甘い話というものは社会に存在しません

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甘い話というものは社会に存在しません

 『社会人の特性その1。  0900から1800までは仕事の時間―――からの残業。  お昼休みは1200から1300までの1時間―――とするも電話対応で消滅する場合もある。  これをもって「就業時間」とする。』  多かれ少なかれ勤務時間とはそのようなものだと思う。これに付け加えるとすると「満員電車」「痴漢」「余計な飲み会」「セクハラ」などがあるがこれはオプションなので社会人共通という大きなカテゴリーからは外すことにする。 しかし―――そう、しかしだ。  一部の人間にはこの「就業時間」という呪いから解放されている者たちがいるのだ。  ミズキは―――そんな人種の一人なのだろう。  正直、この時間―――社畜にとっての朝のルーティンであるPCのメール確認―――を邪魔されるのは痛い。  業務上の問題だけではない。さきほどの課長からのありがたいご指摘もあったのだ。  いまのご時勢「新人のくせにスマホみてんじゃねぇ!」とか「スマホ見る時間があるならお茶でも淹れろ!」などのパワハラ、セクハラ発言はないと思うが、心証は良くはないはずだ。  入社して間もない私がそんな大それたことをできるはずがない―――昨日はもっと大胆だったが、緊急事態だったのでカウントしない―――。  とにかく、今は仕事だ。なけなしのオアシスタイム―――蜃気楼のように消える場合もあるのでホントにオアシス―――である昼休みに掛け直すことにした。  しかし、ミズキはそんな簡単に逃がしてくれない。しつこいのだ、あの女は。 「だからさ、しつこんだよ! こっちは仕事しているの! わかる? お・し・ご・と!」 「いや、悪いけどこっちも仕事として電話しているから! 遊びじゃないから! 演奏以外は遊んでいるとか勝手に思わないで!!」  結局、電話に出てしまった。五分おきに電話してくるのだ。さすがに「ハナちゃん、さっきから電話鳴っているよ~」などと日野森先輩に言われ、課長が「日野森さん、きっと彼氏からの電話だよ。業務時間に出るのを遠慮してくれているんだよ。あ! これってセクハラかな~、ははは」と言う。  くそが! このセク原!! 私をそう吐き捨てると課長の胸倉を掴み、右フックをその顔面に叩きこむ。それでバランスを崩したセク原の鳩尾にローリングソバット! からのアンディ・フグ直伝のかかと落しをその脳天に食らわせ、最後は嘉納治五郎を彷彿とさせる体落しでマットに沈めた。  決め台詞は随分昔から決まっている。 「アスタラビスタ……ベイビー……」 ―――という妄想をワンセットだけ回した。 「やだ。それ課長じゃなかったらセクハラですよ~。ちょっと席外しま~す」と、若さとかわいさを武器に1Fロビーまで後退してきたのだ。  ここは会社のビルではなく、テナントビルだ。当然、公共スペースがある。ロビーは公共スペースだが、私の声が大きかったのだろう。利用者の皆様の視線を一斉に集めてしまった。  私は作り笑いをして愛想よく、頭を左右に下げる。  すると何事もなかったかのように視線から解放される。―――注目されるのはこんな時だけ―――ホントは昨日のようなステージで注目されたいけどな。  そんな考えが頭をかすめる―――いかん、いかん。夢、見すぎ。 「わかった、わかった。で、用件は? 今、仕事中だから」自分でもいらついているのがわかる。この感情は―――ただの嫉妬だ。それを誤魔化すようにいらついて見せているのだ。そんな自分が少しだけさびしい。 「だからこっちも仕事で電話しているって言っているでしょ! まぁ、それはもういいわ」ミズキは少し呆れつつも話を前に進めようとする。  用件があるから電話してきたミズキにとっては当たり前の態度だが、一種独特な余裕を感じさせるその対応はどこか私を傷つけた。 「ベース探してんのよ……」「は!?」いや、ホントは聞こえていた。 「だから、ベース探してんの!」「ベースねぇ……。当店は出版社ですのでベースは扱っておりません。ベースって楽器ですよね?」これは大人げない対抗心の発意だ。 「……あのさぁ。ハナはまだあのこと気にしているんだよね?」 「は!? 当たり前でしょ? 私だけのけ者してあんたたちだけで東京でバンド活動しようと思ったんでしょ?」私は普段、感情を表にだすことはしない。心の中では何を思っていても。  でも今だけはムリ。ホントにムリ。生理的にムリ。ムリの助ムリ左衛門。 「だから、ハナにも言ったでしょ? 東京行こうって! でも……」ミズキの声が少し沈む。 「ハナは私たちの話あまりきいてくれなかったじゃん。大学行くって言うし。学祭終わった後の進路指導で東京に出て、バイトしながら二十までは頑張ろうって言っていたのに……」そうだったかもしれない。 「だからベーシストを探すのは苦労したよ。これまで二ケタとは言わけどベースだけは何回も変わった。他のメンバーは変化なしだよ。だからさ……」言いたいことはわからないでもない。 「戻ってきなよ!」戻ってこい。一見なんて変哲もないミズキの言葉。  本来出て行った人に対して元に戻ることを要求する際に使用される言葉であることに異論はない。  しかし、しかしである。出て行ったのは私か? 向こうではなかったか? なんか私が情けをかけられている感じになってないか? 「あのさ、ごめんけどさ。ちょっと訊きたいんだけど、私が元に戻るわけ? なんか私がみんなに許されて元に戻る的な感じがするんだけど、そういうんじゃないよね?」面倒な質問なのはわかっている。でもこれは自分のプライドに関する問題なのだ。 「ハナは昔出てったけど、みんなで許してあげたんだよね~」「エターナルアイアンメイデンさんでもそういう時期があったんですね?」「昔の話だけどね~。ハナから一言ある?」「あの時はホントにメンゴメンゴ」的な会話を毎週金曜日に放映している『Music Vacation』でするわけにはいかないのだ。 「は? 許されて戻るに決まってんでしょ? あんたが勝手に出ていったんだから」  そうだよね。うん。ミズキはそういうヤツだよ。人の傷口に塩、だけではなくわさび、とうがらし、マスタードなどいった劇物をなんの躊躇もなくすり込めるタイプの女子ですよ。 「ああ、うん。だよね~ははは」 「え? 何? 冗談? 分かりにく!」 「ははは、ごめんごめん」 「で、いつから戻る? 秋からツアーも始まるからなるべく早くしてほしいんだよね。来週とかさ」 「来週はちょっと難しいかな」会社ってそんなに直ぐに辞めれないのよ。 「じゃあ、その辺はおいおいってことで。また連絡するから。その内、うちのマネージャーからも連絡あると思うから。30代の独身イケメンだからいろいろと気をつけろよ~なんてね。じゃあね」 「うん、じゃあね」こっちは男関係ではいろいろ苦労させられた経験があるのよ! 「許してやる、かぁ……」言葉にすると少しへこむなぁ。  これで戻ってやっていけるのかな。  誤解というなら解けると思う。  でもお互いに誤解じゃないと思っている事項って迷宮入りだよね。  別れ話しかり、離婚話なりっていうのはこのお互いの主張の違いってヤツが最終的にはおさまりが悪くなり破局を迎えるのである。小説ではそれが喜劇になったり、悲劇になったりするが、現実では基本的には悲劇だ。  エターナルアイアンメイデンは好き。それはこの前の演奏でわかった。でも、少し違うと思う面もあった。  高校生じゃないからそれは仕方ないことだけど。  私はどうしたいんだろう? 「ハナちゃ~ん! 課長が呼んでいるわよ~ ハナちゃ~ん!」聞き慣れた日野森先輩の声がする。  日野森先輩は女性の私から見ても美人の類で間違いない。そのせいか私を探す日野森先輩に視線を向けるエロ社員―――訂正―――他社の男性社員が多い。  ふわふわしたおっとり系おねぇさんの優しい感じだとか、ちょっと童顔っぽいけど身体のラインがシャープなところとか、背が高く品があるところとか―――カラン、コロン―――  そうそう、靴がね、便所スリッパだったりとか―――? 便所スリッパ?  少し抜けている部分があるのも確かである。  今、このフロアには結構な人数がおり、そのほとんどの老若男女の視線が日野森先輩に向いている。    美しいからというのもあるだろう。しかし、今日は違う。 「先輩~。こっち、こっち」「あ、ハナちゃん」カランコロン。 「もう探したわよ? 課長が呼んでいるわ」ちょっとご立腹な先輩である。 「先輩、足元ですよ」「何よ? 足元って? 早く戻るわよ」気付いてないのか、天然なのか。 「先輩、あの~。靴、便所スリッパですよ?」 「ああこれ? いいのよ、パンプスだと足疲れるから。便スリ楽よ?」 「それわざとですか? なんで?」今まで気が付かなかった。 「うちのフロアは絨毯引いているでしょ? だから音しないのよ。一階は大理石風な素材の廊下しているけど。エントランスならではの高級感かしら?」 「あの? 恥ずかしかったりしませんか?」思わず小声で聞いてしまう。 その質問を耳にして、前を歩く先輩が振り向く。 「いい? ハナちゃん。社会人にとって恥ずかしいのはね―――」 「は、恥ずかしいのは?」こうやって見ると先輩は背が高い。きれい。 「仕事ができないことなのよ。それ以外は実はどうでもいいの。だから―――」 「だ、だから?」今日は威圧感もある気がする。 「ハナちゃんもしっかり仕事覚えるのよ?」 「は、はいです」  オフィスに戻る途中にミズキの言っていたことを思い出す。 ―――は? 許されて戻るに決まってんでしょ? あんたが勝手に出ていったんだから―――  大事なところで少し違う。  先輩も大事なところ以外はどうでもいいと言っていた。そう大事なところ以外は―――。 「先輩、今日ビアガーデン行きませんか? 昨日のお詫びです。奢りますよ!」 「ビアガーデン! いいわね! 行きましょう! あ、課長には内緒よ」 「了解であります! 日野森警部殿!」私はお道化て敬礼して見せた。いとこのケイちゃん(女)は確かこんな感じで敬礼していた。 「うむ……」日野森先輩の敬礼はまさしく警部といった感じで迫力がある。 「なんか強そうっすね」 「学生時代は演劇やってたのよ~。いまでもたまにやるのよ、演劇」 「え? そうなんすか?」先輩は演劇をやっているのか。  なにかを求道する者同士。それなら私の気持ちも分かってくれるかもしれない。 「先輩、今日相談したいことあるんですけど、いいすか?」 「いいわよ~。仕事でもプライベートでも。男性関係でなければなんでもオーケーよ」 「男関係はダメなんすね?」ちょっと意外な気がするような、やはりという気がするような。 「あれ? 男の子の話かしら?」先輩は口元に手を当てて少しニヤける。 「違いますよ! とにかく戻りましょう。セク原課長が呼んでいるんですよね?」 「ええ~? 男の子なんでしょ~?」  意外としつこい先輩を連れてとりあえずオフィスに戻った。  先輩が男の子、男の子を連発するものだからセク原課長のセクハラ攻勢をまともに受けてしまったのは言うまでもない。  それはさて置いて、今日のビアガーデンは楽しみだ。  
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