局 壱

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「どうぞ」  と、菜奈に誘われ、俺は其方に席を変えた。空になった座布団を、これも子狐が手際よく座敷の隅に片しに行く。教え込まれたらしい手慣れた所作だ。 「お客様、お酒やお食事はどうなさいます?」  そう言って、菜奈が俺の顔を覗き込む。菜奈の顔が間近にある。其の瞳のあどけなさたるや、うなじの白さ、背中の奥深さ、目を逸らした先には鎖骨の(くぼ)み、胸元の隆盛。 「オススメはある?」  俺は(つと)めて平静を保った。危なかった。距離が迫ると、心も傾きそうになる。 「板長が(ぼら)を自慢してました」 「なら其れと……菜奈さんや子狐さんは食べたい物ある?」 「いいんですか?」  菜奈が訊く。其の、おもねるところも飾り気もない素直な声音こそ、彼女の才覚だろう。 「どうぞどうぞ。お二人の好物を知って、もっとお近付きになりたいからね」  俺も下心を隠さず応える。回りくどい事を並べても言い訳にしか聞こえない。()して恩着せがましくするなんて、悪手も悪手だ。 「有り難う御座います。私、遠慮しませんよ?何でも美味しく頂きますけど、今夜は車海老の天ぷらが食べたくて」 「いいね。俺も貰おうかな」 「やった。子狐はどうする?」 「私は……」  遠慮しそうになる子狐に「大丈夫」と促すべく、俺はゆっくり頷いてみせた。 「では鴨鍋を」 「最近、夜は冷えるからね。菜奈さんも食べる?」 「頂きます。今夜は御馳走ですね。鯔の刺身と、海老天と、鴨鍋を三人前。お酒はどうしましょう?」 「ぬる燗で」 「私も同じにしようかな。子狐はお茶?」 「はい」  子狐は返事するなり襖を少し開け、廊下に控えた誰かに注文を伝えた。  料理が来る迄、時間がある。挨拶は済んだ。俺は居ずまいを正し、仕事に取り掛かった。 「そう言えば……突飛な事を言うんだけど……俺の事、どれくらい知ってる?」  初手は探り。菜奈は既に俺が気安い相手と悟った様子で、 「大層な色男の探偵さんだって、随分噂になってましたよ。映画みたいな話だなって、あんまり信じていなかったんですけど、実物は噂よりズット男前で、びっくりです」  というお世辞。俺は肩を(すく)めて、 「御期待に沿えたなら恐悦至極。じゃあ、其の探偵が間違って切見世に行った事は?」 「其れも噂で……本当だったんですか?」 「本当だよ。初めての吉原で、右も左もサッパリだったんだ」 「なら、私に色々訊いて下さい」  と、菜奈が肩を寄せる。彼女の頬の気配が一層濃くなる。 「助かるよ」  欲求をグッと抑え、俺は飽く迄仕事に専念した。 「其れじゃあ……気になっている事があるんだけど、新造や禿に動物や昆虫の名前を付けるのって、遊郭だと一般的なの?」  あの「毒蛾」というガキに、目の前にいる「子狐」と、吉原の外では滅多に聞かない名前に連続して出会い、廓ではこれが普通なのかどうか、俺は先ず知りたかった。が、質問してから、失敗したのでは、と不安になった。無礼だったかも知れない、と。姉貴分である菜奈を差し置いてしまった。社交辞令として、最初は菜奈本人に関する事を訊き、仲をもっと深めてから、教えを請うのが道理の順序ではなかったか……。  しかし、此の質問が大当たりを引いたのだ。  俺の杞憂を余所に、菜奈は嬉しそうに顔を(ほころ)ばせて、 「そうですね。自分の妹分にそういった生き物の名前を付ける遊女は、吉原だと多いですね。皆、今の太夫や、其の妹分である振袖新造に(あやか)りたいんですよ」  と応えたのだ。 「今の、太夫?」  (あに)(はか)らんや、俄かに調査対象に結び付き、俺はキョトンとしてしまった。 「えぇ」  此方の驚倒なぞ知る(よし)もなく、菜奈は相変わらず丁寧な説明をくれた。 「確か、今の太夫が何か昆虫の名前で、其の妹分が小動物の名前なんです。だから、遊女達は、自分の弟子に、彼女達の様に立派になって欲しいと願って、そういった名付けをするのが一時流行ったんです。私も新造時代は『(あか)蜻蛉(とんぼ)』って呼ばれてました」 「へぇ。遊女になると名前が変わるんだ」 「変わります。出世魚と同じなんです。『おぼこ』が成長すると『鯔』になる感じですね」 「面白いね。其の、流行の元になった太夫や新造は、どんな名前なの?」  俺は何気ない風を装い訊いた。内心では大いに期待が膨らんでいた。 「其れが謎なんです」  菜奈が首を傾げる。 「不思議なんですけど、誰も彼女達の名前は知らないんです。上の階は兎に角秘密ばっかりで。噂くらいは流れてくるんですけどね」  核心迄は到達出来ず、そう甘くはないか。しかし充分だ。大いなる一歩である。或いは名探偵ならばこれだけの情報で()しかすると太夫や其の見習いの名前を推理出来たかも知れないが、残念ながら今此処にいるのはお千代ではなく、探偵的素養に乏しい男だけである。  其れでも貴重な情報である事に変わりはない。 「誰も名前を知らないってのは奇妙だけど、俺は其れより、菜奈さんがどうして昔、『赤蜻蛉』って呼ばれてたか、そっちが気になるな」  俺は話題を菜奈の過去へと移した。これには菜奈との関係を深める意図もあった。 「新造の頃ですけどね」  と、菜奈が鬢玉に触れながら語る。 「秋になると、よく赤蜻蛉が私の頭に留まったんです。其れが姉さん達の簪みたいで、嬉しくて、皆に見せて回ったんですよ」 「だから『赤蜻蛉』か。可愛い思い出だね。じゃあ『子狐』っていうのは?」  訊きつつ、座敷の隅にいる少女を見やる。不意に自分の名が出たからか、子狐は持ち前の鋭い瞳を一杯に開いていた。反対に、菜奈は「よくぞ訊いてくれました」と謂わんばかりの喜色を湛えて、 「良い名前でしょう?私が付けたんですよ。しかも、ちゃんと意味があって、私の旧名とも関係してるんです。『赤とんぼ』っていう短編、御存知ですか?新見南吉っていう小説家さんが書いたんですけど」 「新見南吉……」 「ほら、国語の教科書にも載ってるじゃないですか」 「……あぁ、『ごん狐』を書いた人か。あっ、其れで『子狐』?」 「惜しいっ。そっちじゃなくて、ヒントを出すと、ウチの子狐は手袋を大事にしていて……」 「菜奈姉様、お料理が来ましたから」  と、会話を遮った子狐は耳迄真っ赤だった。身内にアレコレ語られるのが面映ゆい年頃なのだろう。菜奈も「あらあら」と袖で口許を隠しつつ、襖を開ける妹分を微笑ましく眺めていた。  臙脂色の着物を着た女達が、三人分の膳と、酒燗器、徳利と猪口、急須に茶碗を運び入れる。そして其れらが並べ終わると、臙脂色は座敷を出、入れ替わりに、三味線を携えた(ひと)が入室した。四十近い見た目だが実に上品な佇まい、髪は結い上げ、鼠色の結城紬を痩躯に馴染ませた芯の通った立ち姿には、熟練らしい余裕と静けさが漂っている。 「師匠、来て下さったんですね」  菜奈がそう言うと、師匠と呼ばれた彼女は、子狐と菜奈に目配せしてから、 「特別なお客様だとお聞きしたのでね、参らせて頂きました」  と応えた後、畳に座し、三味線を脇に置いて、俺に頭を下げた。 「芸者をしております、風花(かざはな)と申します。今宵はお越し頂き、有難う存じます」  風花が顔を上げる。其の(つぶ)らな瞳、柔和な顔を。 「師匠は偉い方なんですよ」  と、横から菜奈がはしゃいだ声を上げる。 「丁度良かった。今、噂していたトコロなんです。お客様、此方の師匠には私や子狐も稽古を付けて頂いてるんですけど、師匠は何と、太夫のお座敷に呼ばれる程の腕前なんですよ」 「へぇ!」  俺は心底驚嘆した。太夫の座敷とやらがどれだけの格式だか、素人には皆目見当も付かないが、こうも立て続けに太夫への足掛かりが現れては、胸も躍るというものだ。 「はしたないですよ」  はしゃぐ菜奈を、師匠がやんわり(たしな)める。 「芸事は己惚れたらお終い。其れに、そんな私が稽古を付けているというのに、菜奈さんはちっとも上達しませんね」  チクリと刺された菜奈は子供っぽく舌を出して、 「私、多分、三味線は不得手なんです。けど、私が苦手な分、子狐が巧いので大丈夫ですよ」 「何が大丈夫なんですか、もう」  師匠は呆れつつ、俺に向き直った。 「騒がしい弟子で申し訳ありません。これでも局では一番の売れっ子なのですが」 「いえいえ。皆さん、仲が良いんですね」 「えぇ、まぁ」  師匠が返事を濁す。其の間に、子狐が新しい座布団を座敷の隅に用意していた。 「有り難う」  師匠は実に物腰柔らかく子狐に礼を言い、其の座布団に座を移した。子狐は目礼だけ返し、元の位置に戻った。 「では、早速ですが一曲……どうぞ遠慮せず、お召し上がりになりながらお聞き下さい」  そう言うと、師匠は三味線を構えた。其れは(まさ)に「構え」と呼ぶべきもので、三味線の膨らんだ胴は膝の上にしっくりと収まり、細長い(さお)は浮かぶ様に斜め上を向き、弦には師匠の左手の指が静かに這っていた。右手にはいつの間にか(ばち)が握られ、其の象牙色の扇形が、張り詰めた弦にそっと添えられている。 「お客様、どうぞ」  声を掛けられ、横を見やる。と、先程の無邪気さとは打って変わって、瞳の奥に色を宿した菜奈が顔を傾け、盃を俺に手渡すのだ。其れを受け取ると、菜奈はそつのない所作で徳利を持ち上げ、徐に酒を注いだ。華やかな香りが座敷に咲く。と同時、軽やかな音が響いた。撥の尖った先端が、弦を弾いたのである。  ……俺は三味線に明るくなく、今聞いている曲の名も知らない。が、此の穏やかな音色、単調な様で飽きのこない音運び、部屋全体を包む様な間の取り方、どれにしたって名人の技だという事くらいは判る。猪口に口を付ければ、人肌に温められた酒は透き通る呑み易さ。鯔も身がしっかりとして食感がよく、白身らしいサラリとした甘さ。左を見れば東京の夜景、右を見れば菜奈の横顔と露わになった彼女の背中。  魔法だな。俺は酒を呑みつつ考えた。吉原に足繫く通う男達を、俺はこれでもう、非難出来ない。  其れからも演奏は続き、曲の合間合間に料理や追加した酒が運ばれた。菜奈は天ぷらを巧そうに平らげ、煮えた鴨鍋に子狐は瞳を輝かせた。互いに冗談を言い合い、師匠も混じって、俺達は笑い声を上げた。俺は上機嫌だった。今夜の首尾はなかなかのものだ。棚ボタながら、有力な話を聞けたのだ。今後の調査の為にも、此処にいる面々とは打ち解けておくべきだろう。決して下心ではなく、忘八の依頼を達成する為に……。  しかし、三味線が弾かれ、酒と料理が進むにつれ、俺は難局の近付いている事に気が付いた。此処は何処か?吉原である。となれば、此の儘だと、成り行き上、座敷には布団が敷かれる。菜奈は遊女だ。当然、同衾の段と相成る。これをどう回避するか、俺は頭を悩ませた。  お千代との約束を破る積もりは毛頭ない。が、床入りを正面から断っては、菜奈の矜持を傷付けやしないか?折角、仲を深めようとしているのに、いやもっと単純に、菜奈を悲しませるとは、罪悪感で俺が堪えられない。  何とか婉曲に、穏便に、断る方法はないか。談笑する裏で俺独り焦っていると、 「そうそう」  と、菜奈が俺の肩に手を置いて、 「お客様、御存知でしたら申し訳ないんですけど、護摩湯で浴衣に着替えていらっしゃらないという事は、今夜はお早いお帰りですか?」  と訊いてきた。一瞬、何を言われているか理解出来なかったが、俺は懸命に頭脳を働かせ、質問の意味を解読した……座敷に来る前、俺はサウナに入った。其の脱衣場には浴衣が用意されていたのだろう。が、俺は其れを見落とし、洋服の儘、「弥栄」の座敷に来た。恐らくだが、浴衣に着替えるか否かで、今夜床入りするかどうか、意思表示する仕組みなのだ。とすれば、俺はハナから床入りを回避していたのではないか……此処迄を数秒間で思考する。 「そうなんだよ。悔しいけど、此の後、予定があってさ」  俺は訳知り顔で応えた。 「やっぱり。お時間は大丈夫ですか?」 「おっと」  俺は端末を呼び出し、空中に投射された時計を確認するフリをして、 「そろそろ行かないと。愉しくて、時間を忘れてたよ」  と言いつつ、懐に手を入れ、例の黒いカードを取り出した。見越していたのか、子狐は既に立って傍にいる。俺は子狐にカードを渡した。子狐は会釈して受け取り、楚々と座敷を出て行った。  此の時、誰もカードを繁々と眺めようとはしなかった。無論、子狐は一瞥したが、カードの色を見てあからさまに態度を変えたりはせず、粛々と業務をこなしていた。師匠も微笑むばかり、カードの存在なぞ気付きもしないといった(てい)である。そして菜奈に至っては歯牙にもかけず、先程から俺の横顔をズット見詰めている。元よりあのカードは俺の物ではないので、そも、カードのランクを誇示する立場にないが、其れを悟ったのか、(はた)(また)俺が金持ち自慢する性質(たち)でないと早くも見抜き、敢えて無言で俺の顔を凝視しているのだとしたら、大したものだ。  やがて襖が開く。其の一瞬……ほんの数秒だが……廊下にいる子狐の憂鬱な様子がチラリと覗かれた。俯き、暗い顔をしている様に見えた。問い質す程のものではないが、妙に引っ掛かる。が、子狐は座敷に戻ると顔を上げ、 「有り難う御座いました」  と、もう平静な調子でカードを返してきたので、終に質問の機会を逸してしまった。  ……俺の見間違いだったかも知れない……。 「では、お見送りを」  と言って、俺と共に、菜奈だけが立ち上がる。子狐も師匠も座った儘、丁寧に頭を下げていた。 「今夜は本当に素敵でした」  廊下を歩きながら、菜奈が俺の手を取って謝辞を述べる。 「お客様ったら、幾ら見ても見飽きない色男なんですもの」 「嬉しいけど、俺こそ、いつ迄だって菜奈さんを見ていたいよ」  軟派な台詞が飛び出るのも、吉原の中だからか、相手が遊女だからか、判然としない内に俺達は玄関に着いた。 「お客様」  菜奈は改めて俺の手を握って、 「又、逢いにいらして下さいね」  と言って、俺の頬に其の唇を付けた。 「おまじないですよ。さっき、お客様のお顔の何処にキスしようか、観察しながら考えてたんですから」 「いや、もう、白旗だよ」  三和土に揃えられた靴を履きつつ、「選り抜き」の看板に偽りなしだなと、少し濡れた頬から身に沁みた。 「又、直ぐ逢いに来るよ」 「絶対ですよ」  指切りの約束をし、二人の小指が離れ、俺は菜奈と別れた。  さて、暖簾を潜ると、正面のエレベーターが、チーンッと、到着の鐘を鳴らしていた。そして、開いた戸から、男が一人、現れた。スーツを着込み、顔の皺の似合う、苦み走った伊達男である。年齢(とし)は五十くらいだろうか……と、つい職業病で人相を覚えていると、すれ違いざま、男は胡乱に俺を睨んだ。俺は年上の睨みに怖れをなし、そそくさとエレベーターに乗り込み、慌てて「閉」のボタンを押したのだった。
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