8「偏理明瞭アートマン」

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8「偏理明瞭アートマン」

 どれだけ走ったのだろう、そう思う前に迫り上がった吐き気で思いきり咳き込んでしまった。  十にも満たない未熟な身体では、あまり長距離を走るのには慣れていなくて。崩れ落ちて座り込んだ瞬間、脚がじわじわと痺れる感覚に包まれていく。  目元には涙がにじんでいるが、それが疲労によるものなのか、自分の感情から来るものなのかが判別できず、肩で息をしながら暗闇でうずくまっていた。  …………、耳に痛いほどの静寂も、自分の内部で渦巻く轟音にかき消されて、今は恐怖も感じない。  それでも、なんとなく危険だとは思っていた。  実感はないけれど。  いや、実感を持てないのはついさっきの家での出来事なのだろうか。 「あれが、あれは……なに?」  ショックの所為か、逆に思考が冷静で。唐突に異形へ変貌した家族から逃げ出した場面を鮮明に繰り返して吟味していた。  思って考えて、それでも。  意味が分からないし、自分に何も出来ないことを簡単に分かってしまって。気が滅入っていく。  口数の少ない人物だったが、それでも声を抑えることが出来なかった。 「なんだよ、あれ」  泣き声、そうとしか言えない揺らいだ声が漏れ出す。 「何かあったの?」  それに応える声があって、彼は反射的に顔を上げてしまった。  それに対して、声をかけた方も驚いている様子を見せている。なんでだ、と現在の詩音なら言うだろうが、そんな余裕も今は無かった。  ただ驚いて、何も言えないまま相手を見上げる。  染色したとしか思えない緑色の髪と、薄闇に浮かぶ同じ色の眼光が、異様な雰囲気を作っている。 「…………? なにか、あったの?」  同じ言葉を繰り返した。反応がないので聞こえていないと思ったのだろうが、詩音の方は単に反応し損ねていただけで。  頷いて返せば、そっかと軽く戻された。  そのまま彼女は視線を合わせて、詩音の目の奥をのぞき込むように凝視する。それに堪えられずに目を逸らしてしまうと「駄目だよ」と無理やりに顔を押さえられた。  それでも、覗かれている間は異様な不快感が全身を走っていて、どうしたって身を捩ってしまう。 「うーん、記憶も記録も曖昧だなあ。でもまあ、人が変になってるようだし、対処しないとだけど」 「だけど、だよ」 「こんなこと、生きてきて初めて見たんだ。人が化物みたいな姿に変わるだなんて」 「…………嘘を吐いてるわけじゃあないんだよね?」  一体、どこで何の嘘を吐いていると思ったのか。  そしてそんな無意味な事をする理由があると思っているのか。  そう言うだろう喉は震えないまま、気色ばんだようににらみ返していた。  面白そうに吹き出した彼女は、詩音を脇に抱えて立ち上がった。 「神様をにらみつけるだなんて、良い度胸だね? 面白そうだから助けちゃおうかな」  なんだそりゃあ、と思わなくもなかったが。  助けてもらえるのなら、特に異論もない。  神を自称している人物を見ると、変な人だなあという感想の方が先に出てしまうのだが。  安堵が内心に起こって、泣きそうになっているのでは、そんな言葉をぶつけられそうもなかった。  最初から知っているかのように、璃月の足取りに迷いはなかった。読まれていたのならそういうものなのだろうけど、幼い詩音には不気味に移るような行動ではあった。  自分の家が近づくにつれて、四肢がすくんで縮こまる。 「こっちだね、なんだか騒がしいな」  歩いて数分。  詩音が歩いても三十分はかかるような距離だったはずなのに、と疑問はあったが訊くにも至らず口をつぐんでしまった。  夜中だというのに人が民家の一つを囲むように群がっている。ただ、あまり近づくこともなく一定の距離を置いていた。  吠える声。  犬の遠吠えにも似た、伸びのある高い音。  今日は別に月夜でもない、となんとなく璃月が笑っているが。そんなものの意味は分からない。  居る。  家の門柱の裏、詩音の家の敷地になんとも形容しがたい体躯の生命体。人狼と喩えても良いだろうけど、そんなものがこの世界に存在するはずがない。  詩音はもちろん、璃月だってそういうものだと理解していた。土地神であり、世界のシステム部分に触れているからこそ、彼女は断言できる。  故に、眼前にあるこの生物がまったく理解の範疇にないのだ。混乱してばかりも居られないが、原因を探らないとどうにもならない。 「君、原因に心当たりはない?」 「わからない」 「君の両親、だけじゃないね。家に居た人全員、なのにどうして」  詩音だけが人のままで居るのだろう?  彼と他の全員と、何か決定的な違いでもあったのだろうか。考えを巡らせている間、同時に璃月の右手が地面を叩く。  吠える人狼たちの足元に樹木が伸びてきて、絡みつき動きを抑える。  あまり時間をかけたくないな、そう思うも戦闘能力に劣る璃月には手段が取れない。 「仕方ないか……!」  彼女の両手の中に、輝く木の葉が浮かび上がり。  それが周囲の人々に向かって飛んでいく。  とは言っても、それらは神種を認識できないと見ることすら出来ないような現象になるのだけど。  それらを受けた野次馬は、それぞれに踵を返して戻っていく。  その光景には、詩音も驚く。  操られているように、一斉に動き出す様は、やはり不気味だ。  耳障りな咆哮ばかりが周囲にある。  だれも、反応を見せなくなっている。  そういうものなのだと、なんとなく感じた。 「わたしの方が上に来ているだけだからね。思い通りに人を動かせるくらいには」  璃月は振り返らず、首を少し動かした程度で詩音の方を流し見る。  恐ろしいか、と問いたいようだった。  詩音は何も言わない。どうにもならないような隔絶を感じているけれど。それよりも自分の味方で居ることの方が重要なようで。  アスファルトからゆっくりと立ち上がって、彼女の隣に立って前を見る。 「…………、」 「人に向ける目じゃあないよね。一体どんな関係性なのやら」  樹が絡みついて動けない人狼たち。  それでも璃月が近づくと、腕の樹を引きちぎって攻撃が向く。それを片腕で受け止める璃月には大して苦もなさそうだ。  見上げる視線に、睨み返す。 「怯みもしないのは、きっとその恐怖すらも削がれているから、だね」  詩音にしたのと同じように、分析を続けている。  元の情報が人間であることをすでに知っているから、その情報自体は読めているらしかった。 「ただ」  言いつつ、璃月はちらりと後ろを見やる。  軽くうつむいてしまっている詩音の視線に、まだ後ろ暗いものが映っているのを確認しながら。 「君の本性? それとも彼の本性?」  それは分からないよと言いながら、未だ腕を掴んだままの右手が動き。獣をぐいと引き寄せる。  同時に左手がひらめき、体躯の中央を指先が衝く。  貫手のような形だが、詩音の目にもあまり綺麗には見えなかった。武術の心得がないのは確かだが。 「……!?」  書き戻しが、利かない。  その直感に、しかし何故? とも問い直した。  元の姿に戻そうとしているのに、それを次々に上書きして獣の姿が変えられない。  どうして、どこから?  璃月にも訳が分からなかった。  何度も繰り返すのに、拒絶されているのではなく追いかける形で再処理がなされている。  まさか、と後ろに素早く振り返った。  必死の形相を怒っていると捉え、その矛先が向いたと判断した詩音はびくりと震えてしまう。  視線を逸らす一瞬、その目の奥で何かが光っているのが見えてしまい。 「やっぱり、君が……!」  抜き取った左手が、ぶるんと後ろを薙ぐ。 「……っあ……?」  その動きの意味を解する間もなく、詩音は意識を失って地面に崩れる。そうでもしないと終わらないと判断したからだった。 「獣、人でないもの。身内に対して、そういう認識を持っていたってことか」  人間関係の意味なんて、璃月には理解し得ない範疇だ。 だからといって、環境の善し悪しが判断できないわけでもない。 「上書きはともかく。身内が獣のように見えてしまっているって時点で」  別の獣の牙が迫り、冷静に受け止めながら璃月は溜息をこぼした。 「度し難いなあ」 「なんで連れてこられたのかな」 「あのままあの場所に居たら、同じことを繰り返すばかりだからだよ」  璃月の言いように、詩音はよく分からないような表情を浮かべる。いや、同じことの繰り返し、の部分は分かるのだけど。 「僕の所為?」 「どうだろうね?」 「…………」  璃月の居た神社に戻ってきていた。灯りもなく闇に沈んでいる境内を、彼女は迷うことなく進んでいく。  詩音が見上げると、璃月の眼が薄く光を放っている。  照らしている訳でもなく、それにどれほどの意味があるのかは分からない。夜闇に光る犬の目を思い出してしまい、詩音は少しだけ身を震わせた。 「うん。畏れていていいよ」 「……」 「面倒だなあ」  詩音の内心を読んで、本音でそう思った。人格が形成しきっていない子供の単純さと必要以上の場を読んだ忖度が、きっと彼の物静かな表向きを作っている。  その中にある、確かな反発を見逃すわけもない。 「親だからって、仲良くしなきゃいけないわけじゃない。実際君も、言っても無駄だと口を閉ざしているね」 「それは、そうだけど」 「…………諦めていないのも、分かるよ」  単に、自分の事を理解してほしい。  というよりも。 「萎縮していること自体を、ちゃんと読み取ってほしかったんだね」  言わなきゃあ、分からない。  言ったら言ったで、そこに不要な説法が来る。  四方八方、追い打ちをかけられ。  それは気づかない間に内心を打ちのめす。  そして、口をつぐんでその場をなあなあにやり過ごす術を使って生き延びた。  生き延びてしまった。  本当は、そんな方法ばかりで生きていけるわけもないと知っていながら。 「そうして膨れ上がった自我を、君は現実に映し出した」 「僕が?」 「君は、家族でさえも意思疎通不可能な生物だと認識しだしたんだろうね」 「えっと?」  話の通じない他種だと、自分だけが別物だと、そう感じてしまったんだよ。  璃月の言いように、軽く反発しそうになった詩音だったが。それでも反論できる言葉が見当たらなかった。  ほとんど全てを正確に言い当てられて、素直過ぎるほどに回答に窮して黙り込んだ。 「下手に想像力が強いとこうなる、って訳じゃないんだけどね。もとよりそういう人物は思考が壊れて挙動が変になるだけなんだから」 「変な人に? なりたくないな」 「詩音くん。君は充分に変なことをしているよ」  はっきりと言い切られるとむしろ清々しいような気分になる。濁すことのない直截的な表現の方が、脳にしっかりと入ってくるから。  詩音がじっと璃月を見る。  その視線に対して、彼女も目を合わせて返した。 「君はもう少し、自分の事を理解した方がいいね」  上半身を折って、顔を近づける。間近に来たことで、詩音は少し驚いた反応を見せた。  少しだけ、上体を引いた。  璃月の視線が至極真面目なものだから、変に浮ついた感情はさっさと退いていくけれど。 「現実をゆがめる力は、危険だよ」 「だから、それを巧く操れるようにならないといけない」 「君のためにも、皆のためにも、そして何より、わたしのために」  詩音はしばらく沈黙して。 「おねーさんのためって言うなら」 「…………、他の人間に興味なさそうね」  大体正解だったので、否定はしなかった。  樹の中に生活空間がある。不思議だとは思わなくて、きっとツリーハウスの延長のようにしか見えなかったからだろう。  詩音は辺りを落ち着きなく見渡すばかりで、ほとんど棒立ちだった。  他者のプライベートに這入り込む経験なんてほとんどなく。自分の場所でないから、警戒心の方が強く出ていた。 「とは言ったけど、まずは機能の限界を確かめないとね」 「限界?」 「どこまでのことが出来るのか、だよ。人を化け物に出来るのは知ってるけど、それ以上はどうなのかなって」  例えば無生物を生物に出来るのか。  例えば人が通常感知できない、時空間のパラメータを動かせるのか。  認識外の生命に、神と呼ばれる存在に干渉できるのか。  それは、璃月にとって、直接的な脅威だ。 「何を言ってるかわかんないです」 「……だろうね」  詩音の理解レベルでは検証も難しい。  仕方ないから、璃月が詩音の手を取った。 「う」 「判りやすく嫌がるね……」  触れられるのを嫌がるのは珍しくないが、そんなことを言っていては埒が明かない。  軽く持ち上げて引き寄せ、誰も居ない虚空に向かせる。  自分をコップか何かのように持ち上げられる経験はなかったので、詩音はひどく驚き。それ以上に数年前の記憶を呼び起こされて萎縮してしまった。 「わたしはジャイアントスイングなんてしないからね、警戒しなくていいよ」  詩音の記憶。  その片隅にそんな光景が刻まれているのを読んで、ひどいなあと思いながら宥めていた。 「寝ない」 「あう」  眠りそうになっている詩音を叩いて起こす。意識が落ちていると機能しないと判っていたからだ。  正確には夢遊的に動くこともあり得るのだけど、対象を取らないなら意味はない。 「木の匂いで落ち着いてるね。いいことだけど」 「お寺の匂いとか好きだよ」 「なるほどねえ……」 「おねーさんの匂いは、落ち着かないけど」 「ませガキー」  怒りもせず、じゃれていた。警戒を解くためには必要なことだったが、その最中にも璃月は解析を続けている。  詩音はそれに気づいている。  自身の中を探られる違和感を覚えていて、それでも必要なのだろうと判断して何も言わなかった。  他の誰かに同じことをされるわけもない、となんとなく判っていたから。  気を許しているとは言いがたいが。 「げるげる」 「もう少しだよー」 「疲れる」 「仕方ないよ。覚えないと日常に帰せない」  制御の方法、とは言うものの。地道にやってはいけないことを分類していくしかなくて、その覚え方に苦心している。  逆に全て解放して、世界そのものを破壊してしまっても面白いかな、と一回つぶやいたことがあった。  璃月のそういう発言に、詩音は少し驚いた。  それでもそれ以上に何かを思うことはなく、特に反対を言うこともない。 「想像力は鍛えれば伸びるし、それを止める気もないけどね。上書きをそれと切り分けるのが重要だから」 「なるほど……?」 「分かってるのか分かってないのか、どっちなの」  半分かな。  言えばほんとは全部理解してほしいんだけどねえ、と返された。  理解しきれないのは、本当。  でも、それでもいい気がした。  詩音にはこの現状が楽しいから、少しでも長引かせたいなんて思惑があり。  そしてそれを見抜かれていることも知っていた。  それでも何も言わない辺り、どうでもいいのか、同じように考えているのか。  詩音には分からない。  人の心なんて分からない。  知りたいと思った。  その思考を読まれて、璃月に眼を隠される。 「視覚に直接影響するよ、それ。君には不向きだ」  どういう意味だろう、と考える。何かをしたい、と思えばその道筋を読み取ってしまう。なんとなくそういう感覚を感じ取ったら。  ちょっとズルいやり方だな、と曖昧に思った。  便利なんだけど。 「君はそれに甘えちゃうから。しばらく使えないようにしとくよ」  言いながら、目元から顔全体をじっくりとこねられる。  くすぐったくて身を捩った。 「…………、……」  遠くから振動が届いた。璃月は不思議そうにしながらも、あまり気にしては居ないようだった。  肉咬くんが何か食べようとしてるのかな、と呟く。  同じ方をふっと見た詩音は、全く違う反応を見せて、思わず立ち上がっていた。 「変なのがいる。なんか獣くさい」 「……じゃあ肉咬くんじゃなさそうだね。あれでも稲荷神だもの」  稲荷は狐なのだと思っていた詩音には、その言い方は不思議なものだった。璃月は少し前にその説明をしていたが、呑み込みきれていないだけで。  じゃあ、何が居る?  樹の中に居ては判断できない、詩音が走り出すのを追いかけながら、外への道を開いた。 「――――っ」  二人して、息を詰まらせた。  邪気を含んだ臭気に、くらりと視界が揺れる。  すぐに「これはマズい」と判断し、詩音を抱えて走り出す。一人で放っておくのがよくないなんて判断でもなさそうに、寝ないようにねと釘を刺してくるのだ。  こんな状況で寝れるような神経はしていない。  反論しようにも言葉がぱっと思いつかず、タイミングを逃してしまった。 「二週間前とは違う気配だし、詩音くんとは別件かな」 「同じ力?」 「どうだろうね」  穏やかな日の照る昼間、天気ばかり穏やかでもこのよどんだ空気は隠せない。  二人の目には、染みのように浸食している瘴気が視えていた。網膜に染み入るような色彩は、表現が難しい。  街の中心を通る大通り、その中心点から少し離れて交差する広い通りは、両脇の建物が低く空の色がよく見えている。  その開けた空の真ん中に屹立する黒い影。  大樹のように見える。 「なーにあれ、蟻の塔?」 「アリ? あんな樹みたいになるのか」  日本に居ないはずなんだけどな、と不思議そうにしている璃月に、詩音はそうなのかとしか返せない。  時々あるんだよね、と璃月のうんざりしたような声。 「渡来の神、っていうのかな? 日本に居ない種が渡って居着いていたり浸食したりって」 「チャレンジングだね」 「そっちのトライじゃなくてね」  特にこの近辺は自然が多く、生物系の神が居つきやすいという。そういう外様を適切に処理するのも、璃月のやるべきことらしい。 「やっつけるってことかな」 「必要ならバトるけど、それ以上になると戦闘にもならないかな」 「今は?」 「結構マズい。気脈に這入り込もうとしてる」 「じゃあ切り倒そう、例えばこういう感じで」  詩音が軽い動きで右手を真横に近い袈裟に振るった。  二百メーターは離れている土色の塔が、ざくりと切断されて倒れ、ボロボロと崩れ落ちていく。  右手が切断したわけではなく。  その切断した結果を想像して、現実に上書きした形だ。  動作ではなく、そこを飛ばして結果を直接持ってくる。 「…………こっわ」  心底からの呟きに、詩音は「えー」と不満そうな声をあげる。それ以上に、こっちにまで拡がってくる酸化した臭気に気を取られて、すぐに忘れているようだった。  自分の思うとおりに現実を変えてしまう、そんな異常性。それはそこに至る過程を想像できないからこその未熟。 「詩音くん。やっぱりもう少し時間が要るみたい」 「え、まだ倒せてない?」 「そうじゃなくて」  この面倒くさがりは、面倒だからで何もかもねじ曲げる可能性がある。それはどうしたって防がなきゃいけない。  璃月がはっきりと認識できた、恐怖。  それは、裏返しの希望と願望なんだとも知れた。 「んー」  詩音は倒れた塔を眺めて、元の居場所を読み取っていた。  そして、当たり前のようにその場所に送り返していく。  当たり前のように、それを出来るのは。 「帰ろうか。後の処理は別の人が請けてくれるから」 「わ」  いつものように軽々と詩音を抱えて、神社に向かって踵を返す。  その前に。  ずるり、と何かが滑るような音が聞こえた。  振り向いたのは璃月、ついでそれにつられる形で詩音。 「あれ、もしかして……ミミズかな」 「大分前から喰いこんでたのか、面倒くさいなあ」  土地の色を書き換えられると厄介だよ、と独りでぼやいている。璃月の本当にうんざりした声色を聞くのは初めてだったはずだ。  詩音はそれを聞いて、同じ類の能力なのかと感じ取った。なら、競ってみたくなってしまうけど。 「あの辺の土が変えられてるなら、干渉しづらいかもねえ。本当は元の場所に帰ってほしいんだけど」 「元の場所ってどこだーい」  即座に確かめようとする詩音。だが遠くで言葉も発せるかどうか分からないミミズに直接呼びかけるのも妙な話だろう。  そう言おうかと迷う璃月は、詩音がミミズの方から全く目を離していないのに気づく。  何かを見ている。  何を見ているのかを読み取ることが出来るので、実行する直前に「見えた」と叫んで璃月の方に向き直る。 「……何が見えたの?」 「元の居場所。すごく遠い場所みたいだ」  どの辺り、と訊いてみるよりも読んだ方が早いと詩音の目をのぞき込む。 「やっぱり、大分離れた場所だね。どういう訳でここに出張ってきたのかもよく分からないけど」 「帰ってもらうよね」 「当然だよ。えーと、向こうの方になるから……、放り投げるとかでいいかも」  掴んで投げるイメージを重ねれば、あの巨体を遠くへ持って行けるか、と思ったのだが。  そういう行動を詩音が想定できていないようだった。 「どういうのでもいいよ、ボールを投げるのなら。野球とかハンマー投げとか、大砲みたいなのでもいいし」  何を考えたのか。  璃月にアドバイスをされた詩音は、投擲よりも射出を選んだようだった。  ぎっ、と詩音が睨む。  視線の先にあるミミズの足元が「どうっ」と大きな音を立て。赤い炎が勢いよく噴射されていく。 「……ロケットの発射の方が分かりやすかったんだね」  空に向かって一直線に飛んでいくミミズの姿は、なかなかに滑稽だった。 「ほとんどの人には見えないとは言え、気取られると面倒だよねー」  怪奇現象の街なんて、なかなかな汚名だもの。  璃月の言いように、詩音はそういうものなのかなーとなんだか不思議に感じる。  噴射の余波で周囲に吹き荒れる風。  二分ほど続いて、収まっているが。 「異常気象?」  周囲の歩行者はその場で混乱しながらやり過ごしていたり、車両もその場に止まって何事かと見回す運転手の姿が見られる。 「……手遅れかなあ」 「駄目だった?」 「いいよもう、終わったことだし」  侵略されて荒れるよりはね、と乾いた笑顔を見逃すわけもなかった。  元気のなさそうな様子に、詩音もつられて落ち込んでいる。他者の感情に乗せられやすいのだ。 「見ていると、どうしても周りとの違いが目につくでしょう?」  そう問われて、うんとだけ頷いた。  璃月はそうだろうね、なんて驚きもなさそうだ。 「それでも、それはよくあること。あまり気にしなくていい―――んだけど」 「ん?」 「人と違うものが見えている、ってことは意識しておかないとね」  何故か額をつつく。詩音の頭が揺れて、指先の触れた部分がくすぐったい。  あまり好かない感触だった。 「君自身のために、よくないから」 「…………、そうかな」 「現状、そうなってるから。区別できない言動が、追い込む環境を作っていた」  そうなんだ、と分かっているかどうか、曖昧な反応。 「みんながみんな、変なやつ。自分自身も含めてね。そういう感覚を持っていた方がいいよってだけ」 「おねーさんも?」 「そうだよ?」  即座に肯定が返ってくるのには驚いた。  それこそ、変な人のように映る。  だから、失笑が出てくる。 「ひひひ」  璃月の笑い方がなかなか変だった。わざとおどけているのかも知れない。  帰ろうか。  璃月がそう言い出すと、詩音もそうだねと頷く。  いつまでも神社に居つくなんて出来ない、それは分かっていたことだった。 「神隠しなんて、今は言われないね」 「失踪自体はよくあるらしいよ。それくらい大したことないんだ」 「そっか」 「誰にも気づかれないで居なくなるなんて、無理だからね」 「ちぇー」  誰だって、居なくなっていいわけじゃない。  それでも消えることを望む人が後を絶たない。  そういう認識から外れた者だから、璃月のような存在を認識できる。出来てしまう。  実際、詩音は半分死んでいるような状態といえた。  一つの原因があるわけでもなく、むしろ不運を重ねて削られていった結果でしかない。  現実から離れて、常に見えないものが見えていた。  半死半生。  この問題は、解決しようがないのだと璃月は言う。  呑み込んで生きるしかないのだ、とも。  それは気休めでも何でもなく。  ただの現実。  現実離れしていても、それが現実。  それが、他人に分からないだけで。  頭が痛くなりそう、そんな寝起きだった。  それは多すぎる睡眠をとった後、脳に起こる不快感に似ていて。 「……んー」  いつものように、寝床から顔を出して辺りを見回す。  何も変わらない朝。  なのに、なんだか空気が違って感じられる。  理由は、よく分からないけど。 「…………」  額の真ん中が、なんだかくすぐったい。  どうしてなのかは、思い出せないけれど。  そのうち思い出せるかと気にしないで、ベッドから降りた。  何か大変なことがあった気がしたけれど、それも曖昧で。だけれど確実に大切だと思える何かが全身のあちこちに、疼きに似たくすぐったさになって残っている。  意味は分からないが機嫌はとてもよかった。    しばらくの間、両親含めた家族が、なんだかよそよそしかったけれど。
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