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局 壱
気圧の変化で耳の奥が塞がる程の速力で上昇していたエレベーターが緩やかに停まり、戸が開く。と、大店の間口が開けた。幅四メートルはある紺地の大暖簾、其の中央には「局」の文字が白く染め抜かれている。
遣り手と共に暖簾を潜れば、黒光りする板張りの玄関があった。俺達以外、人影はない。左側に伸びる廊下の奥からは雑踏の様なものが漏れ聞こえている。
「お履き物は此処で」
と、遣り手が三和土から玄関に上がりつつ言う。俺は上がり框で靴を脱いだ。遣り手は先に立って、右側に伸びる、掃除の行き届いた廊下を、滑る様に歩いて行く。俺は其の後に附いて行った。
「此処は特別なお客様専用の入口になっておりまして」
と、肩越しに遣り手が説明する。
「他の、一般のお客様方は正門から入られます。其方は大変広々としておりまして、大変賑やかで御座います。若し御興味がありましたら、後日案内致しますので、どうぞお申し付け下さい」
廊下の途中、片側の土壁が途切れ、縁側を設けた一画に行き当たった。縁側の外には日本庭園が広がっている。一面苔生した其の庭には、大きな岩が三つ、無造作に置かれ、其れらの合間を水仙が埋めている。そして水仙が群生する傍らには鹿威しが隠されていた。水流の涼やかな音が暫くしたかと思うと、やがて水の満ちた竹筒が傾き、パシャリ、水の打つ音と、透かさず、カッコン、小気味良い音が辺りに響いた。
まるで老舗旅館だな。
つい、昨晩の切見世の様子と比較してしまう。一つ上に来るだけで、こうも違うものか。とすると、更に上、取り分け太夫の階なんぞ、どうなってしまうのか。皆目見当も付かない。
俺がそんな皮算用に没頭していると、とある木戸の前で遣り手が立ち止まった。
「『護摩湯』で御座います」
遣り手は振り返って、
「お客様は既にお入りになっておいででしたね?一応では御座いますが、『局』でも『護摩湯』には十五分、お入り頂くようお願いしております」
「判りました」
俺が応えると、遣り手は胸の前で両手を合わせて、
「其れから、どう致しましょう?初回という事で、此処迄は御案内させて頂きましたが、『護摩湯』をお上がりになった後も、わたくしが御案内を続けましょうか?其れとも、お客様お一人で座敷に向かわれますか?」
「座敷の場所って判り難いですか?」
「いえ。此の廊下を真っ直ぐ行って頂き、角を折れたら直ぐで御座います」
「じゃあ、大丈夫です。有り難う御座います」
「承知致しました。どうぞ、ごゆるりと。会計はお座敷でお願い致します。其れでは……」
遣り手は慇懃に腰を折ると、廊下を戻って行った。一人になった俺は、多少緊張しつつ、「護摩湯」の戸を横に引いた。が、懸念した構造ではなかった。これも「切見世」とは異なり、脱衣場は一人用、奥の分厚い木戸を開けても、個室サウナの造りであった。俺はホッと胸を撫で下ろした。他の男達に混じって蒸されるのは、どうにも落ち着かなかったのだ。
悠々と服を脱ぎ、手狭なサウナに腰掛ける。此処の湯気はさほどの温度でなく、匂いも柑橘類に似ていた。十五分間、真夏の蜜柑畑の様な暑さと匂いの中でじっとし、サウナを出、併設されたシャワー室に入る。此処も一人分の造りだが、壁や床の白タイルにも、銀色の蛇口にも、水滴一つない。
何故、俺は「局」から調査を始めなかったのか?
間違って「切見世」に行った事を今更後悔しつつ、汗を流す。備え付きのタオルで身体を拭き、先程脱いだ物をもう一度着てから「護摩湯」を出、廊下を奥へ進む。角を曲がれば、正面は直ぐ行き止まりになっており、其処には水瓶型のつくばいが据えてあった。そして、右側には松の図を描いた襖があり、其の脇には「弥栄」と木札が掛かっている。
「もし……」
と、俺が声を掛けるや否や、襖が横に開く。
途端、視界一杯に景色が展べられた。
天地は逆様になった様だ。黒いばかりの夜空に半月が寂しく浮かんでいる。代わりに、眼下には無数の星々が瞬いている。其れらの光は白く立体的に連なり、或いは赤く血液の様に地上を流れている。白い光はビルの窓で、赤い光は車列のテールランプだ。都会特有の複雑な多重構造を照らし出しながら、東京は眠らないと教えてくれている。
俺は巨大な一枚硝子を前に呆然と立ち尽くし、夜景に見入った。そして、此処が高い塔の内部なのだと改めて実感した。俺は相当に高い階層迄到達したらしい。
「いらっしゃいませ」
瑞々しい声。俺は我に返り、声の主を見た。
「本日はお越し頂き、誠に有り難う御座います」
美しい女が畳の上で三つ指をついている。其れにしても、目新しい恰好をしている。恐らく着物を基にしているのであろうが、特筆すべきは後襟の襟ぐりの深さだ。こうして前傾姿勢でいられると、其れがより目立つ。本来なら首の辺りに沿う筈の襟が、彼女の場合、二十センチは垂れ下がっており、白い肌に盛り上がる肩甲骨の丸みもくっきり露出している。開けた襟口を覗けば、背中の全容迄一望出来そうだ。
其れから髪型。薄く茶色掛かった其の髪は、夜会巻き風にピッチリと整えられているのだが、其の結び目が後頭部でなく頭の左側に大きな束となって作られ、其の束に一本、通常の物より大きなべっ甲の簪が貫いていた。
やがて女が身体を起こし、顔を上げる。実に愛らしい顔。鼻や唇は小造りであり、対して垂れ気味の瞳は大きく、頬は丸く、あどけない、無邪気な印象。屈託ない笑みはまるで少女の様だ。これは俺の想像だが、彼女は其の童顔を紛らわせるべく髪を大人びた茶色に染めているのではないだろうか。
着ている物は矢張り和服で、濃い緑の地に熟れた紅葉が全面に鏤められた物。但し、半襟が普通よりも控え目で、僅かに鎖骨が拝める。其の艶やかな装いが、べっ甲の簪と彼女の容色に和らぎ、其の髪色に因って気さくになっている。
「初めまして。菜奈と申します」
「菜奈さん」
俺は其の名を呼びながら、彼女の前に用意されていた座布団に腰を下ろした。夜景や菜奈に釘付けとなっていた俺は、其の段になってようやく座敷を見回した。八畳の和室、正面、即ち菜奈の背後には床の間があり、笠間焼らしい黒柿色の器が飾られている。向かって右側は先程の眺望に占められている。左側は入って来た松の襖だが、其の手前に、年の頃は十七、八らしい少女が一人、座していた。
……誰だ?
「あっ。此の子は子狐といって、私の妹分です」
俺の視線を察し、菜奈が慌てて紹介する。
「此の子は留袖新造なんです。えっと、つまり、見習いの子で、禿から成長した、簡単に言うと私の弟子、ですかね」
こうも優しく、丁寧な解説をくれるという事は、俺が吉原初心者だと、菜奈には話が通っているに違いない。事実、俺は赤子同然なので、御厚意痛み入る。
取り次がれた子狐が無言で会釈する。留袖新造、といったか。禿から育った少女はそういう役職に就き、大人になれば遊女となるらしい。
其れにしても、子狐といい、毒蛾といい、廓には少女に生き物の名前を付ける風習でもあるのだろうか?しかし、当人は正しく「子狐」といった風情で、ひっつめた髪は菜奈より明るい冴え冴えした茶色、細面に、鋭く通った鼻梁、整ったツリ目、肌は雪の様に白く、全体が何処となく日本人離れした美しさに覆われていた。役職名通り、着物は変わった箇所のない留袖で、水色地に桔梗の咲く涼やかな代物で……。
と、俺があんまり繁々と観察した所為か、子狐が俯いてしまった。
「お客様、私の妹を困らせないで下さい。こんな美男子に見入られたら、女はひとたまりもないんですから」
軽口めかして菜奈が助け舟を出す。不躾な視線を投げてしまった俺は、苦笑しつつ其の船に乗っかった。
「いや、やられたのは俺の方だよ。お二人が驚くくらい美人だったから。けど、ジロジロと眺め回すのは紳士的ではなかったね。ゴメン」
「ふふっ」
菜奈が嬉しそうに微笑む。其の隙を見逃さず、俺は話題を振った。
「面白い着物だね。後ろがそんな風になっているのは、初めて見たよ」
「これですか?」
菜奈が上半身を捻りつつ、深い襟ぐりを指差す。
「そう、其れ。其れはやっぱり、遊郭特有?」
「えぇ、遊女の為の物です。どうですか?似合ってます?」
「勿論」
赤裸々なうなじや、首筋、滑らかな背中を鑑賞しつつ、俺は頷いた。
「あら?又、お客様の視線を感じるような」
そう言って、菜奈はクスクス笑った。俺は頬を掻き、
「あー、うん。どうしても見ちゃうね」
「正直なお方。子狐も慣れておかないとね。殿方の目は抜かりないんだから、覚悟しておかないと」
「はい、菜奈姉様。よく気を付けます」
子狐の少女らしく硬い生真面目な返事に、俺はスッカリ降参して、
「おっと……形勢が悪いから、あからさまに話題を変えるんだけど、其の髪型も初めて見たな」
と、簪の刺さった髪束を指摘すれば、菜奈は身体を正面に直して、
「これは『鬢玉』って言うんです。鬢って言うのは、頭の横にある髪の事なんですけど、其の儘、鬢で玉を作るから『鬢玉』って。『片鬢玉』とか、『横玉』、『毛糸玉』とか呼ばれたりもしますね。地域とか地位に因って他にも色んな髪型がありますけど、吉原の局は大体皆これですね」
「へぇ……」
髪型一つ取っても文化的意味合いの深みがあるのだと知り、自分が少し通人に近付いた気になる。
「じゃあ……質問ばっかりで面目ないけど……局の座敷は、他も全部、こんな見事な眺望なの?」
俺は大きな窓の向こうに展開する夜の東京を横目に訊いた。
「いえ」
菜奈も夜景を見つつ応える。
「此処『弥栄』の間は特別なお客様をおもてなしする座敷で、此の眺めは此処以外だともう一室しか用意されていません」
「そっか」
人間、「特別」という響きには弱いものだ。ならばと、俺は態と菜奈を見詰めて、
「そういえば、下で遣り手の人に言われたよ。『選り抜きの遊女を紹介する』って。景色もだけど、菜奈さんや子狐さんを眺めていると、俺は本当に特別扱いされてるんだなって判るよ」
「もう、お上手でいらっしゃる。皆に言ってるんでしょう?騙されませんよ。子狐、こういう男には注意しなきゃ駄目よ」
「はい、判っています」
子狐が再び真剣に頷いたものだから、俺と菜奈は互いに顔を見合わせて、笑ってしまった。
会話の切れ間を見計らっていたのだろう、子狐は音もなく立ち上がると、座敷の隅から座布団を一枚持って来、菜奈の横に置いた。
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