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今日、夜に
化粧品パッケージの仕事も大詰めに入り、いよいよ発売のための広告が開始される。
桃のデザインは、社内での競合も勝ち抜いて、正式に採用されたのだ。
しかも、パッケージには桃が立ち上げたブランドとのコラボと銘打たれる。
オンラインショップしか無いような、小さなブランドだというのに桃にとってはとても光栄なことだった。
今日は化粧品のCM撮影に呼ばれ、見学に来た。
自分のデザインしたパッケージがどんな風に見せられるのか、とてもワクワクとした気持ちでいた。
「桃ちゃん、ちょっといい?」
スタジオの隅に座っている桃の前に、香織がひょこっと現れて手招きをしている。桃は香織に呼ばれるがまま、近寄った。
すると、香織の背後にあったカーテンの後ろから、とても華奢で可愛らしい女性が現れた。
「こちら、今回CMやポスターに出てくれるモデルのリサちゃん!」
「初めまして、黒崎リサです。今回のパッケージ、すっごく可愛くて大好きです!」
緩やかに巻かれたアッシュの髪をふわりと揺らして、にっこりと笑う彼女はとんでもなく可愛らしかった。清楚な雰囲気と可愛らしさが合わさって、守ってあげたくなるような、そんなオーラを感じた。
(これが本物のモデルさんか、すっごく可愛い人…)
そう感心しながら、桃は笑顔で挨拶を交わして、デザインを褒めてくれたお礼も伝えた。
これから撮影だということで、挨拶もそこそこに桃は元いたパイプ明日に戻る。すると、間も無くして、リサのはしゃぐような声が耳に届いてきた。
「大狼さん!!会いたかった!」
おおがみ…?どこかで聞いた覚えがあるな、とリサの駆け出して行った方向に目をやる。
「え」
すると、そこには見慣れた千佳の姿。
リサは千佳に近づくと、思い切りハグをした。
どくり。と、心臓が大きく揺れる音がする。
ばくばくと音を立てて、収まらない。
千佳は桃に気づいていないらしく、抱きついたリサの腕をとって体から離すと笑顔で話しかけている。
どんな会話をしてるのかはわからないが、2人が笑顔を交わしているのだけは見えた。よく知った、千佳の綺麗な横顔。その顔がこちらを向こうとした。
桃は、千佳に見つかりたくなくて思わず俯く。しかし、その甲斐もなく、頭上から聞き慣れた声が聞こえてきた。
「木下さん」
「え、」
呼び方は、初めての呼び方だった。そのことに驚いて、思わずパッと顔を上げる。
相変わらず綺麗な笑顔の千佳。でも、どこかよそよそしさを感じさせる。
「木下さん、奇遇ですね」
「……………」
あまりにも胡散臭い笑顔と口調に、桃は思わず目をぱちぱちとさせる。千佳についてきたリサは、2人の関係が気になるようでらチラチラと千佳と桃を見つめていた。
(……その喋り方と呼び方はなんなの?)
(仕事中だから)
視線で訴えかけると、和かな顔を傾げた千佳。不思議と、なんと言っているのか読み取れた。
「あの…お二人って、お知り合いですか?」
視線で会話を交わしていると、リサが痺れを切らしたように聞いてきた。千佳の腕にしがみつくようにしているリサの綺麗にネイルされた手が見えて、桃は少し息が詰まるような気持ちを覚える。
「まぁ、ね。ね、木下さん」
「そーですね…」
毎週末のように夕飯を共に食べているよ、なんて言わない千佳に合わせて桃も適当に返事をする。
この子にはそれを、知られたくないってことね。
だったら、と桃は徹底して千佳に合わせ、特別親しくないことをリサにアピールした。
「じゃあ、ただの知り合いなんですね、よかった、安心しました!」
「リサちゃん、そろそろ撮影じゃない?」
「あ、ほんとだ!じゃあ、私、行きますね!」
素敵なCMになるよう、がんばります!と元気よく言い放ち、リサはその場を立ち去った。
“よかった、安心しました”という言葉が桃の頭を何度も木霊する。素直で、そしてとても可愛い子、“リサちゃん”。
「もしかしてと思ってたけど、やっぱり桃ちゃんのデザインだったんだね」
リサが立ち去った後、いつものように笑いかける千佳は桃の隣のパイプ椅子へと腰掛けた。
さっきまで、余所余所しくしたくせに。
桃は、顔を背けて千佳のことは見ないようにする。
「桃ちゃん?」
「……オオガミサンはなんでここにいるんですか?」
「仕事だよ。CM撮影の美術関係のデザインで」
撮影場所を見れば、背景の小道具の配置や、カラーそういったものがセンスよくセットされている。
「空間デザインの仕事って多岐に渡るんだよね」
「すごいですね、素敵です」
喋り方こそ余所余所しくしたが、これは本心だった。計算されているセットは、画面に映る前から魅力的だった。桃がデザインしたパッケージが映えるように、よく考えられている。
「桃ちゃんは、何に怒ってるの?」
「え?」
スッと誰にも見えないように暗幕がかかりそうな位置で、桃の手を握る。パイプ椅子は暗幕ギリギリに置かれていて、ちょっと押せば暗幕がゆらり
と動いた。
「怒ってないです」
「うそ、むくれてる」
桃の手に、千佳の指が絡められる。
「むくれてないです。手を離してください、オオガミサン」
「ほら、その呼び方」
指と指が絡まり合って、きゅっと握られる。
「っ、千佳だって一緒でしょ!」
耐えきれなくなった桃は、ばっと手を抜いて、思わず名前で千佳を呼んだ。
「一緒じゃない」
「一緒!私のこと、木下さんって呼んだでしょ!」
「嫌だった?」
「っ、」
千佳は離された手で、今度は桃の色素の薄い髪を掬い上げると、口づける。
「ねぇ、俺に木下さんって呼ばれて、寂しかった?」
寂しい?
千佳の目がじっと桃を捉える。もう、撮影は始まっていて、色々な指示が聞こえてくるのに、それはもはや周りの音と一緒になってしまっていた。
桃の耳には、千佳の声だけがはっきりと届く。
「桃ちゃん?」
「やめて」
ぐっと千佳の口元を、桃は手で押さえ込む。少しびっくりしたような千佳は、目を大きくして桃を見る。桃は、顔を少し赤くして、泣きそうな顔をしている。そして、ピンク色の小さな唇が動く。
「あの子と一緒の呼び方、しないで」
顔は逸らしたまま。恋人でもない自分が独占欲に塗れた言葉を言っている自覚はある。こんなこと言うのは、おかしいかもしれない。
けど、“寂しい?”と聞かれて、はっきり自覚した。
これは、寂しいとは違う。リサへの、嫉妬心だ。
千佳は細い桃の両手首を掴むと、口元から遠ざけた。そして、その口元には、綺麗な弧が絵が描かれている。瞳は少しギラついていて、獲物を捕らえたような、そんな目つき。
桃はぴたりと動けなくなって、千佳の瞳から目を逸せなくなる。千佳は、固まる桃の耳元に唇を寄せた。
「桃。今日、夜に」
それだけ言うと、耳朶に少しだけ唇をつけた千佳は、先ほどより柔らかい顔でふわりと微笑み、席を立った。
桃は、真っ赤になった顔を両手で押さえて、髪で顔を隠すように俯いた。
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