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1「眺める谺のドリアード」
頭上から覗かれている、そう気づいて視線を向けると。
自分のよりかかっている樹の幹に直立している姿だった。
「あ、見えてるんだ。十年振りだねえ」
「全然変わってないようで。安心するよ」
そう返すと、相手の女性は楽しそうに笑んで樹から跳んだ。
真正面に降りたその人は、こちらの眼を見て驚いたようにしている。それはそうだろうと納得するよりも先に。
「充血してる? それにさっきの声も鼻声だし……花粉にやられちゃった? 詩音くんって、そういうのに無縁だって思ってたけど」
「人並みに病気くらいするよ。でもまあ、今回のはちょっと質が違うから―――」
「わたしに助けを求めるくらいに、だものね」
人でないもの、神社に住む樹の神。昔に一度行き遭った姿と全く変わらないから、やはりそういうものなんだろう。
あの時と同じように、葉森璃月は手を差し出した。
反射的にそれを取ってしまうのは、なんだか犬みたいな挙動だとやってから思う。同時に彼女が詩音の身体をこともなげに引っ張り上げて立たせてしまうのも異様だが。
「こんなに力あったんだっけ」
「前は見せなかったからね。必要もなかったし」
そうか、と返そうとしてくしゃみが出る。息もしづらくて苦しい、顔面内部にこびりつく痒みが引きはがせないのがもどかしく。
眼球を外して洗いたい、という言葉の意味はこういうことかと痛感していた。
「……花粉症が、何かよくないことでも起こしてる?」
詩音がここにいる理由を推測しているようだった。
「いいや、花粉症自体がとても厄介っていうか」
とにかく、ありえない状況になっていると言う。璃月がそれに対して「そういうことだろうねえ」と応じてきた。どういう意味なのかを考えていると。
璃月の左手が詩音の顎を掴んだ。
硬直して動けない隙に、続いて右手の指先が額、眉間、人中、こめかみ、耳の後ろを手早く突いていく。
昔の漫画にこういうのがあったような、と考える間に今度は身体を入れ替えて背中を向けさせられ、「とぁ」なんて言いながら肩胛骨の間を強めにはたかれた。
軽い窒息感、直後に大きくくしゃみをして、鼻腔に痛みを感じながら咳き込んだ。
「とりあえず、これで楽になるとは思うけど」
「……え、ああ、本当だ」
目も鼻も、不調を感じない。呼吸が普段通りにできていることに少なからぬ感動があった。
「じゃあ、ここからだね」
いつもの流れみたいに言うけど二度目なんだよな、とは言わなかった。
「原因不明の花粉症? しかも街全体で大規模に」
「そう。病院とかでも原因物質がわからないから対応しようがなくて、対症療法で誤魔化してるって」
「この周辺だけにそんな強いアレルギーを起こす植物が自生してる、なんてあるかな」
街中、というか詩音たちが住んでいる街の、しかも中心市街地のみでしかこの症状が見られないらしい。
小さいとは言っても人口数万の地方都市だ、その半数以上が発症しているとなれば、それは惨事にも思えた。
神社の敷地を離れて街中を歩き回ってみれば、あちこちで咳やらくしゃみの音が聞こえる。空気が埃っぽいのは感じられるが、砂が舞っているくらいの感覚であまり目にはつかない。
「無差別って感じに見えるよ」
璃月が周囲を見回しながら言う。
「何か条件があるわけでもない、ただ花粉、空気を浴びたからこうなった、ような?」
「毒ガスと大して変わらないな……」
こんなに天気のいい日だというのに、勿体ない。
柔らかい日光を浴びながら、緩んだ空気の中を散策するのは、昔から楽しい。だというのに――――「そう言えば、どうやってこの症状を消したんだ?」疑問が湧いて出たまま、口にした。
「ん? 一時的に属性を上書きしたんだけど。今の詩音くんはヒトじゃなくなってるってこと」
「……そういうのもできるのか」
「十年前にも同じことやってたんだけど、分かってなかったみたいだね」
「六、七歳の子供に理解できることとは思えないけど」
「適性次第でしょうね」
遠回しに馬鹿だと言われた気がした。別に間違ってはいないから、傷つくとかはないのだけど。
「そういうのは英雄の素質っていうでしょ」
「ただの神輿なんだよなあ、それ。もしくは鉄砲玉とかさ」
「持ち上げられるのは嫌い?」
「地に足が着いてないのは、不安になるよ」
「そういうものなんだね? わたしは足が地から離れないからね」
樹木の精霊。実際に自身の樹に登ることはできても、他の場所では不可能だという。
変に融通の利かない杓子定規は、なんとなく土地神らしいなと思った。
「いつも足が地に着いてないヒトもいるし、ほらあそこ」
「え」
璃月が指差した先は少し離れた建物の窓。その奥に黒い影が見える。
慌てて目を逸らした。
そういうのは苦手だ、できれば見聞きしたくない。
「案外怖がりなんだね……?」
「どうにもね。無意味に形質が変わっていないのもアレだけど」
「異形はそれもそれで嫌いでしょ?」
「ホラー全般が苦手なんだよ」
そこに面白さを感じる適性がないようだ、と言ってしまえばそれでいいのだけど。
「……あそこに居るのは転生不能状態の処理待ちでねえ」
「なに、急に」
「ああやって本来の原因以外で死ぬと空白期間ができて成仏できないんだよ。死に際の苦しさが延々続くしさ。次の世代に高ランク帯の種族に転生るためのポイントも溜まりきってないし、ほんと良いことないよ」
デスペナルティっていうんだっけ? と璃月が確認してくるけれど、その手の話にはあまり詳しくないので、詩音には答えようがなかった。
「ゲーム的だね、なんか」
「こう言った方がわかりやすいかなって思って」
そのまま、大概は生きて力積んで称号変えるのが一番手っ取り早いんだよねえ、とか続けている。身も蓋もないというか、なんだか腹の底が抉れた感覚を覚えた。
そういうの、どこで覚えてくるんだろうと不思議だったけれど。
「じゃあ、璃月さん。こうやって土地神に触れて助けられるような俺は、前世でどんな徳を積んだっていうんだろうな」
「知らないよお」
とぼけられた、ように感じた。態度は本当に知らないように見えるのに。
周囲の人間から、自分たちの姿が映っていないらしい。
歩き回っているうちに察したことだったけれど、璃月の鮮やかな緑色の髪で目を引かないわけがないのだから、判りやすい方ではあったのか。
「一瞬でも目が向かないなら、それは変だよ」
「そうなんだろうね。神なんて人に見えないものだから、それが普通なんだよ」
「…………、」
じゃあなんで詩音に見えるようになっているのか、なんて話になるのだけれど。
今はいいかと考えを止めた。街の花粉症の原因を探すのが先だ、と足を進める。
風に乗って、砂のようなものが吹き付けるのを感じる。
少しだけ吸い込んでしまい、喉に引っかかって咳き込んだ。手についた唾液を手持ちのティシューで拭っていると、璃月はそれよりも街並みの変化が気になる様子だった。
「三日寝て起きたら十年経ってた感じ」
「ウラシマ効果?」
相対性理論だっけ? 曖昧な知識ではそれくらいしか言えなかった。
「大体同じだけど、いくつも違うね。昔はもっと古ぼけた建物が残ってたはず」
「古ぼけたって言いよう」
言いたいことはわからなくもないけど。
少し前に買った本に、ドリアードの話が載っていた。それを思い出して、しかし日本の土地神がそんな性質を持っているものだろうか?
持っていてもおかしくはない、とは言えるが。
「十年間ずっと寝てたの?」
「うん。でなかったら今回のことを知らなかったことに説明つかないよ」
「それはそうか」
ずっと起きてたら簡単に倒れちゃうからねーと嘯いている。
案外、体力がないのだろうか?
璃月の様子にはそんな兆しなど無いが、と思っているとふらふらし始め、どこかへと歩き出していく。
「……どうした? 足取りが怪しいけど」
「こっち行こう、ほらこっち」
引き留めようと肩にかけた手をそのまま取られて、曳かれて歩いていく。
もともとの膂力のせいで抵抗できないまま、数十分ずんずんと進んでいく璃月の背を眺めるばかりだった。
ぐるぐると街を廻っているようだった。
大きく渦を巻くように軌道を描いているのが、マップを見ると判る。
「この辺りかなあ」
大通りの真ん中あたりで立ち止まった。神社からも大きく離れてはいない、数十年同じアーケードが歩道に掛かっている道。
見渡せばシャッターが閉まっている店舗が目立っている。
「……思えば、前見たときより開いてる店とか増えてるね」
「建物も変わってるからね」
「置いていかれるねー、自分の住む街なのに」
「引きこもりみたいなことを言うね……」
大きく外していないから何とも言えない。璃月も特に反応はなく、「うーらー、うららー」と楽しそうに唄っていた。
「この辺りが粉っぽい」
言われてみれば、他の場所よりも埃っぽさを感じた。花粉の影響を受けない状態になっているから、そういう感覚なのだろうけど。
近くから花粉が大量に撒かれている、ということだろうけど。
「それらしい木が見当たらないな」
「うーん……んー……」
なんか璃月の返答がぼやけている。眠そうにも見えるが、それにしては目はしっかりと開いている。
なんだか危ない、と感じた詩音は近くにあるベンチに座らせて様子を窺うことにした。
「くらくらする、し、休んでも治りそうにないよこれ」
「俺は何も感じないし、なにか条件でもあるのかな」
「たぶんね。こっちに対して、明らかな」
ぐらぐら頭を揺らして、頭もうまく回っていないだろうとはなんとなく分かった。
花粉の影響、なのだろうか?
どうにか治せないかと頭を捻る。どこに問題があるのかもよくわからないのに、自分に何ができると否定的だが。
昔と違うと言いたいのに、結局対して変わっていない自分の怠惰に呆れてしまう。
ゲームの画面のように視えればいいのに、そう思って璃月の方を見る。
「……あれ」
何かが見えたわけではないけれど、彼女の身体の一部分が薄く光って示されているように感じた。
複数あって、そのうち一つが目立っている。
右手が、その光を辿るように動いた。触れた瞬間、璃月は「ふぇん」とよくわからない声を上げるが、それよりも次の場所? が強く示された方に注意を持っていかれていた。
「……手順みたいなものなのは分かるけど」
じゃあそれをどうやって視認しているのか、はよく分からなかった。
ただ、それがあるという事実。
ただの妄想かもしれなくとも、そもそも目の前にいる女性自体が空想みたいな存在だ。
「最後は、ここか」
中指の先で、璃月の喉元を軽く押し込む。
真正面から咳き込まれ、それには全く反応できない。
「治ったのかな。変な感覚は無くなったけど」
「ならいいんじゃないか? さっさと次行こう」
「さっきのわたしの手つきを真似したのかな? よく似てた」
「……そうなのかもな」
同じことができれば、とは確かに思った。それが自分に出来てしまった理由には心当たりはない。
不思議だ。
考え込んでいる詩音とは別に、璃月は周囲を見回して何かを探している。
「お、あっちの方だね。見える?」
指さす方につられて視線を向ける。百メーターも離れていない十階建てのビジネスホテル。その屋上辺りに向いているが、詩音にはそこになにかがあるくらいしか察せなかった。
「何かあるの?」
「目を凝らしてみて」
「………………、あ?」
ぼんやり、何か映る。右手をくるりと回して、望遠するように覗き込んだ。
大きな樹が、ビルの上に立っている。
その枝葉が揺れて擦れて、黄色の粉塵を撒き散らしているのが見えた。
「なんであんな所に……ってか人には見えてないのか、あれ」
「そうだよ? 詩音くんだって見えてなかったじゃない」
つまりそういうこと、と璃月は当然のように言うけれど、詩音にはそんなものに触れては来なかったのだから簡単に呑み込むのは難しい。
既に踏み込んだのだから拒める道理もないのだけど。
「んじゃ、見に行こうか。何が理由かはわからないけど、原因なのは確かだし」
人からは見えないので、ビルの中を通っても気づかれない。
それでも気付かれるんじゃないかとビクつくくらいには騒いでしまったけれど。
「高い場所に上れないって本当なんだ……」
「できなくはないんだよ? ただ、樹木のタチでね?」
「まあいいよ。今度は俺が手を引くことになるとは思わなかったけど」
足が地面から離れない、というのは強迫的な本能のようで。詩音が先導して上階まで進む。心霊現象みたいに思われるのも困るので、エレベーターは使えなかった。
階段をのったりと上っていき、関係者以外立ち入れない通路を通って屋上に出る。
大して広くもないスペース。詩音の家の敷地より一回り大きいくらいか。
「ぐう、」
璃月が呻きを漏らすくらいに、花粉が渦巻いている。
周囲に高い建物がほとんど無いから、遮られることもなく拡散していく。高い場所にさらに高くそびえる杉の樹はなんだか不思議と感じる威圧感を持っていた。
声を上げようにも、すぐに喉に花粉が引っ掛かって咳き込んでしまう。
(風が変われば楽になるかな……、例えばこんな風に)
逃避的に想像した空気の流れが、数秒遅れて届いた。助かる偶然だな、とあまり気には留めずに、樹の根元に近付く。
何かが居る、と見たときに分かっていた。
けれどその姿は樹のテクスチャに紛れてしまって、とても見づらい。
「……人じゃあないな」
樹木の肌、そして詩音の半分ほどの背丈。
顔の辺りは長い髪で隠れてしまっていて、視線が隙間からこちらを睨んでいるのが辛うじてわかる。
色合いが璃月の髪とよく似ている。
「なぜ、こんな場所に?」
真っ先に出てきた疑問だった。
返答は聞こえない。後ろから遅れて寄ってきた璃月が、「後置きの霊木だねえ」なんて言っていた。
「後置き? どこかから移ってきたとか」
「んー、急ごしらえで置いてるだけの式神に近いかな」
「…………、」
「天そばは後で食べようね」
変な連想をしていたらしっかりと読み切られていた。どうにも思考が飛びがちなのが悪癖だとは分かっているけれど。
「っと、わたしにも憎悪が向いてるね」
「そうなの? 質が近いから?」
「だろうねー。十年間寝っぱなしっていうのもあるだろうけど」
それを怠惰とは言うまい、となんとなく思ったが。
『遠くて、誰もいないような場所で、独りで、ただ眺める、その寒さ、心細さに飽いたのだ、何度もそう言って呼びかけても、帰ってくる声もなく、そのくせ』
目の前の木霊が、唸るようにまくしたてる。
発声に慣れていないのか、喋る速度は緩やかだったが。
『主たる者たちは身勝手に、眠り遊んで、茫洋と生きて、置き去られた己に、目もくれず、謳歌して、ここに在りと云うものを、知らぬまま蹴って―――』
だから、だから。
「自分の存在を誇示したかったの? それとも、助けてほしいの?」
璃月の質問に、木霊が応えない。
ぎらり、と目の奥が鈍く光った。
視界が色濃い黄に塗り潰れる、同時に正面からの突風で屋上の端にまで吹き飛ばされた。
地吹雪でも喰らったのかと思うくらいのおびただしい花粉。
砂嵐よりも厄介に、免疫を刺激するアレルゲン。
「八つ当たりがひでえな、もう」
「あうぅ」
真横から聞こえる璃月の変な声。普段のおどけたような声でなく、なんだか不安になるような。反射的に視線が向くと、想像通りに全身を細かく震わせて倒れ込んでいる。
瞼が軽く開いたまま、焦点がどこにもあっていないのがひどく恐怖を煽る。
「さっきから、影響受けてたっけ。ここまで干渉できるのも異様だけど―――」
詩音にはあまり影響がないのも、なんだか妙だったが。
考えていられないと立ち上がった。
付着する花粉を払いのけるも、次々に後続が来るのでキリがない。
それよりも木霊そのものを止める方が早いと判断した。
「別に殺そうってんじゃないんだから―――そもそも精霊を殺せるかどうかも不明だけど」
濁流めいた黄色の奔流を掻き分けて進んでいく。足が重い、全身に発疹が出てくるくらいに侵食されているのがわかる。
璃月に対して明確な嫌悪を向けていて、その巻き添えを喰らっていてさえ、人のままの状態で立ち向かっていたら即死レベルだったろう。
死なないだけで充分だ、と割り切って。
目の前に進路を想定して、辛うじて足元に見えるタイルの上に目標を置く。
「…………」
息を止めて、速歩で歩く。どういう心境か、背筋をまっすぐに伸ばしたままだった。
花粉なんて無いかのように、平然と歩いていく。
詩音の想像、その光景が黄色の奔流を押し流して寄せ付けない。
「…………死に際の走馬灯でも見えてるのかな」
『ヒトのくせに―――』
怨嗟が聞こえた。応えている余裕はない。
すぐ近くに寄って、間合いなんて少しもない。
一足一刀よりも近い距離に入って、詩音は左脚を踏み切って密着状態まで持ち込む。
「ぐ、う」
真下に入れば、花粉の影響が届かない。
荒れて充血した目で相手を視界に収め、小さく「こうするには」と声が漏れる。
『……⁉』
木霊が、詩音の目に映る何かを察した。
何かを見ていることしか判らないが。
それを読み切る前に、詩音の腕が動く。
さっき、璃月に対してやったのと似たような手法。指先で触れて押し込み、撫で斬る動きで何かを割いて掻き乱す。
どちらにも、身体に触れている感覚がなかった。
それなのに、木霊の内部で何かが書き変わっていく。強い違和感に、抵抗することすら忘れてしまっていた。
「……、そしてここが開くから―――」
詩音は視界に映る大きな空白を捉え、指を鉤状にした右手を思いきり突き込む。
「んっ」
どず、と重めの衝撃。
木霊がそれを受けて、体躯を大きく揺らした。後ろの杉も同じようにざわざわと全体を揺らして葉を擦る。
それ以上の動きがない。
木霊は、疑念を詩音に向ける。言葉はなかったが、目の色が隠していないだけだった。
詩音がそれに応じることなく。
全身に皮膚炎を起こして、まともに動けなくなっている。
「……、っく、ふ」
右手は、それでも、掴んだままだ。
力を籠めて、全力でその手を引いた。目に映る動作がそういう比喩表現になっているだけの話だったが。
何かが引きずり出される感覚。同時に、木霊の表皮がばきばきと音を立てて割れていく。
気の狂いそうな痛みだったが、叫んでいるのかどうかもよくわからない。
詩音の感覚がほとんど潰れている。
それでも、「処置終わり」と認識できたことだけは憶えていた。
―――怪奇現象なのか、と次の日のニュースとしてあちこちで流れた映像。
街の真ん中で黄色の嵐が吹き荒れていた様子には、時折ビルの屋上に人影と大樹が見えるという指摘があった。
ほとんどの人には見えないから、幻覚とか見間違いで済まされていたが。
時期的に黄砂には早く。また同時に原因不明の花粉症が起こっていたことから、人工の病気を撒いているとする憶測も拡がっていた。
大概の人はまともに信じてはいなかったが。
「……だって、花粉てそういうことでしょ」
「そういう方面の話だったっけ?」
すっかり元通りになっている璃月が、未だグロッキーな詩音を抱えて階段を下りていく。
その隣で、半ば人の姿に近くなった木霊が歩いて付いてきていた。
「そういうのはまだ聞きたくないかなー」
「初心だねえ」
うっせ、とそっぽを向いた。
どういう仕掛けなのかはわからないが、璃月が触れて花粉の影響を拭っていった。そのおかげで何とか生きている状態だ。
「詩音くんのしぶとさがあってだと思うけどね」
「悪運ばかり強い気がするよ」
「あはは」
今日はもう休んだ方が良いよ、となんでかぐらぐら揺らされる。赤ん坊じゃねえんだから、と言うも相手にされなかった。
「せっかくだし、この部屋でも借りていく?」
「金も払わないで勝手に使うのはちょっとな」
「うちの賽銭から出すよ」
「ほとんどないくせに、無理しないでいいんだよ?」
返答はなんでかなくて、有無を言わさぬ強引さで近くの部屋のベッドに投げ込まれた。
「ぐえー」
直後、同じ場所に木霊が自ら飛び込んでくる。
文句を言うのも出来ず、そのまま眠気に呑まれていくばかり。
数十秒もかからず、意識は途切れていた。
もともと地上に生えていた小さめの杉の木を、祭神として一番上に持っていった人物がいた。決して悪気はなかったと分かってはいたけれど。
高い場所から一人で見下ろす街の様子は、壮観だけれど寂しかった。
人が来なかったわけじゃないけれど、同じ目線で居られる方が良かった。
戻りたい、といつ頃思ったんだっけ。
杉の子、だなんてありきたりな表現だけど。
「ていうか小学校で飽きるほど聞いた」
「伸びるからだねえ。どこでもありそうな言い方だよ」
寝て起きたらすっかり元通り、不思議だと思って璃月に聞いたら「わたしがやったわけじゃない」と返ってきた。
他に理由が思い当たらないんだけど、と言いたそうな雰囲気が透けて見えたらしく。
「自己治癒力だと思うよ」
断言されない辺りがなんだか怪しい、けれど殊更追及することもないとそれ以上は言わなかった。
杉の化身、屋上にいた木霊は地上に移された。
正確には自分から居場所を変えているので、それに人が合わせる形で修正が入るのだそう。事実の改竄があっても、人には気付かれないままらしいが。
「少し前のことなんて、覚えてる人は少ないものだよ」
更地になった場所に何があったか言える人って、どれだけいるんだろうね?
聞きかじりのような言いようだった。実際そうなのだろうとは思うけど。
詩音にも覚えがあって、特に反論はできなかった。
街の花粉症騒ぎはすっかり収まり、例年通りの空気に戻っている。
せっかくだからと神社に来たのだけど、やることを終えたからか璃月の姿は見えなかった。あの時も同じように、問題が一応の解決を見たときに姿を見せなくなっていた。
必要な時にしか姿を見せない。
縋る存在というのはそういうものだと、確かにそう思う。
「んー、でもなあ」
それでは少し寂しい、となんとなく思った。できればもっと頻繁に会いたいし、話せればと欲してしまう。
それを他の人に向ければいいというのも判るのだけど。
そういうことじゃあない。
ぼんやりとしていたら、財布から千円札が零れて賽銭箱に落ちていってしまった。
「…………。いいか別に」
月の小遣いの三割だけれど、惜しいとは思わなかった。
柏手を打って、帰ろうと振り向く。拝殿の脇に大きな樹が立っていて、自然と足が向いた。
神木だし、あまり勝手に登るのは控えている。
昔はそんなことも知らずに遊んでいたな、と懐かしかった。
高い枝に着いたところで、そこに居た璃月に蹴落とされた記憶が……思い出してぶるりと震えた。
変に想像力が着いてしまって、落下などのイメージを簡単に想定できてしまう。
それだけで恐ろしく感じるくらいには、変わっているのだけど。
「……」
見上げてみると、十メーター離れた枝のところに璃月が立っている。
錯覚かな、と目を擦ってもう一度見れば今度は目が合った。
「…………」
向こうはなんだか怒ったような素振りを見せて、すぐにその枝から跳び下りてきた。
「一週間ぶりだな」
「そうだけど……下から覗かれるのは困るな」
「うん、ごめん」
見えなかったけど。前に会った時と違う服装だったから、驚いたのもある。
それで?
そう問われて、反射的に詩音も「ん?」と戻していた。
「また何かあったんじゃないの? こうやって話してるってことは」
「いくら何でもそこまでのトラブルメイカーじゃないよ」
ただ来てみただけ。
そんな返答に璃月は、そういうこともあるんだねえと不思議そうにしていた。
「じゃあ、あの子と遊んでおいでよ。向こうに居るから」
「ここに居付いてんの?」
「家の中みたいなものだよ、街の中なら」
庭ですらないのか。
スケールがやはり違うなあ、と感心するしかなかった。
「一緒に遊ぶ友達とかいないの?」
「知ってて言ってんなら悪質だよ」
「別にからかったわけじゃないんだけどね……」
背中にぽん、と手が打たれる。あまり経験がないから驚いたが、嫌ではない。
それが欲しかったかのように、満足していた。
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