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桃は狼に出会ってしまった
煌びやかな照明。振動を感じるくらい大音量で鳴り響く音楽。
音に合わせて体を揺らしながら、砕けた様子で言葉を交わし合う人。
-----あぁ、なんてところに来てしまったんだろう。
桃は激しい後悔に襲われていた。できることなら、今すぐにでもこの場から去りたい。
人生初のクラブ。入店して30分も経たずして、クラブ特有の雰囲気に疲弊していた。
できるだけ目立たないように、隅の方に身を寄せる。
世の中には、こんなにも奔放な場所があるのか。
感心しながら、同時に、桃をこの場所に連れてきた友達、茉央が早く戻ってくることを切に願いながら、踊り騒ぐ人たちを眺めた。
---------「ねぇ、お姉さん1人?」
背後から、2人組の男に声をかけられる。二人とも、20代くらいだとは思うが、随分と髪の色が派手だ。
またか。と、思わず疲弊の色を濃くしたため息を吐いく。茉央が飲み物を取りに行くと桃を置いて行ってから、これで7組目になる。
一緒に踊ろうだの、飲み物を取りに行こうだの、何かと誘い文句を投げられる。クラブは出会いの場だと言うのだから、そういう声をかけられて当然なのかもしれないが、場慣れしていない桃にとっては苦難の連続でしかなかった。
「残念、パートナーがいるの」
さらりと告げて、流し目をして見せる。慣れてる感を出して、あたかも男の人と来ているということを匂わせる言い方。これが一番、効く。6回ものお誘いを断る中で、桃が学んだことだ。
相手がいることを感じながら迫ってくる人はいない。
………はずだった。
「パートナーって、女の子?」
「よかったらその子も一緒に行こうよ」
どうやら、7回目の彼らには桃の作戦は通用しなかったらしい。ぐいぐいと桃との距離を詰めてくる。
桃は務めて冷静に、でも心臓はバクバクさせながら、少しずつ男たちと距離をとる。
「ね、いこ」
「や、」
男に腕を掴まれる、瞬間。
ぐいっと強い力に引かれて、体が後ろに傾く。肩には筋肉質な腕が乗せられて、視界の端に筋張った大きな手が見えた。
「俺の連れに何か用?」
耳元よりも少し上から聞こえる落ち着きのある声。側頭部に少し硬い感触があることから、きっと顎でも乗せられているのだろうと感じる。
何が起きたのかわからないうちに、迫っていた2人組の男たちはバツの悪そうな表情を浮かべると、そそくさとその場を立ち去っていった。
男たちが人混みに紛れて見えなくなったところで、桃は我に返ったように巻かれた腕の中から抜け出し、勢いよく振り返る。
「あぁ、残念」
そう溢した男は、黒髪のさらりとした髪に、とんでもなく整った顔をしている。思わず、桃は目を見張ったが、とりあえず助けてもらったお礼が先だと口を開く。
「あ、あの、ありがとうございました」
桃が勢いよく頭を下げると、頭上からくすくすと笑い声が降ってきた。
ゆっくりと頭を上げて見れば、男は口元を押さえて可笑しそうにしている。
「あの?」
何がそんなにおかしいのか。
お礼の仕方が変だったのだろうか。
「……お礼を言うのは、早いんじゃない?」
笑いを収めた男は、にこりと微笑んだかと思うと、突然ぐいっと桃の腕を引く。
「え、っ、!」
何が起きているのか、頭が追いつかない。
視界いっぱいに広がる、閉じられた瞼やまつ毛、黒い髪。唇には、独特の柔らかさ。
そして、
「っん、っふ、っ、ん!」
くちゅっという水音と共に、口内に入ってくる柔らかくて熱い舌。
経験したことのないような、激しいキスに息の仕方が分からず、桃は苦しくなる。
「〜っん!っ!」
掴まれていない方の手で、どんどんと肩を叩いて止めるように必死で訴える。すると、ようやく唇が離された。
やっと息ができるようになった桃は、大きく肩を上下させながら呼吸を整える。苦しさからか、目尻に少し涙が浮かぶ。
「いい顔してるね、お姉さん」
美しい顔をにこりとさせて、男は唇をぺろりと舐めた。
桃は考えるよりも、先に手が出ていた。
ぱんっ!
乾いた音は、クラブの騒音に消される。
残ったのは桃の手のひらの痛みと、相手の頬の感触だけだった。
この日、桃は人生初のクラブで、人生初のキスを盛大に奪われることになったのだった。
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