5「白霧蜿蜒ドラグーン」

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5「白霧蜿蜒ドラグーン」

 じゃくり、と奥歯が砂を噛んだ。  喉の奥からせり上がる胃酸の味に、余計な吐き気を催していて。  一回でこの様とは、なんて感傷に呑まれるようなこともない。 「っづう、ぅ」 「立てんのなら、それでいい。元よりそんな性根は期待していないからな」  湖を望む岩場の上、倒れたまま痛みをこらえている詩音に対し。地面を右手の杖で突きながら、岩渡青水は笑ってみせた。  面白くてとか、楽しいからとか。  そういう理由ではなさそうな表情だ。  仏像のような口角を上げているだけの表情、アルカイックスマイルだったと記憶していて。  そういえば元々は仏僧だったんだっけ、と思い出した。  ここまで武闘派の神と行き遭うことなんてそうそうなかったから、実感がなかった。  天と地の差と言えるくらい、人と神では性能差がありすぎる。 「……んで」 「こんな場所に居るのが不自然だったからな、特に囲われた場所に入り込める人間などそうはいない」  神社の周囲に居てさえ、それは難しいことなんだと青水は言う。  変に朗々とした口調が演技のような印象を与えてくる、この岩場が何かの舞台って訳でもないだろうに。  格闘ゲームのステージとかならあり得るかと思考が逸れかけた。  立ち上がる。左の脇腹が熱くて重い。骨でも折れているのかも、と思えばさっさと引き返して病院に行った方が良いのだろうが。  どうやらこの場所に入り込んだことで、この大柄な土地神に興味を持たれてしまっているのがよくない。  逃げようにも、周りが霧に閉ざされていて周囲の様子をうかがえない。  参ったな、一人で突破できるような相手じゃあねえし―――  場を凌ぐことに意識が向いている。その様子を向こうはどう捉えているのかを見るような余裕もない。  初撃で気息奄々、既に後がない。  ただ観光に来ただけで、なんでこんな状況になっているのか。  呪いたいくらい運がない。 「仰天も誓言もなく、周囲を見渡すのみ。―――良い、佳い。生を投げないことは好いことだ」 「そりゃあ、大概は簡単に死にたかないでしょう」  それでも理不尽に死はやってくる。  今、対峙している龍神のように。  こいつが俺の死だとはなんだか思えないけど、なんて直観は割と外したことはない。 (……まるでそれを実感したことがあるみたいだったな、今の)  ぼんやりした思考にまた逸れかけるが、あまり離れきらないのは危機的だからだろう。  逃げを打とうと足を動かして、痛みに咳き込んだ。 「…………っ、あ」  息切れで肺が痛い。  持久力がないのが昔から変わらず、だから走り始めてものの数分で脚まで動かなくなっていた。 「なんだ、ひ弱だな。そんなんじゃあ百年経っても帰れんぞ?」 「それは困るなあ……」  青水はそれだけ言い残してさっさと先に行ってしまう。  詩音とは目的が違うのだろうし、トレーニングのための走り込みを必要としていないのだから当然だった。  どういう訳か、ここから帰りたいなら自分に一発でも有効打を入れてみろだなんて条件を付けられた。  何を目的にしているのかが読めない台詞で、しかしそうしなければずっとここに閉じ込められたままになる。  何がなんでも達成しなければ、ということなのだが。 「既に三日は過ぎているみたいだけど、外じゃあ行方不明なんだろうな」  しかも神社のすぐ近くとなると、神隠しのような怪奇現象だとか騒がれかねない。  それは今更なのかもしれないが、早く帰るに越したことはないはずだ。  深呼吸で体力を戻そうとした。  霧のせいなのか、空気に含まれる霊気でもあるのか。  全身に冷たいものが流れて満ちる感覚が走る。 (まともに深呼吸とかしないからなあ)  岩場の走りにくさは負荷として結構重い。  慣れるまで走れば、それなりになるのだろうかと想像くらいはできる。 「腹が減ったなあ」  昼夜間断なく動き続けていれば、どれほど食事が多かったとしてもすぐに消費されて空腹になる。  高校生の時期なんて大概そんなもので、詩音だって大勢に漏れず食事量は多い方だ。 「肉喰いてえ。魚でもいい、米は……そんなでもないな」  たんぱく質を欲しているが、湖のほとりでは魚類かなとなんとなく思っていた。  決められたルートを走り終えると、既に日が暮れかけている。  暗くなってくれば今度は拠点の灯りが目立っていた。  火の色のはずなのに、なんだか青っぽく見えるのはどうしてだろう?  人魂のような原理とは違うようで、近くまで行けばごく当たり前の朱い篝火になっているのだけど。  完全燃焼の青い炎はあまり光源に適さないとも思うし、いいんだけど。 「……よう、遅かったな」 「分かってて言ってるでしょう」 「当然。いいから座り」  地面に置かれた焚き火、という割にはなんだか人間らしいというか。  現代のキャンプ用品を揃えているからだろうけど。 「慣れないか? もう三日目だろう」 「どうやってこういうの揃えるんです?」  単純な疑問に、手伝いが居るからだと返ってきた。人間の方に入り込んでいる協力者がいるらしい。神社の人間かな、と思うもそういう素振りは見せていない。  五色岩の辺りは神社から離れている。  意識的に距離を置いているような感覚があった。 「今日はその辺で獲れた鳥の肉、近くの川で獲った魚だ」 「炭水化物もください」 「分かっている、今日は街で米も仕入れたからなあ」  既に大きい飯盒が火にかけられていた。  その辺の鳥とか魚とか、勝手に獲って食ってはいけないはずだが、神に対して言うようなことでもないんだろうなと何も言わなかった。  人の範疇から外れている存在に対して、人のルールなんて意味を為さない。  岩場のコースを走っているとき、視線をあちこちに振る癖がある。  それをしていると、結構な頻度で木陰からこちらを見ている誰かと目が合う。  一瞬合って、向こうがすぐに居なくなるのだけど。  誰だろうと思ったが、今は気にかけている余裕もないので深くは探らなかった。 「誰なんでしょうね?」 「さあ、そこらの獣どもかもな」  警戒されて向こうから近づいてこないのかもしれない。  襲われるようでないなら、まあいいかと無視をするだけ。 「それよりも、本当に武道を齧っていたとは思えない弱さだな」 「…………本当、自分でも思うけど」  対戦形式の稽古、剣道だと地稽古とも言っていた。  十数回連続で薙ぎ払われて、それでもと言ったところで休憩に入っていた。  武器がないけど、あまり気にはしていなかった。  向こうの杖は何なのかと思う、けれどそれくらいを越えられないと本当に弱いままだなあというのはいつでも感じていた。 「だが、楽しそうだ」 「加減してくれるからですかね……ある程度安全が保障されているなら、むしろいい環境というか」 「まあそうだろうな。己のよくやる荒行に耐えられるとも思えないし」 「普段は何をやってるんです?」  訊いてみたら、鉄下駄を渡された。  それから、普段持っている杖も。  重い。少なくとも人が常用するものではなかった。 「定期的に三日ほど不休で読経とかさ」 「七二時間は無理だなあ」 「人の身でやったことだし、不可能ではないぞ」 「現代人は大概死にますよ、あなたが異常なだけです」 「神になるくらいだからなあ」  言いながら、がらがらと笑う。  人間の本来持つ性能から大きく外れてしまうと、神などの違う生物種としてみなされてしまうなんてことはよくある話で。  伝承に残る異形の存在は一定数、そういう外れた人間が比喩的に描かれていたんじゃあないか、と考えたこともあった。 「外から何かを感じたことはないか」 「走り込みの時に視線を感じますけどね」 「そうか」  何かを考えるように視線を空に投げている。詩音にはその意味を量りきれない。 「通信とか切られてるね」 「そういう場所だよ、ここは」  電源は入るけれど、電波を拾えない。本来の遠渡であれば通信なんて当たり前にできるのだから、ここが隔絶された別空間だとすぐに判る。  やはり青水が詩音を引き込んだと見た方がいいようだ。  けれど、何の為に?  既に一週間経っているが、きっとその程度では求めるラインには達しないだろうし。  向こうの本来の目的がはっきりしていれば、そっちに注力してもいいものだと感じていた。 「……ほっ」  向こうに背を向けた状態から、跳ね上がって蹴ってみた。  体を上下に返して青水の顔に向かって突くように蹴り上げる。  常人であれば到底できない動きを、こうも平然と出来てしまう異常さに詩音自身が驚いてしまう。 「っと、不意討ちも結構だが読み易いな、まだまだ」  左腕で受けられていた。蹴りが止まった数瞬のうちに弾き飛ばされる。  体勢が悪すぎて、頭を打たないように身を丸めるだけで手一杯だった。 「っでえ」 「受身の練習も必要だな」  思うよりもダメージは少なく、詩音も地面をくるりと回って立ち上がる。  まともに打った左肩が痛むくらいだ。  相も変わらず、青水はしきりに周囲を見渡している。 「何かあるんですか?」 「どうにも不安感がな。どこかに炎症でもあるような違和感をずっと―――」  この場所そのものに妙な感覚を覚えている?  まあ、それならこの挙動もわかりそうなものだった。傷とか腫れとか、気にして触ってしまうのは誰だってある。  実際には触れ続けるのは悪影響なのだけど。  しかし当人が自覚できていないものなら、放置するのも危険なものだ。  そんな風に詩音は感じている。 「だとしたら、探しましょう。気になるものは先に片づけた方が良いはず」 「それもそうだが、まずはお前の課題を片付けろ」  手加減なんかしないからな、と制されてしまう。  別に気を逸らすための台詞って訳でもなかったのに、こうも頑固だとこっちは困ってしまう。  こういう状況だと余計にもどかしい。  手の届かない臓器に痒みがあるような、そういう気持ち悪さ。  走っている時にでも自分で捜した方が良さそうだ、そんな風に感じてしまった。  丹曲湖(にわたのうみ)の辺りにまで足を延ばした。  遠渡のもっとも深い場所、最深部はマイナス三百メーター以上と聞いていた。  首都にある古い電波塔がほとんど収まるくらいの深さ、というのには恐怖を覚えるものの、この湖に特段の曰くなんてのは聞いたこともない。  もとより山岳信仰から続いている、上級霊地であれば不用意なこともそうないだろう。 「……底には何かあったりするのかな」  すぐ近くに生えている樹に掴まり、身体を支えながら水面を覗き込む。  霧が深いので、離れた水面にも薄く白いフィルタがかかってよくは見えない。  水の跳ねる音、水面から魚が跳んでいるらしい。 「ん?」  その跳ねた魚を、何かが捉えた。  人の姿に似たシルエット。だがその詳細までは掴めない。  水中にいる? それとも採取のために水に潜んでいるだけ?  少なくとも、人型である(・・・・・)ということが重要な意味を持っている。 「誰かが入り込んでいる、ってことのはずだ」  水中に居るのでは詩音には手の出しようがない。潜水の訓練など微塵もなく、完全にできないことの一つだからだ。 「……石でも投げこんで―――いや、いま刺激するのも違うか……」  一瞬だけ青水が潜水でもしている可能性を考えたが、しかし水に潜るタイプの龍ではないと感じていたので、すぐに否定した。  様子を見るくらいに留めて、場を離れる。  その前に軽く拳を振った。  衝撃でも飛ばねえかなあと思いながら。  少し離れた木立で、ばきりと音がなったのに驚いて、すぐに走り込みを再開する。  青水が案外近くで見ているのかも、なんてすこし恐々だった。  頬を切った拳が戻る前に、詩音の方が青水の目許を狙って手刀を突き出す。  躱されたのちの動きを往なされると同時に投げ飛ばされていた。 「お前は考えないで動くな」  最初から何度も言われていたこと、それを再び重ねられる。  思考停止で動けるほどの反射などない、だから常にイメージを持っておけ。  言われて。  イメージ、理想、真似事、モチーフ、――――何を真似る? 誰を模倣する? どのように写し取る? 「……例えば、流線状の拳法家」  見よう見まね、それで充分。  過去に見ていた映像を思い出し、それを取り込んだ動きを自分の五体に読み込んでみる。  一度見たものなら、思い出すなど容易だ。  角度を変えたり、動きを再現するのも、頑張ればできる。 「真似て学ぶ」 「然り!」  青水の表情が変わる。瞬間、詩音の意識も変容したのか、目に映っているすべての色合いが変化していた。  二メーターもない間合いから一気に加速し、相手の懐に飛び込む。  呆然としているようにも見える目の色、焦点の合わない詩音の眼は手足をどこに置いていくべきなのかを把握していた。  向こうの「手」を縫う。  こちらの「手」に対応される。  打って、抜いて、透かして、往なして。  早打ち将棋に似ている、と感じた。  体を入れ替え、相手の後ろに周り。  向こうも同じように体勢と位置を変えつつこちらの攻撃を受けないように立ち回る。  焦りを感じる前に間合いを切って、意識をリセット。  揺らいだらこの遣り取りが成立しない、と分かっているからだ。  息を止めて、さらに肉薄。  打ち合いではなく躱し合いではあるが、超近距離で何度も急所狙いの攻撃を繰り出した。  眉間を躱され、脇腹を躱し。  鳩尾を往なされ、こめかみを流し。  股間を透かされ、頭頂を引きつけ。  丹田を受けられ、足首を浮かせて。  ――――浮いた脚がそのまま跳ね上がり、青水の顎を薙いだ。  軌道を思い描くと、そのまま身体がその想像をなぞる。  顎を蹴り抜かれ、数瞬止まっていた青水の眼に強い光が灯る。  逆鱗、と脳裏によぎる危険な言葉。 「……宜し!」  青水がでかい声で宣言した。  同時に戻る前の蹴り足を掴み、詩音の体躯を振り上げる。  混乱して動きを止めている詩音には構うことなく、その体躯を軽々と放り投げた。 「――――――――‼」  何か言っていたようだが、詩音には聞き取れない。  そして投げられた方向は、湖の上。 (泳げねえんだよ!)  などと言っている間もなく、十数秒で落下に転じる。  着地先の水面を見れば、そこには何かが立っていた。  水の上に。  この湖には中に浮かぶ島などもなく、真ん中には地面なんて存在できないはずなのに。  何かも詩音の存在を認識しているようで、視線がしっかりとこちらに向いていた。  ひどく暗い視線、なんだか虫食いのように所々が欠けているかのように、周囲の空間が捉えきれない。 「なんだ、あれ」  問うて答えるとも思えず、だったら一度蹴っておいた方が良いだろうかと考えた。  イメージを脳内に起こし、その通りに身体を動かす。  どちらかと言えば、思考に身体が勝手についてくるような感覚だった。 「右脚で、撞く」  どこぞの特撮のように? なんて自問はすぐに切り捨てながら。  衝撃に拡がる大波を滑り、足場を探しながら水面に減り込んでしまう。 「が、っぶぁ」  喉から吐き出した水が淡水だけれど少し塩辛い。  想像を体現できる空間というのが理解できれば、水面に足場を持ってくることはできる。  霧の中にある神域が、本当にそういう性質を持っているというならともかく。  視線を向ける先、湖に立っている誰かがびりびりと震えながら詩音の方に向き直る。 「……■■■■」  人の言葉ではない。  これが何なのかはともかく、ここに置いてはいけないとすぐに判る。  ただ、人型の何かの顔には見覚えがあった。  それが誰なのかは、全く思い出せないけれど。  びぎりびぎり、空気が爆ぜるような軋むような、硬い音が響く。  詩音に向かって黒い何かが飛んでくる。  息を止めて躱し、右の上腕を掠めたときに痛みではなく虚無感に似た何かを感じた。 「なんだこれ」  一度壊れきったら修復できないような、取り返しのつかないレベルの攻撃。  止めないと危険すぎる、そう思いながら相手に向かって足を踏み切った。  脳内にある映像イメージを辿る形で、自身を外部から操作する感覚。自分自身がゲームか何かのキャラクターとなっているようだった。  他人事。  それが自分にとってもちょうどいいのかもしれない。 「喰い握り、ちぎり取る」 「切り分けて」  パーティション。なんて脳裏に浮かんでも、それにかまける暇はない。  打てば打つほどに、相手の身体は思うように細かくちぎれ飛ぶ。  だがそれ以上に、破片から拡がる虚無が周囲に飛び散り、手の届かない範囲にまで飛んで行ってしまう。 「くそ、こいつを消せばいいってもんでもないのか?」 「蒸散、焦山、仰山、包含、砲弾」  何かが聞こえた。意味が取れない。  ただ、詩音の真下から何か大きなものがせり上がってくる感覚だけがリアルだ。  カルデラ湖のこの場所、真下にあるならそれは――――  結論に行き着くと同時に、詩音はその場から大きく跳んで離れた。本当はそんなことで躱せはしないはずだが、範囲をかなり狭く絞っていたのか噴き上がる溶岩に呑まれるようなことはなかった。  そうしたら、移動の際に触れた黒い破片に喰われて一部の感覚が死んでいる。  痛みとか苦しさではなく、何も感じられないのがひどく恐ろしい。 「……戻れよ、なあ」  苛立ちから言ってみた。自分の中身まで思い通りにならないのが酷く苛ついて仕方がない。昔にどこかで見たような化物の再生を思い描くと、それと同じ光景が目の前に起こる。  高速の再生に見える。  実際どうなんだろうと考えるも、疑っている暇がない。  視線を上げれば、姿のよく見えない火山の神? そんな人物の姿が噴き上がる溶岩に乗ってこちらを見下ろしている。  溶岩サーフィンとか馬鹿だろ。 「冷えて、固まれば」  なんて言ったところで、特に向こうには反応もなく。何か違いでもあるのかと考えている間に、こちらに溶岩が飛んでくる。  向こうも詩音を敵と認識したようで、明確な殺意を向けてきた。  なんでこんなことになっているのか、なんて勘繰る余裕もなく、詩音の頭はあれに対処することが最優先になっていた。 「思い込んで、乗ればいい」  そこに気付いて、自分の中にトレースするキャラクターを作る。  ――――。  迫ってきた溶岩を右腕で払い除ける。  跳ね返すのは無理だと知っている(・・・・・・・・・)。  今はそういうもの(・・・・・・)だった。  湖のあちこちに火山礫が降っている。  五色岩の縁に立ち、青水は自らが呼び出した龍に指示して、穴が開いている空間と砲丸に似た大きさの礫を弾き飛ばしていた。  普段ならばこんなものを強引に捻じ伏せられるはずだというのに、今はそれができる気がしない。  不思議なものだった。  この地に居て、千年以上この場所を治めていたはずなのに。  神種としての力がまるで及ばないところから崩されている。  生体に巣食う病に似て。  空間を元から食い潰すバグ。 「火山神が迫り上がるというなら、ここも火山の領域に呑まれるか」 「本当にそうかな?」  真後ろから聞き覚えのない声が飛んでくる。  反射的に青水の杖がその声の位置に突き立った。  地面を軽く吹き飛ばして、細かく振動する杖の頭に足が着く。  見知らぬ姿の人物だった。青水の修験者に似た服装と通底する、しかし明らかに違う文化圏の衣服。  女性と見紛うような顔立ちと体格だが、しかし確実に男性だとわかる特徴を隠してはいない。 「誰だ」 「潤鐘(うるかね)鍛治(かぬち)。この姿じゃ初めましてだね」 「この姿? 他にあるとでもいうのか」  返答代わりに彼は顎をしゃくった。その先には噴き上がる溶岩と、その周りを跳ねる詩音の姿。 「あっちはあっちで暴走してるけど、拙僧の意思とは関係ないからねえ」  無関係、という言いようは言い訳にしか感じ取れない。そもそも引き入れていない男が能動的に神域に入り込む異常性を、どう感じているのか。 「駆除要員として対応できているのなら、あれはそういうものだって判るんでしょう? 人をあそこまで作り変えるのは例外的許容だって言うけど」  鍛治の視線は詩音をぼんやりと捉えている。  青色に光る眼に、何かの文字が浮かんでいた。 「……イミテイター、はっきり自覚は出来てないな」 「お前」  抑えてくれるかどうか、まだ判らないけどねえ。独り言を零して、青水のことなど気にも留めていない。  この場にいる時点で、青水も鍛治も同様の影響下に居て、空間が喰われるごとに負荷がかかっている。  口から、黒い血液が噴き出している。  腹部から、爛れた体液が滴っている。  口許を拭った青水に、笑いかけた。 「ここで死ぬなら、みんな終わりになる瀬戸際なんだよな」 「別に一蓮托生でもなかろうに」 「結果が同じならどっちでも」  無を埋める、黒が消える。  見えないものがなくなる、僕で埋める。  欠損、居なくなる、消えていた、それでも満たす。  想念、妄想、執念、妄執、架空、婉曲、歪曲、矮小に行かれてそれでも足りない。 「……、私の意思など関係ない」  詩音自身が誰をトレースしているのかも分かっていない。  それでも、自分だとはわかっている。  あちこちの空虚に触れるたびに、その隙間を縫い合わせて失くしていく。  そのすべてが自分の欠片で埋まっていくような感覚。その空白が、神域を壊すためのクラックコードで構成されているのが自然と頭に入ってくる。  自分自身を情報で構成している何かで覆っているからこそ、理解できる本質だった。  演じる行為が近しいものだとはあまり思わなかったけれど。 「だから、そう。お前を私で書き潰せば終わるんだ」  掌を向ければ、その意図を察して相手も詩音を空虚で潰そうとしてくる。  素のままなら、到底耐えられるものではなかっただろう。それを弾き飛ばす武装が、脳の書き換え、自我の変容というのは不思議な話だった。  走る。  水の上で平然と走り回っていることなど気にしていなかった。  殺到する黒いひび割れを薙ぎ払いながら突き抜け、それを噴き出し続ける相手に迫っていく。  詩音を弾き飛ばそうと水面から溶岩が何度も噴き上がった。  弾くも何も、呑まれればひとたまりもないような必殺の攻撃だろう。  それでも詩音は、その溶岩流を表情も変えずに泳いでいる。 「……自己催眠の果ては、異形なり」  一人で納得しながら、きっと分かってはもらえないんだろうなあとどこかで落胆を覚えている。  もどかしさも苛立ちも今は棄却し。  数日間で見てきた湖の景色を思い描く。  静寂に満たされた、白く閉ざされた神域。  走り寄り、異常に触れる。 「――――――――、」  自動的に、相手の情報を読み取っていた。  病音色緋色、病巣火山、カルデラの奥底にある爆弾、地球の破傷風、――――、…………、    。  抵抗が激しい。  詩音の思考も体躯も引き裂こうとしている。  全身に痺れるような痛みが走る。  自分が本当に自分でなくなるような。 「……修正作業に入ります」  思い描いた湖の景色。  それらで病音色緋色の存在する空間を上書きしていく。  彼が空間を消していったのと同じ手法だと判る。  それが、神種の持つ力に近いものだとも。 「……、三割まで」  そこまで口にして、感覚がぼやける。  触覚と聴覚が曖昧に、視覚も乱れて焦点が定まらない。  それでもセルフチェックの暇などなく、そもそもそんなものを考えてすらいなかった。  脳内に浮かぶタスクゲージが満たされるほど、それ以外が分からなくなる。  時間が、どこかに消えていく。  …………。  ――――。  (Completed!)  気がつけば、湖にある砂場に大の字になって転がされていた。  逆さになって映る視界には、人の居る場所のようでいくつもの古びた建物が並んでいる。  寂れた観光地は、未だに数十年前の名残を残しているのが哀しいと思ってしまう。 「なんで俺、こんなとこで寝こけてたんだ」  服や肌に砂粒が貼りついて鬱陶しい。  起き上がり、背中に軽い痛みを覚える。  大したことはないと無視して辺りを見れば、人の姿が見えないことに気付く。 「んーと、まだここは」 「そうだよ、神域のまま出られていない」 「うお、」  いきなり声が飛んできてぎょっとする。  見知らぬはずの知っているような人物がこちらを見ている、そんな不思議な状況に混乱していた。 「まだ帰れないか」 「そりゃね、行き過ぎた演技性を抜く必要があるから」 「……えーと?」  なんのことなのかよくわからないままの詩音に、鍛治は特に説明もなく向こうに行こうと手を引いて歩きだす。  う、と詩音は嫌がる反応を見せるがそんなことには微塵も反応を見せなかった。 「憶えてないだろうけどね、ある程度分かっているんじゃないかな? 自分を隠して演技でもしていた方がやりやすいし、生きていくうえでも楽になるって」 「それは、まあ」 「事実だけど、ちいと危険な範囲に踏み込んだんだ、君は」  そしてそれは、岩渡くんには対処できない。  言い切る鍛治の言葉に、納得はしがたかった。 「で、どうするってんだ」 「滝行でもしようか」  涼しそう、が最初の感想だった。 「でも、まあ。大事なことだから忘れなくてもいいんだけどね」 「本音を言わない方が良いって、なんだかな」 「素のままの人間が好かれることは少ないって話だよ」 「身も蓋もねえや」  事実なのは言われれば解るし、そういう事例なんて思い出せばいくつでも言える。  息をついて、頬を掻けば。  なんだか手触りが違う。 「何これ」 「鱗。岩渡くんの顔と似たような感じになってるの、気付かなかった?」 「行きすぎたって、まさか」 「そうだよ、あまりに強すぎると見た目まで変容させかねない。しかもイメージの通りにだから結構厄介だよ」  いつの間にかあの龍神をイメージして動いていた、そういうことなんだろうか?  唸っている詩音に、鍛治の声が刺さる。 「戦闘中の動きとかそのままだったもの。影響されやすいんだね」  否定できなかった。  読む力と想像力が半端に噛み合って、見た動きの再現くらいは割とできるようになってしまっている。  真似る力。  学習能力とは一致しないけれど。 「じゃあ、はい。行っておいで」  鍛治には胸倉をつかまれて、滝の下に投げ込まれた。  みんな乱暴だなあ、なんて暢気な感想を口にする暇もない。  あれからどうなったんだっけ。  青水と占術師がぎゃあぎゃあと言い合っている中、立っていた水場の底が抜けていたところまでは憶えている。  長時間、白い霧に包まれて、冷えて凍えて眠った後。  家族と一緒に帰りの車に座っているところで目が覚めた。  何事もなかったかのように、誰もかれもが何も問い質すことはない。  岩渡青水の名前を出そうとしても、いつものように遮られるか流されるかで終わるのだろうと、結局は何も言わないままだった。 「……。もう少し、話しておけばよかったかな」  聞こえないように呟く。  一週間以上の時差だったので、感覚がズレているが。  実際には無いも同然のものだったのか、と軽く儚い。  一炊の夢みたいなもので。  それでも忘れ得ない実感は残っていた。  空が青い。  太陽は眩しい。  それもそれで楽しいから、いいのだけど。  延々と霧に閉ざされた静かなあの場所も、決して嫌いではなかった。  窓の外で流れていく景色を眺める。  顔に残る違和感は、傷でもできたのか、それとも。  指で触れて、鱗みたいにつるりとした感触。  そうだと思えば、そうなのだろう。  一片でも残っていれば、それで充分だった。
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