6 旅の終わり

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6 旅の終わり

 旅程は残り、1,000キロメートルを切っていた。  ここまで来るとタキオン密度は1立方メートルあたり1個あるかなきかにまで減っていた。バザード・ラムジェットの出力は目に見えて落ちていたが、代わりに滅多なことでは過去へ戻されることもなくなっていた。これだけ外縁に近づくと、エントロピーの流れはほぼ正の値に固定化されるらしい。 「ねえコレチカ、外へ出たらなにがしたい?」  彼は愕然とした。いままで考えたことすらなかったのだ。「わからん」 「コレチカらしいや」ミナコは声を上げて笑った。「あたしはね、外のヒトに会いたいの。〈球状世界〉とどれくらい違うんだろうね。ねえ、ワクワクしない?」  彼は幼児のころを思い出していた。父に見せてもらった、超光速望遠鏡でのぞいた外の世界。トーラス状の構造物。「確かに気になるな」  二人はしばし、外に思いをはせた。やがてミナコがぽつりとつぶやく。「……一緒にいけるといいね」 「当たり前だ。俺たちは一心同体なんだから」  オドメーターの踏破距離は156,900キロメートルを指していた。残り100キロメートル地点にまで到達したのだ。コレチカが旅立ってから、7億年が経過していた。  彼らはトリオに会ってからというもの、病的なまでにシステムの保守点検に精を出した。バグは芽のうちに摘み取り、村があれば必ず立ち寄ってリペア部品をわけてもらった。  二人は見返りとして自分たちが辿ってきた旅の様子を話してやった。光速が意味を持たない〈球状世界〉では原則、情報を伝える手段がない。村々は互いに孤立しており、冒険譚は村人の無聊を慰める格好の娯楽であった。  いまや速度は限りなく0に近づき、1年で1ミリメートル進めば御の字というところまで落ちていた。タキオン密度が疎らすぎるのだ。 「ちょっと思ったんだけどさ、もしかしてあたしたち、永遠に出られないんじゃない?」  コレチカもそう思っていたところだった。速度の減衰率が高すぎる。計算では外縁の5キロメートル付近でいまくらいのスピードになるはずだった。「なにかがおかしいな」 「質量を軽くしないとダメなんじゃない?」  やむなく彼らは不必要な部品をパージした。速度は多少改善されたものの、焼け石に水である。なにか根本的な原理を見落としているという一抹の不安が、二人の心を絶えず乱していた。  さらに2億年後、二人はついに外縁から数ミリメートル地点にまで到達した。事実上速度計はゼロを差しており、因果律は限りなく正常に近い。エントロピーの奔流が目に見えるほどであった。 「ミナコ、気づいてると思うが」コレチカは切り出す決心をした。「ここ100万年ほどのあいだ、俺たちはまったく進んでない」 「やっぱり外縁には出られないってこと?」  タキオンの確率分布が0(もしくは0.0……1=0)である以上、おのずから速度も0になる。仮にボース・アインシュタイン凝縮脳だけを残してボディをパージしたとしても、推進力が得られないのなら同じことだ。  数ミリメートルはほんの目と鼻の先だが、そこには登攀不可能の大岩壁がそびえ立っている。これを越えるにはタキオン以外のなにかが必要だ。それこそ奇跡に等しいなにかが。  二人が停滞を余儀なくされてから幾星霜、ついにミナコが解に辿りついた。「真空のゆらぎだよ」 「真空のゆらぎ?」 「ここを越えるにはトンネル効果しかないって結論になったじゃない? トンネル効果は偶発的な事象だからここらへんにとどまってれば、いずれ向こう側へ出られるって話してたよね。でもあれからどれだけ待ってもそんなこと起こらない」  彼らはトンネル効果を期待して1億年は待ったのだ。確率的にそれが10回は起こってもよいだけの年月である。 「なにかきっかけがいるんだよ。それが真空のゆらぎなんじゃないかな」不思議なことに、妙案を閃いた者が示す快活さはなかった。 「で、そのゆらぎとやらを起こすのにはどうしたらいいんだ?」 「その前に聞いておきたいんだけど、どうしても外へ出たい?」 「もちろん、それが俺の悲願だ」 「後悔しない?」 「しない。どんな手段を使ってでも俺は外へ行く」 「コレチカ、ひとつ約束してほしいんだけど」 「なんだよ、急に改まって」 「外に出てもあたしのこと、忘れないでね」  ようやく彼は気づいた。「おい、なにやってるんだ――」  二人の連結が解かれた。「さよなら」  ミナコはそっとコレチカを押した。タキオンでの推進力ではないのでコレチカは動かなかったけれど、作用-反作用は厳然と働いた。ミナコは反動で特異点方向へ落ち始めた。彼女がみるみる遠ざかっていく。 「あたしのこと忘れないでね……」  その瞬間、わずかな作用のほうの力が真空へ干渉し、ホーキング放射が起こった。コレチカは電子対創生のため、反対側へとあっという間に吸い出された。
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