2「切り裂きダーキニー」

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2「切り裂きダーキニー」

 神社の裏手に無数の刃物が散らばっている。  なんだよあれ、と思わず言ってしまうのも無理はないだろうに。それを耳ざとく聞かれてしまっているのが余計にマズい。  塀の外にいる詩音の顔の横を、地面に落ちているものと同じ刃物が飛んでいく。  というか頬を掠めた。  右手で痛むところを押さえると、かすかなぬめりを感じる。  それ以上に塀越しにこっちを睨むなんだかアレな人の眼が怖かった。 「よーし、今日の夕飯」 「食人鬼だーーーっ!」  ダッシュで逃げようかと思うも何故か先回りされている。  相手の右手にはすでに刃物が、何というか医療用のメスにも似ているナイフがある。  町中で、神社で、なんで人が狩られそうになっているのかと不思議でたまらないが。  いや、しかし。  散乱する刃物の割には、肝心の獲物がどこにも見当たらなかったような?  骨とか臓器とか。  食べ残しくらいあってもおかしくないのに―――、と思ったところで雑に首根っこを掴まれて運ばれていく。  こんなゲームあったよなあ、と場違いに思い出して。  だったらどこへ逃げようって言うんだ、と変な感想が続く。 「おりゃ」 「って、なにを」  反射的に睨みあげる。ぎっ、と力の入った視線に向こうが怯むこともなく、つまらなそうな息を漏らしていた。 「なんだよ、ちっと遣いにでも出てもらおうかって思っただけでよ」 「…………、捕って喰われるかと」 「さすがにそこまで無差別じゃあねえな」 「そう、か」 「っつうか、その反応。おれが人でないと解っているような物言いだな」  ぎくり、と肩の辺りに痛みがあった。そういえば、ここに至ってまで相手が神種の類だと名乗ってすらいない。  それでも詩音が相手を「稲荷神」だと認識できていることに気づかれた。  自分でも気づいたからこそ、感想が「なんでだこれ……」になっている。 「ま、いいさ。とりあえずこっちにきいよ」  変な言葉に聞こえた。  来るように言われているのはわかったが、西の方の訛りと気づけば判りやすい。 「そういうところかもしれないけど」  つぶやいた言葉は聞かれていないようだ。 「小型のナイフばかりあるんですね」 「結構前に倉庫に放り込まれてなあ、腐らせるのも……錆び付かせるのももったいねえしな。廃品って訳でもないし、どういうわけかはよう知らんね」  不思議なこともあるものだった。  街の真ん中にある稲荷神社、その社殿に入ったことはないはず。  遠い昔にあった気もするけど。七五三か何かだったか? 思いながら見回していると、その奥に蜃気楼めいた壁を見る。 「おおい、こっち」  引き戻されてみれば、目の前に大きな芋がある。  長芋だ。 「大きい奴がたくさん……」 「おうよ、寧ろこれしかねえから処理に困ってる」  大量にあるが、供え物なのかな。 「んでさ、せっかくあるのに余らせんのも嫌だから人でも呼んで炊くかって思ってな」 「芋煮会ですか。この地域じゃあ珍しいですね」  長芋を煮るっていうのも厳密には違うけれど、この地域の特産なのだからそれでいいとしか言えない。  それで、遣いに出せる人を探そうとしていたところらしい。 「いつもの奴が所用で遠出してるっつう話でさ」 「それは間の悪い……」 「で、目が合ったからお前でいいか、と」  本当にタイミングが悪くて困る。  何をするんですかね、と訊いた。 「まあ、まずは他の食材の調達かねえ。やっぱ肉とか野菜とか、いろいろ種類欲しいだろ? 近くに山でもあればおれが獲りに行くんだがね」  市街地に商店がいくらでも並んでいるのに、その方向性が優先される辺りが人とは違う感性なのかもしれない。  考え込んでいると、尻尾で殴られた。結構痛い。  頭髪と同じ濃い金色の尾、柔らかそうと思っていたがそうでもないようだ。 「どれくらいあればいいんでしょ」 「まあ十人分くらい、買ってくれや。詳細は任せるし、予算もこっちで出せる」 「予算……?」 「ほれ、あっこにある賽銭箱。実は大きな札とかいくつかこっちで取ってんのよね」  管理者は気付いていないだろうが。なんて言いよう、いつからやっているのか人の側では分かっていないのかもしれない。 「学生さん、狐に憑かれているね?」 「……、言いようによってはそうなりますが」  すごく怪しい占術師みたいな人に絡まれた。日が照っているなかで暗い色の服を被っていて、暑くないのだろうか。  最初の感想で立ち止まってしまって、相手の話をあまり聞けていない。 「頬のあたりの傷とか、それっぽく見えるし?」 「そうですか? 気付いてなくてわかんなかった」  左の頬に確かに違う感触がある。  何の意味があるかはよくわからない。 「あまり気にしてないようだけど、もう少し警戒はした方が良いよ? あまり変なものに関わると身を滅ぼすだけだ」 「……今更なんだよなあ、そんなの」  反射的な呟きに、向こうは眉をひそめた。別に相手がどう思っていようとどうでもいいけど、目の前で判りやすく態度に示されると少し引っ掛かる。  むう、と向こうはその様子も気取ったようだが。 「それで構わないというなら、それでもいいけど。ならば拙僧も止めに掛かるまでだからね」  変な一人称、が先行して力ずくな性質を聞き逃しかけた。  ここでいきなり喧嘩か? 即座に身構える敏捷性は足りていない。  まあ人の集まる商店で暴れるような無謀さはどちらも持っていなくて、向こうも特に飛びかかってくることはなかった。 「君は乗せられやすいようだからねえ、本当に危険なものも見落とすかもよ」 「曖昧な表現は嫌いなんで。言いたいことがあんならはっきり言ってもらえませんかね」 「神種とこれ以上関わらないで」 「環境次第だな。必要がないなら離れていくだけさ」  多人数で騒ぐのが苦手なわけじゃない。  実際は苦手だけど、楽しそうな人たちを遠くから眺めている方が好きなだけだ。  当事者になりたくないなんて変な忌避、自分でもよくないとは分かっているんだけど。 「……重い」 「言うほど表情には出てねえな」  神社の境内に帰ってくると、肉咬の声がすぐ近くで出迎える。  お疲れさん、と詩音の持っている荷物を軽く持ち上げて運んでいく。 「これで二割にも届いてないんですね」 「そうだなあ、なんだか話が大きくなってきてさ」  近隣の似たような神種が集まる宴会になるらしい。時期としても花の咲く時期なんだから、そりゃあそうなるか。  いいように使われているなあ、となんだか腹が立つ。  そんなこと言えるわけないから、黙って次の買い出しに行こうと思っていた。 「……あれ、こんなにあったっけ」  明らかに違う人物の調達したであろう食料が、参道の脇にうず高く積まれている。  特に処理とかもされていない生の野菜とか、魚もある。  クーラーボックスにでも入れておいた方がと思ったが、台座になにか霊符のようなものが貼り付けてあるのが見えた。  何か詩音には分からないような保存方法でもあるのだろう、そう判断して気にしないことにした。  社殿の方に向くと、足元に誰かが居てこちらを見上げている。  誰だろうと思えば、なんだか肉咬に似た姿の小さな姿。ブラウンの髪と尾の肉咬と違い、白い色調で揃っている。 「……もしかして、遣いの白狐さん?」 「うん。なんかまた変なことやってるなーって思ってたら、人を使って何をしてるんだろうね」  ぼくがいるというのに、なんて不満そうに呟いている。  まあ役目を奪われたようで面白くない気分なのは、詩音にもわかる部分がある。 「まあ確かに、俺でなくてもできることだとは思うけど」 「それなのに、いつも違うこと指示してくるんですよ兄貴は」  兄貴呼びかあ、と変なところが気になった。どういう関係性なのだろう、そう考えるも問い質す気にはならない。  とりあえず、と白狐の少年は詩音の持っている荷物を受け取って運んでいく。  そうなると次のタスクをこなすことになるが。 「さて、見えないのに空気が騒がしいな。今のこの場所には長居はできなさそうだ」  皮膚の一枚下が怖気立つ。染み入るような恐怖は何の理由か。  考えない方がいいとその場で回れ右、不穏を無視して境内を出た。 「神に善悪なんて存在しないから、むしろ厄介だ」 「……、なんだか面倒だな」  そんな風に呟いて、詩音が大通りを神社に戻る方向に進んでいく。  何故か隣には人ではない頭をした人が歩いていた。  カイコガの頭部を模した―――いやそのものだろう、そんな人が平然と街を歩いていても騒ぎにならない。  人通りの少なさとかではない。むしろ車通りが多くて目にはつきやすい。  やはり目に映らないからなのだけど。 「どしたー、萎れた目ぇでこっち見やって」 「んー。少しだけ気が滅入ることがありまして」 「気にするこったねえよ、忘れ、わすれ」 「気にはなりませんよ。直後だから引きずってるだけです……いや、呑みませんよ?」  向こうの手にあるカップの酒を寄越されそうになる。当然未成年の詩音は受け取るわけにはいかない。 「酔えば忘らいる、それもできんと難儀だねー」 「仕方ないことですよ。結局は向き合わないといけないし」  この人も宴会に参加するのか、と訊いたら。  当然、呑めるからと返ってきた。  楽そうでいいな、と思った。少し羨ましいが、気ままな人生なんて張り合いがあるのかとなんとなく思う。 「楽に生きる、楽しく生きるってどうすりゃいいんでしょうね」 「……敢えて厳しいことをしてみるとか」 「逆説的ですね」 「落差が大きいと楽しくなるさ、溺れられたら求めるようになんしよ」  麻薬的。  聞いたことはあっても、そういうものという実感はなかった。  ドーパミン、エンドルフィン、オキシトシン、そんな物質。 「簡単に得たいって言ったら」 「自慰行為」 「…………。そ」 「そういう答えを求めてないって言うんだら、他には賭博とかになんべ」 「破滅的ですねえ」  そういうもんだろと返ってくる。 「命も時間も消耗品だ、哲学もいいが足を動かした方が楽だろうさ」  痛いところを突かれた気がした。数秒の放心の間に次の酒を呷っているのには何も言う気にならないけれど。 「袋ん中にカップ麺あんねえ、しかもたぬき蕎麦たぁどういうセンスだが」 「そういうのって嫌がりますかね、あの人」 「さあ。肉咬(あいつ)は美味けりゃなんでもいいタイプだ、あんまし気ぃ悪くさることもなかろうよ」  じゃあいいか、と気にしないことにはした。  結構資金が余っているから、菓子とか大量に買っていってもいい気がした。  カップ麺はそういう点で少し合わない気がするが、後の祭り。  神社に戻ってきた時、何が起こっているのかを理解するのに十数秒かかった。 「狸の群れが居ついている……?」  ってかこの地域に狸とかいたっけ、と考える前に。  肉咬がその群れを追い回していた。  両手で鷲づかみにした狸を、境内の真ん中に置いてあるでかい籠に放り込んでいく。 (採集活動のようだ……ゴミ拾い、は違うかな?)  ぼんやりしていると、詩音の足元にも寄ってきている。  あまり人を恐れていないようだった。  とっさに後ろに引こうとしたら、そこにもいる。  どういう訳か鳥居の外からは出る気がないようで、不自然にスライドしている様が見える。 「障害物判定でもあるんだろうか」 「いいから集めえよ、野放しだと準備でけんて」  肉咬の方がなんだか切羽詰まったような言いようだった。  よく見ると、さっきの白狐も忙しなく走り回っている。 「……、っと」  手で掴もうとすると威嚇される。  やはり危険を感じるくらいには人間だと実感した。  かといって手を貸した方が早いのだから――― 「痛い痛い、痛、痛えって!」  腕のあちこちを噛まれながら狸を運搬し続けるしかなかった。  血が流れて空気にしみる。放っておいたら変な病気になりそうで、そっちの方が恐ろしい。 「時間食ったなあ、旨くもねえもんは要らんのに」 「食にこだわりますね……?」 「そういう奴だからさ」  そうですか、と返す他になかった。  稲荷神は農業、産業の神だとか聞いたことはあるのだが、聞きかじりの知識で語れることはない。  そもそも稲多気肉咬にそんな自負も感じない。  本当に存在しているだけといった印象の方が強い。 「せっかくでっけえ釜を組んだってのに、邪魔されると敵わねえな」  意識から外れていたのか、すぐ近くに大きな釜―――ガスコンロの方が正確だろと思うくらいの加熱機器が置いてある。  十畳ほどの広さを占めていたのに、どうして気付かないのかが不思議だったけど。 「さっきの狸どもも炊いて食えばいいかな」 「結構小さい子とかいましたけど?」 「……ふうん、まあ幼体はあまり旨くもねえし放すべきだろうが」  そんな話をしていたら、籠の中から抗議らしき声が聞こえる。詩音には何を言っているのかよくわからない。 「へえ、それは聞いたことがあるが、警鐘っつってもな。多分だが、こないだ捌いた気がするんだよそれ」 「―――え、そいつ再生すんの。ほんとかい、何度でも獲れるんじゃねえか」  いい獲物っつうか、尽きない食糧とか最高じゃねえの。  肉咬は心底楽しそうに呟いている。 「おい、おまえ。いい食い物の当てができたから狩りに行くぞ」 「唐突ですね……ってか俺も行くの⁉」 「手を借りるってのはそういう意味だぞ、せめて壁くらいにはなりぃよ」  ひでえ、とは言えそうもなかった。 「撒き餌にされたらどうしよう」 「アレは人を喰わないんだよ、不思議なことに……不思議でもないのか」  不思議だと思っている辺り、人類も彼らの間では被捕食者と思われているのがわかる。  フィクションではよく見る表現で、そしてそれがどこまで真相を突いているのかと考えた。  市街地から大きく離れた藪の中。  この近辺で大型の生物でも居るのだろうか、と考えるがあまり見えないだけでいるのは確かだろう。  じゃあ撒き餌ってどういう意味だろうか、考えると周囲が見えなくなる。  気付いたら目の前に何かが居る、ように感じた。  ふっと視線を上げても、それに焦点が合わない。 「透けていて、同じくらいに」  壊れそうになるほどの圧力?  殴られた、それとも弾き飛ばされた、か。  背中が地面を擦って熱く痛い。  人を喰わないとは何だったのか、聞き違いだったかもしれないと考えを巡らせるもそんな暇はなく。  追撃が来る、と本能か経験で判断した瞬間には真横に転げて予想できる射線から離れていた。 「黒い、鹿? こんなものがこの近辺に」  呟きに反応して視線が詩音に向いた。  ひどく人を厭うような、粘ついた視線に射すくめられる。  それも二秒、他者に対して興味を持たない詩音には、それを読んで忖度なんて選択肢はない。恐怖に痺れる両脚をむりやりに動かし、手ごろな石を投げつけた。  投擲は苦手で、飛ばないしあらぬ方向に飛んでいく。  向こうが動き出すまでのラグの間に、三回。  当たれば御の字、当たらずとも挑発程度。 「どうせ俺は囮なんだs」  言い切る前に、鹿の角が詩音の鳩尾を激しく突き上げた。  肺が割れそうになるくらいの衝撃、息を吐き出すなんて表現にもならないくらい、頭の天辺まで圧力で詰まっていて。  身体全体が破れそうだった。  水風船のようなイメージが走馬灯だったら、ちょっと嫌だなあ……。 「両角、貰った」  遠い場所で、肉咬の声が聞こえる。  楽しそうに、面白そうに、そしてなんだか、  嫌らしく笑んでいたような。  ぴしゃ、と頬に血がかかってくる。  生臭く、体温の感じられる不快感に身をよじった。 「……っぐ、ぁ」  反射的に咳きこんだから、喉が痛むも呼吸が戻ってきた。  次に戻ってきた視界、酸欠でざらついた映像には肉咬が両手にナイフを持っている立ち姿。  あちこちを切り刻まれて動かなくなっている黒い鹿。  意識の薄れた目が、こちらを弱く睨んでいる。 「俺を恨んでなんになるんだよ」  こいつに恨みを買う理由すら思い当たらないのだが、何かしただろうかと不思議だった。 「何かになるだろうさ、それがこいつらの存在理由なんだからさ」  血塗れで笑う肉咬の姿は危険なことこの上ない。そう思った。  怨恨だと言う。 「いろいろな原因はあるだろうけどな、人の関わる事故なり病気なりで死んだ生き物の寄せ集め。だからヒトを恨むし攻撃的だ」 「それでヒトを喰わないなんてこと、あるんですか」 「ヒトが居なくなったら居なくなっちまうじゃねえの、生物的な本能で消滅を嫌って、殺せない」  甚振るのは好んでいるだろうが、と特に思うこともない様子で鹿を見下ろしている。  肉咬がそれを獲って喰おうっていうのも不思議だ。  鹿が吼える。  近寄るなという威嚇なのだろうが、そんなものを肉咬が意に介するわけもない。 「……、」 「変に慈悲を掛けるなよ、おまえには攻撃的なんだ」 「だけど」 「だから、喰うんだよ。無念が残るなら喰い尽くして呑み込めばいい」  それを供養と呼ぶんだろう?  そう言われて、詩音は何も言えなかった。  肉咬の持つメスのような刃物が何度も何度も閃く。  鬼を思わせる表情を、詩音はあまり見たくなかった。 「…………楽しんでると思われても困るんよ」 「じゃあ何の感情なんです?」 「血生臭え」 「顔しかめてただけだったのか……」 「さすがに血を回収まではできないからなあ、仕方ねえがそれ以外を持っていこう」  放っておいてもそのうち復活してくるしさ、と軽く言っている。  ゲームのモブみたいなもの、そう考えると不思議だと思うのだけど。 「ほら、そっち持ちな」  この場で粗く解体されている体躯を、持参した袋に詰めて運んでいく。  見られたらかなり言い訳の利かない図になるなあ、となんとなく思っていたのに、どうしてか街中を歩いていても一瞥もされない。 「マーキングしといてよかったな。そういう風に周りを誤魔化す奴だから」  頬についている紋様、その意味のようだった。  初めて聞いた効果のはずなのに、どうしてかそれを既に知っているかのように腑に落ちている感覚。  変だなと思うも口には出さなかった。  大通りをゆるゆると歩いていく黒い集団、きっと誰の眼にも違和感がないように映っている。 「便利なもんだ」 「世界が違うと認識できないだけだよ、こっちが見える人間なんて、それこそ希少だろう」  霊能者とか、神職とか。  言われてみれば昔から特別な職業だったり、特殊な体質だとみられるものばかり。  ついさっき遭った、あの占い師もそういうものなのだろうか?  詩音に対して狐憑きだと看破した、それが完全な出まかせだとは少し思えない。  名前を聞いておけばよかっただろうか。  ぼんやり歩いていると、大通りの真ん中あたり、官庁街のある道路との交差点の辺りから狐の少年がこっちに大声で呼び掛けていた。 「すまんすまん、と何度も言っていたからなー。ちいと信用が下がってんのよ」 「信用は大事ですねえ」  本当にな、と肉咬はしみじみしている。  何か思うところでもあるのかな、と思った。 「やあ、少年。邪魔しているよ」 「……どうやって潜り込んだんです」  あの占術師が何故か神社に居る。というか詩音の隣でひたすら長芋の皮を剥いていた。 「どうとでもなるよ、そういう手管はいくらでもある」  そういう人種よ、拙僧はとなんだか得意げだ。 「手ぇ痒……」  素手で触るからだな、そう言いつつ準備のために買っていた手袋を渡そうかどうか、少し迷った。  その場において放ったままにしたが。 「アレが稲多気肉咬、……瘴喰ダキニか」 「え、何ですそれ」 「大喰らいの呼称としてあるんだよ、あの(ひと)。食にうるさくて、それ以上に無差別に色々な食材を求めるもんだから、周辺地域の妖怪やら魔物やらが少なくなっててね」  暴走しそうなマクロファージみたいだ、と占い師は言う。  あんまりな言いようじゃないか、と考える詩音に。  君は少し甘いんだね、と見透かされた。 「甘い、って」 「異種族だというのに、その切り分けができていない。危険だよ」  それは分かっている。切り分けができていないというよりは違うものとして扱うことに意味を感じていないだけなのだが。  意思疎通可能で、同じ場所に立てるはずなのに。  解りやすく壁を置くことに違和感を覚えている。  それが危険だと言えば、それはそうだ。  家で熊でも飼おうなんて話と、実のところ同じことで。 「…………暢気だっていつも言われるよ」 「自覚があるなら、少しは気にかけておいてよ」  器用に長芋を切り分けながら、占い師はつらつらと説教を続ける。  長ったらしい説法は苦手だ。特に取り留めない愚痴に近いと感じるようなものにおいては、嫌いとまで言える。  聞いてほしいのなら、順序を守って唆せ。  そう言いたい場面がいくつもあった。 「死にたいの?」 「どうでもいい」  本心ではないけれど、しかし嘘ではなかった。  結局、大鍋だけでなくいくつかのサイドメニューまで用意することになった。  詩音にそんな大量の調理をするような経験など無いのだから、最後の方はほとんど見ているだけになっている。 「……味が濃いなあ」 「おれはともかく、集まってる奴らはそういうのが好みなんだ」  飯もそうだが、酒好きが多いからなとそこに対してはなんとなく嫌っているような態度を示している。 「それより、この蕎麦ぁもうないのか」 「もう、って……うわ、一ケース全部空けてんの⁉ 箱買いしても間に合わない速さじゃないか!」  たぬきそばのカップ麺の空き容器が散乱している。  他にも用意していたはずなのに、そればかり食べていた理由は何なのか。 「さっきの狸どもに見せつけたのさ、お前たちの名前を付けた食い物だぞ、って」 「……どんな反応で?」 「きょとんとされた。味気ねえ」 「…………」  そっちの方が面白かった。 「だから呑みませんて」 「場に流されないのは結構なこった」  なんで不機嫌なのか、と聞きたかったが今はどうでもいい。  気付けば夜中になっていて、家に遅くなる連絡なんてできているわけもない。 「……仕方ねえかなあ」 「仕方ねえよ、こんな状況で」  一日中何かアルコールを摂ってないと落ち着かないのか、ってくらいに呑んだくれている姿しか見てないぞ、このひと。 「そういえば、口ってどこにあるんです? 構造的にどうなってるのか、ちょっと気になっていて」 「ん?」  初めて訊かれた、とでもいうように首を傾げている。 「そんなもん気にしても意味ねがへ(無いだろ)」 「まあそうですけど」  蚕の成虫は口に当たる部分を持たない、と聞いたことがあるから気になっていただけで。  当人がどうでもいいと言うのなら、詩音にしても追及する気はなかった。 「馬刺しが旨え。もっと用意してくれりゃよかったんに」 「割と高いんですよ。ってか僕は食べたことないんですから」  仕方ねえなあ、と蚕頭をくるくる揺らしていた。詩音だって興味はあるが、それは後々でもいいと思っていた。 「……しかし連絡の一つも寄越さないな、こっちの家族」  帰ってこない、という現実に何のアクションもないと、少し不安になる。  しかしそれでいつも通りの挙動だと知っているのなら、あまり気にするようなものでもないのかもしれない。 「信用されてんじゃねえの? どうせ死なねえと思ってんならことさら探し回るようなこともねえべ」 「まあそれもそれでいいのか」 「にしても、肉咬のやつはいつまで経っても食欲旺盛だなあ」  呆れたような口調。  彼の見ている方に詩音も目を向ける。  そこでは肉咬が電気ケトルに水を注いでいるところだ。 「まだあったっけ、乾麺」 「拙僧が買ってきましたよー。市内のスーパーをぐるっと回ってさ」 「……もしかして、あそこにあるセンチュリー?」 「よくわかるね」  異質なんだよ。あんな車そうそう見ないんだから聞かれて当然だろ―――とまくし立てるのも何か違う気がした。 「二トントラックとかならもう少し面白かったかな」 「貨物を居住スペースにしてみたり」 「キャンピングカーでいいだろ」 「バスを改造してみるのもいいかもねえ」 「バス暮らしは絵面がいいけど」  静まってきた宴会場、今度は起きている誰かたちがこんこんと話し込んでいる。  遠くから水の沸き立つ音が聞こえていて、それに周りの樹に留まっているカラスが反応して鳴いていた。  薬缶が小さくアラームを鳴らした。  彼は楽しそうにプラスチックの器を掲げている。  たぬきそばのカップ麵、なんだか気に入ったらしい。 「これも要るだろうよ、やっぱりさ」  そう言いながら、カップ麺とは別に買っていたらしい厚揚げの袋を切っていた。  別にそんなナイフで切ることもなかろうに。 「楽しかったよ、またやるときには声かけるからよろしくな」  そう労われるだけで、十分に思えた。  眠い時間の蕎麦が、腹の底にじんわり熱い。
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