局 弐

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局 弐

 自宅にて眠る、という事実は、吉原帰りの俺には勲章の様に思えた。誘惑に打ち()った証拠である。其の夜は清廉な床に就き、朝になれば胸を張って事務所へ向かった。  昨日とは違う。俺には何ら(やま)しいトコロがない。加えて、太夫について僅かながら情報も得た。お千代に報告するのが今から愉しみだ。  秋晴れの下、金木製の香りを辿り「蓼喰探偵事務所」の門扉に着く。正門を開け、木陰の道を歩く。と、前方の建物の玄関が開き、お千代が現れた。今日も今日とてスーツ姿である。 「お早う」  俺が挨拶しつつ近付く。 「お早う」  お千代が面を上げ、俺を見る。金瞳が朝陽に煌めく。 「もう出掛けるのか?」 「うむ。君に連絡し忘れていたね。済まないが、留守を頼むよ」  そう言うと、お千代は銀髪を翻し、車に乗り込んだ。赤いアンティークカーが走り去る。  さて、どうしたものか。  事務所に入った俺は、空振った気持ちを抱え、拗ねていた。折角、良い報告が出来ると喜んでいたのに……。  いや、いじけていても仕方がない。愉しみが後に伸びたと考えよう。お千代の手が空いている時にでも報告すればいい事だし、其れ迄に更なる成果を上げてお千代を驚かしてやろうという気概がなければいけない。  ……其れにしても……。  俺は仕事場の真ん中に立ち、腕を組んだ。所長不在の今日を、俺はどう過ごすべきか?吉原調査の夜迄、手持無沙汰である。他の依頼はなし、新規客も断っている現状は、殆ど開店休業だ。  結局、俺は昨日に引き続き、二階の物置部屋を片付ける事にした。書類整理や部屋の掃除は、本格的にやろうとするとかなりの時間を要する。こういった、暇な日にはお誂え向きだ。  此の狙いは当たり、作業に熱中していると、いつの間にか日が高くなり、昼飯を喰い、日が傾いて、窓から差し込む明かりが段々と茜色に染まって、日が暮れた。物置も大分片付いた。  秋の夜長。出勤である。俺は今夜も探偵として吉原へ向かった。  地下鉄の駅を出、通りに上がると、月下に冷えた夜気が肌寒い。しかし吉原に近付くにつれ、何処からともなく男達が集まり、群れと化し、狭い路地に流れ込んで、人いきれ、熱気に汗ばむ程だ。  大門を抜ける。町屋通りは相変わらず活気付いている。通りを進みながら、今夜はどんな算段で太夫の情報を引き出そうか、あわよくば上階へ行けないか、せめて其の手掛かりを得るなら矢張り菜奈との仲を深めなければ、等々、皮算用していると、茶屋の店先にて、見知った顔が縁台に座して一服しているトコロに鉢合わせた。 「よぉ」  俺から声を掛ける。と、相手は子犬をあやしていた手を止め、如何にもウンザリとした顔。 「げっ、盆暗(ぼんくら)探偵」 「御挨拶だな、泥棒禿(かむろ)」  俺は毒蛾の隣に腰掛けて、 「其の犬は?盗んだのか?」  と訊いた。毒蛾の足許には、金色の毛玉に似た、フワフワとしたポメラニアンが一匹、じゃれついている。 「五月蠅ェな」  毒蛾が犬を抱き上げる。首輪はないが、汚れもなく、毛並みも良い。人慣れもしている。野良ではない様だが。 「迷子か?」  再び訊くも、 「さぁな。ウチの知った事じゃねぇや。なぁ?博光丸」 「お前……名前を付けちゃったのかよ」 「はん!何にだって名前は()るだろうがよ。其れに、コイツの名前の由来も知らなそうなアンタに、説教されたくないね」  相変わらずの憎まれ口だが、席を立って俺から逃げようとうはしない。イマイチ距離の掴めない奴だ。財布を盗んだかと思えば、俺を局に紹介したり、言動に一貫性がない。 「なぁ、どうして俺の事を局に教えたんだ?」  直截に訊く。 「切見世に居残られたら、アンタの顔を何度も拝まなきゃいけなくなるからだよ」  態度と口の悪さにも慣れてきた。俺は寧ろ、毒蛾に抱えられた博光丸が吠えもせず大人しくしている事に感心した。 「まぁ、助かったよ。一応、礼は言っとく」 「其りゃどうも。誠意は勘定してキッチリ換金して貰いたいね」  此の年齢で銭ゲバとは、どんな育ち方をしたのやら。  其処で、ふと、毒蛾は吉原で育った事を思い出した。加えて、「名前は要る」という台詞が脳内で混じり、ある疑問が湧いた。 「なぁ、毒蛾」 「何だよ?気安く呼ぶなってんだ」 「お前の母親って、維織さんか?」 「なっ……」  絶句、とは、こういう表情を言うのだろう。毒蛾は目をまん丸にし、子犬を取り零した。博光丸は無事に着地し、其の黒い目で俺達を不思議そうに見上げていた。 「莫迦っ……無気味な事を言ってんじゃねぇや!」  おかっぱが逆立つ勢いで毒蛾が詰め寄る。 「どうしたら、そうなるってんだ!あぁ?」 「いや、だって、お前の名付けって維織さんがしたんだろ?そんな様な事を言ってたじゃないか」 「其れは……そうだけどよ」  毒蛾は湯飲みを掴むと、自棄っぱちに茶を飲み干して、 「あのなぁ、盆暗。寒い勘違いをこれ以上されたくねェから講釈してやるけどよ、此処ではな、名付けは母親がする訳じゃねェんだよ。アンタには菜奈が子狐の母親に見えんのか?」 「確かに見えないな」 「判ったか。ったく、姉貴分は唯の姉貴分ってだけで、皆、別に本当の母親がいるんだよ」  という事は、毒蛾にも本当の母親がいるのか。子狐にも……。 「なぁ、毒蛾」 「何だよ?マジで五月蠅ェな、アンタ。もう行っていいか?折角、一仕事終えて祝杯挙げてたってのに、台なしだよ」 「祝杯って、茶に団子じゃないか。其れ、(おご)ってやるから、後一つ教えてくれないか」 「チッ……」  舌打ちしつつ、毒蛾は団子を食べ切り、 「おばちゃん、土産用に二人前、包んどいて。払いはコッチの旦那に」  と注文した。図太い奴だ。 「まぁいい。質問には応えろよ」  俺が念を押す。 「しょうがねぇ。言ってみな」 「『恋の妙薬』って、何だ?」  あの晩からズット気になっていた。維織が床入り直前に服用した、あの赤い錠剤の正体が。 「あぁ。避妊薬だよ」  毒蛾はアッサリ応えた。 「此の吉原だけじゃなくってな、全国の遊郭に配られてる代物さ。(つい)でに教えといてやるよ。政府はな、遊郭復活の際、二つの公約を標榜してんだ。其れが避妊と性病予防だよ。アンタも入ったろ?『護摩湯』だよ。アレが薬湯になってんのさ。で、避妊の方は錠剤、ウチらの間じゃあ『恋の妙薬』なんて呼ばれてるよ。アレな、普通は客のいないトコで事前に飲んでおくんだが、維織は其処ら辺、パァだからな」 「避妊に性病予防……そんな事してたのか」 「当たり前だろ。じゃねぇと、こんな場所、人権だ何だって、()ぐ潰されちまうよ。不貞防止法がどうの、ってのもあるけどよ、夜鷹が増えると梅毒も増えるってんで、お上が管理する遊郭じゃあ性病を徹底予防する、っつうお題目があっから、此処は存続してんのよ」  毒蛾は年恰好に似合わず滔々と遊郭の政治的内情を()き終えると、茶屋の店員から紙袋を受け取って、縁台から飛び下りた。 「ちったぁ勉強するこったな、探偵さん」  ニィッと、悪ガキらしい笑みを残し、「行くぞ」と、博光丸に声を掛け、其の儘、子供一人と犬一匹は走り去った。俺の背後では茶屋の店員が待ち構えている。俺は店員に自分の財布から現金を渡した。あの毒蛾の事だからもっと吹っ掛けてくるかと思ったが、授業料と考えればいっそ安いものだ。
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