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「あー、もう! やってらんないっての!」
狭いアパートの一室から、鬱憤という名の力が漲った叫びが街に響いていく。陽はとうに沈んでいて、周囲の建物の窓にはまだ多く明かりが見えるが、外は静かなものだった。
玲奈が借りているアパートの一室は、外の風情ある夜間の街並みとは違って、騒がしい様子であった。既に床には、十個以上の空き缶が転がされていて、空になった菓子の袋も放られている。
「あーあ、明日も仕事、明後日も仕事、その次の日も仕事! どんだけ働いても、金は溜まんない! それに、仕事のせいで遊びに行く時間もない! どうなってんだよ、日本社会!」
玲奈がレモンサワーの三五缶を右手で天高く持ち上げて、何処に訴えているつもりなのか宙に向かって怒鳴り声を上げた。ひとしきりわあわあと喚き終わると、途端に静かになっていそいそと缶の開封に勤め始める。
プシュッという音と少々のアルコール臭が乗ったレモンの爽やかな香りが、部屋の壁に何度かぶつかって一室に満たされていく。
怜奈は長い亜麻色の髪を手で掻き上げることなく目の前の低身長な机に上半身を乗せて、にやついた顔で右手に持った開封済みの缶を眺めていた。机を挟んで対面に座っている由佳は、スーパーで買った焼酎のパックと二リットルのペットボトルに入った水を並べて、満面の笑みを見せていた。
「ねえねえ、見て見て由佳。私、こんな体勢なのに、一滴もお酒零してないんだよ。すごない?」
「すごいかどうか以前に、髪で顔が隠れてるから誰か分からん。ええと、誰ですか? あ、もしかして、受付の佐々木さんですか?」
「あっは。それ、あれじゃん! なべっちの元恋敵、佐々木さんじゃん! あー、今頃は彼女も幸せに彼氏とイチャイチャラブラブしてるんでしょうなぁ。いいなー。こんな、腐った果実みたいな女三人で集まって酒飲むなんてこと、ないんだろうなー。毎夜毎夜、ラブラブチュッチュッか。この件について、どう思いますかね、田辺さん?」
玲奈は上体を起こして、横でダウンしかけているショートヘアの女に、レモンサワーを突き出しながら問うた。
「れーな。喧嘩売ってるよね? 絶対、そうだよね? 人の失恋が、そんなに嬉しいのか!? 楽しいのか!?」
「楽しい! 面白い! だって、自分じゃないもん!」
「薄情者ー! 友達辞めてやるー!」
なべっちは力の抜けた声を精一杯発して、両手を上げながら床に寝転がった。なべっちの失恋が確定したのは、つい先日。同僚の佐々木なる人物に、自慢げに彼氏を紹介されたのである。その男が、なべっちが半年間想いを寄せていた男だとは知らずに。
「まあ、さっさと手を出さなかったなべっちにも責任はある気がする」
由佳は、氷が山盛りにされたコップの中に麦焼酎を注ぎながら言った。コップの七割ほどまで焼酎を注いで、そこに表面を覆う程度の水を注ぐ。これが、由佳お好みの焼酎の割り方だった。無駄に多く水を用意しているのは、チェイサーの役目も担っているからである。
「なんだよ、手なんか出せるかよ。こっちは乙女なんだぞ! そっちから、出せよ! いい胸してるだろうが!」
「そうだそうだ! なべっちの胸は、手に納まるいい感じのCカップだぞー!
揉んでやれよー! 形も綺麗だぞー!」
「だぞー!」
「一方その頃、例の男は佐々木さんの胸を揉みしだいているのであった」
「うわあぁぁーーーーん!」
ケラケラと笑いながら、玲奈はようやく右手に持っていたレモンサワーに口をつけた。ごくごくと、喉を鳴らしながら一気に半分ほどの量を流し込んでいく。炭酸の爽快感が喉に心地よい刺激を与えて、甘みと苦みとアルコールが、更に玲奈を陽気にさせていく。
対面で、由佳は完成した焼酎をゆっくりと口元に運んで、静かに口に含んだ。香りを楽しむためか、口に含んだ状態で一度深く鼻呼吸をして、その後、自然に任せるようにしながら舌にはわせて喉へと導いていった。
「「酒がうめぇ――」」
しみじみと呟く二人。
そんな二人の様子を泣きながら見ていたなべっちは、玲奈の太ももに頭を乗せ仰向けになり、手を挙げた。
「私にも酒」
「だーめ。なべっちは、もうおしまい。これ以上は、やけ酒になっちゃうからね。水で我慢しなさい。由佳、水ちょっともらっていい」
「――ん」
「ほら、なべっち。その状態でこの大きさのペットボトルは飲めないでしょ。起きなさい」
「やだ。もうちょっとれーなの太ももを堪能する」
「そうですかい。思う存分、堪能しな」
堪能している内に、どうやらなべっちは寝てしまったらしく、玲奈はなべっちの頭を左手で撫でながら、右手でレモンサワーを流し込んでいた。
「ぷはぁ! なべっち、こんなに可愛いのにねぇ。佐々木さんってのは、どんだけ可愛いのだろうかね」
「丁度いいブスだったんじゃない? 手を出しやすそうな、さ。きっちりしてる時のなべっちは、普通に美人だから、臆病なダメ男は近寄れなかったんでしょ」
「なべっちも自信、持てばいいのに。どうせ佐々木さん、巨乳なんだろうなぁ。巨乳でエロいの。男って、そういうの好きでしょどうせ」
見知らぬ男と女を無意識にディスってしまうのは、二人とも友人を大切に想っているからこそだろう。大切な人がないがしろにされれば怒るし、傷つけられればやり返したくもなる。二人の悪意に満ちた言動は、言わばごく当たり前の発言のようにも思えた。
「――で。由佳さんはどうかね? 学校の方は?」
「どうもこうも。学校の教師ってのは、正直なるもんじゃないね」
「やること多いし、安月給、みたいな?」
「それもあるけど、やっぱ、若い女ってのがきつい。まあ、どこでも一緒なんだろうけどさ、意外に生徒からの視線も感じることがあって、ああーどうすりゃいいんじゃい、ってなるんよね。その男の子のことを好きな女の子とかがいたら、もっと鬱陶しい。教室で、エロい目と嫉妬の目で見られ続けないといけないから」
「うえー。それは、確かにきついかも。子供だとは思っても、不快なのは不快だろうしねー」
「私がエロ教師とかだったら、男の子の欲求もウェルカムだったのかもしれんけどな。まあ、そんな教師、二次元の中だけだろうけど」
「現役教師が言ったら、世の男子生徒の夢が崩れるだろうが!」
「お前はどっちの味方だよ」
「佐々木さん」
「なんでだよ」
などと、くだらない会話を二人でしていると。
いつの間にか二人も、先行して眠っていたなべっち同様、眠りについてしまっていたようだった。
予め寝落ちすることを予測して玲奈は、スマホのアラームをセットしていて、午前六時に甲高い音が部屋中に鳴り響いた。
玲奈は重たい身体を這いずらせながら動き、何故かキッチンの方に転がっているスマホまで辿り着いて、起床の鐘を鳴らす現代機器を手に取った。
アラームを止めて、ゆっくりと身体を起こしてキッチンの床に座る。薄暗い部屋に、カーテンの隙間から陽光が差し込んでいて、一部だけが線状に明るい。
床には大量の空き缶と、中身が空になった焼酎のパック。そして、二人の疲れ切った社会人が投げ捨てられている。
カラカラになった喉に気持ち悪さを感じながら、玲奈はぼさぼさになった髪を掻き上げて大きくあくびをした。
「…………会社行こう」
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