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夏の追憶
「8月とは日本全国夏休みなのである」
この不文律とも言える定義は就職してから覆されてしまった。もっとも大学時代の夏休みの定義は「7月中旬から9月中旬の一か月」になったため、定義の変更は二回目ではある。
「それにしても暑いよねぇ。ねぇハナちゃん?」
「……そうっすね。その『ハナちゃん』って止めてもらえます?」
「えぇ…かわいいのに。なんで?」
はいはい、名前だけはね。あたしの名前は「花江ハナコ」
一体、親はどういうネーミングセンスをしているのやら……。おかげで小学校の時のあだ名は「ハナハナ」(ナハナハではない!)、大学時代は「炭治郎」(これは某人気アニメのせいであるが……)である。
まぁ、余談ではあるが「ハナハナ」とかいうゆるキャラのようなあだ名ではあるが、目は細く切れ長であり、あまりかわいらしいとは言えない。背丈も女子としては高い方なので、切れ長の目元も含めて「炭治郎というよりはむしろ無惨」とか言われることもあったが……。
「それはいいとして……。今から群馬館林ってマジですか? 今年の夏を舐めてます?」
「ハナちゃん、言葉悪いわよ~」
このおっとり系垂れ目ふわふわゆる髪おねぇさんは会社の一つ先輩の「日野森しおり」さん。入社以来何かとお世話になっている。とは言ってもまだ四か月だけど……。このふわふわ感が、ある女性を思い出させるのは内緒だ。
とにかく、今日はこれから群馬館林まで原稿を取りにいかなくてはならない。先輩である日野森さんは「じゃあ帰りは高崎のハーゲンダッツ工場でお土産よろしくね」などと呑気なことを言ってくる。
ハーゲンダッツは魅力的だが真夏の群馬はいただけない。
「こんなはずじゃなかったんだけどなぁ……」
独り言も多くなる。ジリジリと肌を焼くような熱さの上に、ねっとり肌にまとわりつくような湿気。天然サウナか!? などとツッコミを入れたくなるのはこの暑さのせいだ。
……大学3年生の夏。あの時も暑かった。いや、関東は基本的に暑い。とするとひょっとしたらあたしの心が熱かったのか? 「心が熱い」というのはなかなかの青春ワードだと思う。
などと少し寒い感じで大学時代を思い出した。
厳しい受験戦争を終え、勝利を掴んだあたしはその反動とでも言うかのようにバンド活動に明け暮れた。まるで高校生の頃のように……。
高校生の頃からバンドはやっていたが、悲しいかな、金なし、コネなし、おまけに彼氏なしの三拍子揃っていたあたし達のバンド(「エターナルアイアンメイデン」というデスメタルバンド)は到底「現役高校生CDデビュー!!」などというセンセーショナルな事もなく、高校3年生の文化祭を機に解散となった。最後に演奏した曲はあたし達のオリジナルソング「ラストサマーミッドナイト」。デスメタルバンドのくせにゴリゴリの青春ソングだ。
高校生で引退だなんて。ああ、あたしのベースは泣いている……。
解散したばかりの頃はそう思っていたが秋が終わり、冬の訪れとともにそのようなノスタルジックかつセンチメンタルな気持ちは消え失せた。受験勉強でそれどころではなくなったからだ。
バンドはあくまで夢。将来をかけて挑むものとして捉えていなかった。
それは他のメンバーも同じだ。と、思っていた。
しかし卒業式のあの日、他のメンバーがあたしを除く3人で上京し、バンド活動を継続していくことを聞いた。それも人伝に。
「なんで……。あたし、聞いてないよ!」
「言ったよ! でもハナは受験勉強に夢中でちゃんと聞いてくれなかったじゃない!」
近くても通じない思いがあることを痛感した。そんな高校生最後の日だった。
その後、彼女らは新しいベーシストを迎え、某有名プロダクションにスカウトされ、メジャーデビューを果たしましたとさ。めでたしめでたし。
そういう事もあってか大学時代は狂ったようにライブハウスに通い、腕を磨いた。バンドが好きという気持ちよりも、元メンバーたちへの嫉妬心の方が強かったかもしれない。とにかく見返したかったのだと思う。
腕を磨くために即興で助っ人を請け負ったこともある。同じ大学のメンバーでバンドも組んだ。幸運な事にデビューが狙える実力者にも恵まれた。
しかし、メンバーのほとんどがバンド活動は大学時代の思い出作りのためにやっていた。本気なのはあたしだけだった。大学4年生の春には皆、内定をもらっていた。
いや正確にはもう一人、本気だったやつがいた。
それは当時付き合っていたあたしの彼氏だ。ギターボーカルだった彼は本気でメジャーデビューを狙っていた。内定を貰ったメンバーが欠けた後、彼とドラム、リードギターを探してなんとかメンバーを揃えた。
ライブでの集客も順調に伸びた。
そんなある日、某レーベルから契約の話を持ち掛けられた。渡りに船だった。
しかし、世の中そんなに甘くなかった。
彼氏はよりにもよって新規で加えたバンドメンバーのドラム女子と浮気しており、しかも卒業を前にした2月に妊娠が発覚した。髪が巻き毛のフワフワ女子、男がウケが良さそうな感じの。あたしとは正反対のビジュアル。裏切られた事に加えて、あたしの容姿が彼の好みではなかったことに気づき、余計に落ち込んだ。朝まで呑んでゲロゲロ吐いたのは良い思い出です。
結局そいつは夢を諦めて無難に実家の家業(老舗の酒蔵)を継いで、今では社長かつ一児のパパです。めでたしめでたし。
ギターボーカルはバンドのフロントマンだ。看板がなくなったことで某レーベルとの契約もなくなってしまった。もっとも、そんな二人を抱えてバンドデビューできるほど、あたしも大人ではなかったいうのもあるのだが……。
こうしてあたしは高校時代だけではなく、大学時代でも自分の夢を追いかけることも、掴むことも出来なかった。
高校時代は自分のせいで、大学時代は彼氏のせいで……と思いたくはないがそう思ってしまうところに自分の甘えがあるのだろう。
そんな経緯で今の会社に入社した。「文学部は潰しが効く」というのは本当で、わずかながら就職に役立ったのが唯一の救いだ。
ああああああ! つまんないな、あたしの人生!!
止めだ!止め! こんな事思い出してなんの得にもなりゃしない。毒です。もう正直、毒ですよ。
それより仕事があるんだからさ。今から群馬館林まで行くんですから。
あたしは気持ちにケジメをつけると下北沢駅4番ホームで北千住駅行きの電車を待つ。
そうなのだ。あたしは結局、未練がましく下北沢駅周辺の出版社に就職した。もうバンドでデビューを狙える年令でもないくせに。あの頃、本気になれなかったくせに。
「はい……。もういいんですぅ……」と、口にしてみたものの、全く気合が入らない。
今日は暑い。この暑さがあたしに過去を思い出させるのだ。館林から帰ったら日野森パイセンにビアガーデンでも奢らせよう。よし、決まり!
「電車がまいります。白線の内側までお下がり下さい」
駅でよく聞く「お下がり下さい」って、昔のアニメによく出て来る意地悪系お嬢様の「お黙りなさい」と文法的にはほぼ同じ作りだよなぁ、などと漠然と考えていた時だった。
不意にスマホに着信が鳴る。見ると馴染みのライブハウスの店長だ。武田源一郎。名前からはごつくて怖い古武士のような人物を想像させる。確かに見た目をそうなのだが、喋ると「オネェ系男子」なのだ。そのギャップに脳がやられる。
「なに? 今、仕事してんだけど?」
「ハナ、久しぶり。突然なんだけど、今晩由比ガ浜でイベントやるのよ。でね、エターナルアイアンメイデンのベースが逃げちゃって困ってるのよぉ~」
語尾を伸ばすな。語尾を! いや、待てよ……今、聞き慣れたバンド名が聞こえた気がする。
「え……エターナルアイアンメイデン?」
自分で口にしておいて、頭が真っ白になる。
「知ってるでしょ? 有名だもんね。それでねリーダーのミズキちゃんがね、どうしてもあなたじゃなきゃダメって言うのよ。あなた達知り合いなの?」
エターナルアイアンメイデン……。それはあたしが高校時代に所属していたバンド。
しかし、その事は誰にも言っていない。だから店長があたしとミズキ達の関係を知らないのも当然だ。
心臓がバクバクしている。「都合が良いだろ」という気持ちと「よくぞ声をかけてくれた」という気持ちが争っている。
自分の厚顔無恥さにも吐き気がする。
あたしは深呼吸して言葉を選ぶ。
「あのさ、店長。それで、今日の楽曲は?」
「あなた知らないかもよ? 『ラストサマーミッドナイト』って曲。青春ソングらしいわよ? あんたの好みじゃないわね。丁重にお断りするわよ?」
「……待って……」
「え? なんて?」
「待ってって言ったの!!」
自分の声の大きさに慌てて周囲を見ると誰もいない。北千住行きの電車がホームを出発した直後。
スマホが持つ手が震え、喉が渇く。店長は何も悪くないのだが、思わず大きな声が出てしまったようだ。
「何時までに行けばいいの? 合流場所の細部送って!」
そう言うと通話を切り、あたしは反対側の新宿駅行きのホームに立つ。今から新宿へ行けば湘南新宿ラインの出発に間に合う。
ホームの掲示板には「熱い夏! 武士の古都鎌倉に行こう!」というポスターが貼ってある。
いざ鎌倉……。上等じゃないの!
「行こうじゃないの! 行ってやるわよ!!」
ミズキたちが何を考えてあたしに声を掛ける気になったのかはわからない。ただの冷やかしなのかもしれない。成功した自分たちを見せつけようとしているだけなのかもしれない。そう考えると胃がキリキリと痛む。
しかし、今のあたしにこのチャンスを逃す手はない。そうなのだ。これはチャンス。何度も失ってきた、そして手にすることのできなかったチャンス!
取り戻そう「あたし」を。
店長から細部場所がメールで送られてきた。知ってる場所だ。「ベース準備しておいて。よろしく」と返信する。手汗でスマホを落としそうになる。
ホームに電車が入ってくる。
あたしは一歩踏み出し、電車に乗り込んだ。
「さぁ、待っていろ鎌倉!」と、気合いが入るものの、日野森パイセンには「急用のため館林には行けません。ハーゲンダッツは今度奢ります」とメールしておいた。
夢を裏切り、夢に裏切られてきたが、あたしは結局、あの頃から何も変わらないバンドマンなのだ。
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