私が代わりに行ってきました。原稿ももらっています。あの先生は手書き派なので。それと、冷凍庫のハーゲンダッツは高崎のお土産になります」ここでハーゲンダッツを出すか―――日野森先輩は意外と空気が読めない。いや、むしろその逆なのか―――。
「ああ、ハーゲンダッツね。俺も好きだよ、ハーゲンダッツ。ラムレーズンとか最高に美味いよね。抹茶も好きだけど、ラムレーズンが一番かな? ラムレーズンとかは六花亭だっけ? 北海道のマルセイバターサンド! あれも上手いよね。北海道土産と言えば白い恋人とかは定番だけどさ。俺はマルセイバターサンド一択だね、うん。ああ、そうそうハーゲンダッツね! コンビニで買うと高いからよく行くスーパーの安売りの時に買うよ。でも直ぐなくなるんだよぉ。だから俺なんか開店前から並んじゃうよ。日野森さんも?」私の敵前逃亡の話が既にハーゲンダッツと入れ替わっている。
これがたまたまではなく、わざとだとすると日野森さんはエスパーかなにかだ。だとすると、こんな会社にいていい存在ではない。もっと輝ける場所が用意されてしかるべきだ。
「私は爽が好きです。安くておいしいですよ?」話はハーゲンダッツから爽へと移行する。
「爽! そうなんだ。なんてね? いやいや自分で言っていて恥ずかしいよ」
「課長って面白いですね~」まぁ、話そのものではなく、その寒い感じが面白いですよね。という意味ですけど……。これ言ったら昨日の事より怒られそう。
そんな感じで課長からはそれほど怒られずに済んだのだが―――
昨日の事―――そう、昨日は日野森先輩の指示には従わず、エターナルアイアンメイデン―――私が高校生の時に所属していたバンド―――が出演するのイベントにピンチヒッターとして参加した。
ミズキには色々と訊きたいことがあったにもかかわらず、そのイベントというのは高校生ロックフェス「ギロッポンライオット」への出場をかけたライブ審査だった。
エターナルアイアンメイデンはそのオープニングアクトとして呼ばれていた。てっきりイベントのトリでの参加であると勝手に決めつけていたので正直焦った。
オープニングアクトだったら練習する時間がほとんどない。
そんなわけでミズキたちになぜ私に声を掛けたのかは訊けなかった。訊いたら絶対長くなる。
ただ「ハナなら来てくれると信じていたよ―――」などと思わせぶりな態度を取っていた。言葉は丁寧だが全体から滲み出る上から目線なかんじが少しむかついた。
でも、行ってよかった。それだけの価値は間違いなくあった。
ミズキたちの腕は高校生の頃とはまるで違っていた。私も大学時代に腕を磨いたという自負があった。しかし全く違った。別ものだ。
ミズキたちのそれはプロ。単純に技術があるというだけではない。プロとして活動することへの覚悟、音楽に対する情熱、それに裏打ちされた圧倒的な演奏技術―――そのどれもが私にはないもの。
私の会社での仕事のようにやらされている感はゼロだった―――。生き生きしていて正直羨ましかった。それと同時に血の滲むような努力を重ねてきたこともすぐにわかった。―――あの時感じたものは嫉妬だったと思う。
ベース以外のメンバーは誰も変わっていない。だからこの日集まったのは高校時に結成したエターナルアイアンメイデンのオリジナルメンバー。
かっこいい言い方をしたが、その中で私だけがプロではなく素人。それでもラストサマーミッドナイトだけはできない、弾けないなどとは言えない。
これは私たちがはじめてゼロから作曲したオリジナルの曲だ。曲は私が、歌詞はミズキが中心となって作成した。高校生の頃の自分達―――そんな等身大の気持ちを曲したもの―――言っていてなんか恥ずかしい。
自分たちが作った曲を「演奏できない」―――なんて言えない。
とにかく必死に演奏した。しかし、所詮は素人だ。ベースとしての仕事がしっかりできたとは言えなかった。
オープニングアクトが終わったら少し話せるかと思ったが、エターナルアイアンメイデンは今や人気バンドである。
この後は雑誌の取材があるとかで時間がない。
私もへたくそな演奏を披露してしまったため、正直なところ話をしたくなかった。
ドラムのキョウコだけは「今日のハナちゃんよかったよ! ナルアイに戻ってきてよ」とか言っていたが―――あの子は天然なのでその言動を信用してはいけない。ナルアイとはエターナルアイアンメイデンの略。しかしその略し方はキョウコしか使っていない。
そんなモヤモヤした状態での出社、そして課長の小言である。社会人とはかくも面倒な生き物なり、と思った。
しかし課長の小言は日野森先輩のおかげで収束した。今日は先輩をビアガーデンにでも誘ってわびでも入れよう。
「さて、今日も社畜として働こう」と気分を整え、自分の席に戻ってメールチェックを始めた時だ。
スマホが震える。この震え方は通話だ。
着信画面を確認すると「ミズキ」からだった。
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