夢の中へ

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「有馬先生、知ってますか? 古文の世界では、相手が強く思っているから夢にも出てくるってことになるんですよ」    小林の言葉の意味を測りかねて、俺は小さくため息をついた。  女子高生というより、俺はこの小林那瑠という生徒が理解できない。 「科学的根拠は全くないな。どちらかと言うと逆だろう。……おしゃべりをする余裕があるなら、プリントは終わったのか?」  俺の言葉に、赤点補習の最後の一人である小林は、 「物理は夢に出てきます」  と言って、補習用プリントを見せてよこした。    また訳のわからないことを。  そうだ。小林那瑠の言動はいつも不可解なのだ。  プリントにさっと目を通したが、普通に正解だった。  なぜこれができるのに試験になると赤点を取るんだ? いやまてよ。追試の結果も悪くない。まさかわざと赤点を取っているのか? 何の得があるというのだろう。 「小林はどこの大学志望だった?」 「〇〇大学ですけど」 「学部は?」 「理学部です。生物学科に行けたら行きたいんです」 「そうなのか。じゃあ生物の成績はいいんだな?」 「まあ、そこそこは」 「内申のためにも物理のテストももう少しがんばってくれ。今日の補習は終わりだ」  俺の言葉に分かりましたと小林は言って席を立ち、教室を出ようとして振り返った。 「有馬先生。私の夢に出てくるの、やめてもらえませんか? 困ってます」  小林は複雑な色を瞳に宿して俺に言うと、パタパタと駆けて行った。  は? 夢? さっきからなんなのだろう。  俺が小林を好きだと勘違いされてるのか?  俺はもう一度、さきほどの小林の言動を頭で整理する。  ……。いや、まさか、そんなはずは。  女子高生に踊らされてどうする、俺。  頬に熱を感じて、俺は教室から出た。秋の廊下はひんやりとしていて、今の俺には心地よかった。  ***    その日の夜。  不覚にも俺は小林那瑠の夢を見た。    授業中、目がたまたま合うと困ったように下を向く小林の笑顔を俺は見たことがない。  夢の中で小林は笑っていた。目を幸せそうに細めて。小さなえくぼが愛らしかった。 「有馬先生。本当は私、先生のことが大好きなの」  俺はガバリと身を起こした。ガリガリと頭を掻きむしる。    なんて夢だ!  教育者として失格だ!  自分という男が情けなくて、腹が立つのに、俺は思っていた。小林は本当に笑ったらえくぼができるのだろうかと。  小林の夢の中で自分はどんな表情をして、どんなことをしているのかが気になった。  ***  俺は小林の夢をポツポツと見るようになった。  小林の言葉が蘇る。  『有馬先生。私の夢に出てくるの、やめてもらえませんか? 困ってます』  本当だよ、小林。俺の夢に出てくるのをやめてくれ。気になって仕方ない。  小林は今も俺の夢を見るのだろうか。  あの補習の日以来、物理の赤点を取らなくなった小林は、共通テストの結果もよく、志望大学を受けたと聞いている。  明日は小林の学年の卒業式。  嬉しいような、寂しいような、もやもや悔しいような。  思いが強ければ、相手の夢にまで出られるというのなら、そうだ、俺が小林の夢に行こう。  「小林が卒業しても会いたい」  夢の中でそう言って、この不確かで奇妙な気持ちを解明するのだ。  考えて、馬鹿馬鹿しいと思った。  こんな非科学的なことを思う自分はどうかしている。  ***  卒業式当日。  俺は物理教室でブラックコーヒーを何度も喉に流し込みながら、自分の心を持て余していた。  卒業おめでとうぐらい言ってもいいのだろうか。  でももう帰ってしまったかもしれないな。  そのとき、コンコンと控えめなノックがなされた。  ドアのほうを振り返ると小林が入ってくるのが見えた。 「有馬先生」 「……ああ。卒業、おめでとう、小林」  口から勝手に出た祝いの言葉に、小林は嬉しそうに笑った。現実の小林にもえくぼができて、俺は驚きと嬉しさで胸がいっぱいになった。  やっと小林の笑顔を現実で見られた。 「ありがとうございます。有馬先生。それから……」 「うん?」 「赤点補習ではお世話になりました」 「いいや。大学試験の出来はどうだった?」 「自己採点では受かるのではと思います」 「そうか、良かったな」  もう会えるのは最後かもしれない。それなのに、俺はなんと言っていいかさえわからない。   勉強ばかりしてきて、恋愛にうとい自分が情けなかった。 「有馬先生」 「うん?」 「先生の夢にも私は出てきてますか?」  小林の言葉に俺はしばし絶句した。  これはどう捉えるべきか。正直に言っていいのか。 「私、毎日、先生の夢に出たいって思いながら寝ていました」 「……非科学的だな」 「そうですよね」 「だったら俺は昨日、小林の夢に出てきたか?」 「え?」 「俺も願ったから」  驚いたように小林が俺を見つめる。小林の瞳に涙の膜が輝いたかと思うと、両目から洪水のように溢れ出した。 「な、泣かないでくれ」  慌てて白衣の両ポケットを探り、出てきたポケットティッシュを小林に渡す。 「夢以外でも会いたいのだが」  俺の言葉に、小林は泣きながら微笑んだ。  やっぱり小林の笑顔は愛らしいと思った。                了          
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