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「僕は嫌だ!!」
そう叫ぶことができたのは、もちろん帰宅後一人になってからである。
喫茶店の席ではこう言った。
「天才かよ」
「まあね」
そう言って得意げに笑う彼女の歯には、相変わらず小豆の皮が張り付いている。だが、それを指摘する元気すら失われていた。失われたエネルギーを補充すべく、僕はぜんざいを三口ほど飲み込んだ。
「で、どこに行きたいんだ?」
「イタリア」
「なんで急にイタリア?」
「ほら、私ってオペラ好きじゃん」
「初耳だが」
「新年だけに?」
わかりにくさ満点の発言をスルーし、改めてオペラが好きとか言い出した理由を尋ねてみる。
「テレビで見て……」
「理解した」
郁美は何かと感化されやすい。その感化されやすさが活動的な彼女を産み出しているといってもいいので、それについて全否定するつもりはない。
「それに私達が付き合い始めて三年の節目が今度のGWに来るでしょう。だから記念に派手に行くのもありかなって」
記念。いろんなことの理由付けに便利な言葉だ。
「ね、お願い」
こくん、と小首を傾げる郁美が芸術的な可愛さなのは言うまでもない。もしも海外でなければ。そしてもしも彼女の歯に小豆の皮が張り付いていなければ、僕はこの場で大賛成していたことだろう。だが、彼女の求める行き先が海外で、彼女の歯には今も小豆の皮が張り付いていた。
だから僕は言った。
「ちょっとだけ時間頂戴」
「えー、なんでぇ」
「いろんな調整が、ね?」
君も社会人ならわかるだろ、の空気を感じ取ってくれたのか、彼女は渋々頷いてくれた。
「パスポートとかも取らなきゃいけないんだから、早めにね」
「もちろんだよ。それと、歯に小豆ついてる」
「早く言ってよ!!」
添えられていた茶を流し込み、バッグから取り出したミラーで歯のチェックをする郁美を見ながら、僕は考えていた。郁美のお願いは聞いてあげたい。でも、でも……。
という事でその日は解散。帰宅後の第一声が「僕は嫌だ!!」というわけだ。
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