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第百二十二話
「ここへ主人を呼んだ理由をご存知ね」
「知らないわ !」
見下すように冷めた目で沙織は答えた。
「知らないですって! よくもそんなしらじらしい事が言えるわね!」
ここで心を乱しては相手のペースだと思い、響子は気持ちを静める為に間を置いた。
「まあいいわ。あなたが誘った此の旅行についての答えを出してよ」
「もう旅は今日で終わって何もなかったそれで良いでしょう、だからもう賞味期限切れなのよ」
「何言ってるの! もう話にならない。あなた帰りましょう」
一緒に席を立とうとする春樹を見て沙織は「行ってしまうの」と慌てて立ち上がった。
響子の後に続こうとする春樹に「待って行ってしまうの」と云う悲しみの声に立ち止まり、さっきまで勝ち誇った顔が嘘のように引いてゆく沙織の、さっきと違った瞳を春樹はじっと見詰めた。それは輝きが失せてどこか手の届かない遠い世界を見詰める瞳だ。そしてそれは昨夜バスルームから出た時に、迎えてくれたあの沙織の瞳でもあった。
ドアのノブに手を掛けたところで振り返った響子は、一歩も動いていない、それどころか沙織と向かい合う春樹に驚いた。
「あなた何してるの」
春樹は尚も立ち尽くしている。
次第に沙織の眼が潤んでゆく。
彼女の正常だった記憶が歪みだした。
こうあってほしい、いやこうあるべきだと勝手に記憶を書き換え始めたのだ。
幸福に満ちた過去の特定の記憶が呼び覚まされて、眼前に現れる現象が途切れ途切れに過去と現在を往来する。
思い出したい記憶と忘れたい記憶の整理がつかなくなり、正常に戻そうとする神経が脳内で活発に活動すると別の神経が異常に高ぶり、痙攣と発作を引き起こしてゆく。そんな沙織に向かって春樹が歩き出すと響子は悲鳴に似た声を上げて「待って! 待ってよ、何処へゆくの?」と叫んだ。
突然、沙織が近付いた春樹に飛びつくとその胸元で泣き崩れた。
響子は次に信じられない言葉を耳にした。
「戻って来てくれたのね信之」
沙織は顔を起こして春樹を見上げると。
「何か言って」
と掴んだ両腕を激しく動かした。
「なんで死んだみたいに黙ってるの」
そう言ってから急に別人を見るように沙織は、一歩後ろへ仰け反ると両手が微かに痙攣を起こした。そして痙攣は頬に伝わり、瞳は宙に浮き、やがて痙攣の止まった頬が硬直するとその場に崩れ落ちた。
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