局 弐

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 俺も席を立つ。通りを抜け、襖型の自動ドアから塔の中に入る。昨晩教わった手筈、即ち光背の描かれた銀色のカードを使って、厳重な蔵戸門を開けようとした。が、其の前に遣り手の方から俺に声を掛けてきた。 「これはこれは、ようこそお出で下さいました」  日参しているからか、相手の態度から堅さが取れ、声色には砕けた調子があった。 「菜奈も喜びます。さ、さ、どうぞ」  蔵戸門が開き、エレベーターに共に乗り込む。 「良き時に来て頂けました。今夜は『ほたけ祭』ですから」 「お祭ですか」 「吉原の風物詩で御座います。大広間は大変な賑わいで。御覧になられます?」 「そうですね……」  俺は少し悩み、 「見てみたいですね」  と応えた。少し覗く程度なら仕事に支障もないだろう。 「畏まりました」  エレベーターを降り、「局」の暖簾を潜って、三和土から上がる。と、遣り手は昨夜とは逆方向、左の廊下へ入った。他に誰もいない廊下には既に喧噪が反響している。 「『ほたけ祭』というのは」  と、前を歩く遣り手が語る。 「『(ふいご)祭』とも申しまして、其の名の通り、鞴を使用する者、例えば鍛冶屋や鋳物師が、火難除けを祈願するお祭です。旧暦の十一月に行われるのですが、其の時期は季節の変わり目、間もなく到来する冬にやられ、風邪をひき易いという事で、其の予防の為、お祭では子供達に蜜柑を配るんですよ」  遣り手の説明の向こう側から喧噪は段々に大きくなり、廊下の出口を抜けると、俄かに視界が開けた。そして、眼下には人、人、人、人混みが、ギュウギュウとひしめいていた。  此処が大広間か。吹き抜けの二層構造、其の上層にあたる回廊に俺はいた。手すりを掴み、下層を見渡す。体育館より広い其処に男達が群れている。彼らを取り囲む装飾……赤い壁に、金の柱……そして、男達の間を泳ぐ様に行き交う遊女達は、手に手に蜜柑を持ち、時折其れらを放り投げている。蜜柑が宙を舞えば、禿や新造が走って其れらを捕まえにくる。禿の一人が空中の蜜柑を二つ同時に掴む。と、ドッと、一同が賞賛の声を上げ、拍手を送った。其れで興の乗った遊女達が、花吹雪でも散らすかの如く、ワッと、大量の果実を放った。男達は大笑い、子供達は柑橘を拾い上げ、遊女達は袖で口許を隠す。鬢玉に刺さった簪の飾りがキラキラと揺らめく。 「禿や新造に自分の蜜柑を拾われると、運勢も拾われるといって、遊女だけでなく皆様よく投げられます。どうでしょう?お客様もお一つ」  と言って、遣り手は巾着から橙色の楕円体を取り出した。「護摩湯」で嗅いだ匂いと同じ、溌剌たる蜜柑である。  俺が其の果実を受け取ると、遣り手はある場所を指差した。回廊の赤壁にポッカリ空いた階段口を。 「此処から下った先は隠し戸になっておりますので、上に戻る際は、あの銀色のカードをお使い下さい。菜奈には私から遅れる旨を伝えて参ります」 「お願いします」  遣り手と別れ、俺は階段を下りた。「く」の字型を下り切ると、突き当りに漆塗りの戸。其の戸を押し開ければ、群衆の影が顔を覆った。上から眺めていた時には感じられなかった熱気の様なものが、うねる人波から漂ってくる。思い切って其の中に混じってみると、喝采は四方から聞こえ、すれ違う男達は皆々浮き足立って顔が(ゆる)み、そんな彼らの合間合間を遊女達が舞う様にかき分け、あの深い襟ぐりから背中を露わにしつつ、パッと、蜜柑を放り投げると、小さな人影が隙間を縫う風の様に走り抜け、かと思えば禿達が我先にと橙色の果実を奪っていく。其れを見た男達が又(はや)し立てる。中には子供達と共に蜜柑を拾う者もいる。酒瓶を振り上げる者もある。偶然目の合った遊女が白い肩を出す。辺りはスッカリ乱痴気騒ぎ、極彩色の着物の踊りも相まって、宛も熱帯雨林が如く、広間は妖しい暑さに包まれていた。  男女の熱狂の渦、其の中心に飲み込まれる前に、俺は壁際に退避した。集団から離れて初めて俺は自分が汗をかいている事を知った。目の前では祭が続いている。何という人の数。普段からこれ程の客入りなのだろうか?  俺は手中の蜜柑を見下ろした。渡しそびれた果物。自分で食べてしまおうか。しかしどうせなら御利益に(あずか)りたい。そうだ、子狐にあげよう。しかし祭の騒ぎの内に彼女の姿は見当たらなかった。俺は広間を見回した。直ぐ近くにエレベーターが並んでいる。下階と直結しているのであろう。ならば、此の広間こそ局の正面玄関に相違ない。改めて調度を検分すれば、吹き抜けの高い天井には格子が嵌められ、升目には一々花が描かれていた。其の天井から吊るされた行燈が室内を煌々と照らしている。俺が背を預けている金の柱が、他にも幾筋と立ち、部屋を縦に支えている。広間の中央には、植栽やら、提灯やらが置かれていた気もするが、騒ぎの渦中にあっては確かめようもない。  広間の奥へと目をやる。赤壁に空いた口に長々と暖簾の掛かった箇所がある。暖簾には「此方」の文字。切見世でも見掛けた物だ。という事は、あの向こう側こそ、本来の局の中枢という訳か。俺は興味本位に、人々の脇を歩いて、雑踏から遠退(とおの)き、寂静(じゃくじょう)たる広間の奥から、首だけ暖簾を潜る。  と、正面に、左右に、十字に延々伸びる廊下がお目見えした。廊下の途中途中には戸が設けてあり、「花毯」だの「(さざなみ)」だのと木札が掛かっている。座敷の名だろうか。本当に旅館の様だ。此の膨大な座敷の一つ一つの内で、夜な夜な、睦言が交わされているのか……。  ……なんて、鑑賞に耽っていると、左側、廊下の片隅にて、二人の新造を発見した。しかも、其の内の一人は子狐で、彼女は着物の袖口で(もっ)(しき)りに目元を拭っている。泣いているらしい。  俺は慌てて首を引っ込めた。広間の元いた場所に急いで戻り、再び壁にもたれる。其の内、暖簾から、子狐と、もう一人の新造が顔を出した。俺は声を掛けるべきか否か一瞬迷った。が、無視をするのも妙なので、涙の件は知らぬフリと決め、少女達に近付き挨拶した。 「こんばんは」 「お客様」  子狐は既に涼やかな澄まし顔でいた。が、キレ長の瞳の端に、涙の跡が、酔った様にほんのり赤く残り、少女を大人びて見せた。濃青地に山茶花の咲き乱れる派手な着物とも似合っている。  もう一人の新造は、納戸色の地に白百合をポツポツと散らした、少々地味な着物に身を包んだ、ひっつめた黒髪の艶々とした美少女であった。どう美しいかといって、清廉無垢と表現する他ないが、古い言い方を用いれば大和撫子其の物である。全体に華奢な、透き通る感じで、大きく形の良い瞳が特に印象的である。 「此のお方が?」  と、其の少女が子狐の袖を引っ張った。 「えぇ。お客様、此の子は私と同じ、留袖新造の百合子ちゃんです」  子狐に紹介された少女は、(まばゆ)い笑顔を浮かべた。 「百合子です。子狐ちゃんとは仲良くして頂いてます。菜奈お姉様にもいつもお世話になっていて」  其れから百合子は俺の顔を見上げて、 「噂通りのお方ね」  と、子狐に耳打ちした。秘めやかな微笑を袖で隠しながら……。  俺は(たま)らず、照れ隠しに、 「俺ってそんなに目立つ?」 「えっと……其の」  子狐が返事に窮する。対照的に、百合子は余裕の顔で、 「目立ちますよ。格好良くて、お金持ち、しかも探偵さんだなんて」 「ハードルが上がり過ぎて怖いくらいだけど、もうそんなに俺の話って広まってるの?」 「其れは、もう」  百合子は下を見、上を見やって、 「かなり広まってるんじゃないかな。切見世にも、上の散茶にも。局の新造達の間じゃあ、探偵さんの話で持ち切りですよ。初日でいきなり『弥栄』の間に通されたって」 「そんな事迄知ってるんだ」 「ふふっ。だって此処は女の国ですもの」  野火が如く、とは此の事か。あんまり知れ渡っては調査もし難くなるのでは、と、危惧されるが、俺はふと、此の状況を逆手に取ってやろうと思い付いた。()しくも祭の蚊帳の外、誰も此方に注目していない。吉原の者達が噂好きなら、個別に探りを入れるにはもってこいだ。噂好きとは、即ち、話好きなのだから。 「其れにしても、凄い客入りだね」  俺は手始めに眼前の騒ぎを話題にした。 「局はいつもこんなに繁盛してるの?」 「今日はお祭ですから」  と子狐が応え、百合子が「でも」と引き継ぐ。 「普段も沢山いらっしゃいますね。吉原だと、局が一番お客さんが入るので」 「へぇ、局が一番なんだ。散茶とか、格子よりも?」  聞き(かじ)った知識を頼りに質問を重ねる。散茶やら格子やら、実際はどんな場所か見当も付かないが、切見世と局を対比し、単純に上階程賑わっているものと推量していたので、局の客足が最たるものというのは意外だった。 「上に行ける人は限られていますから」  百合子が丁寧に語る。 「勿論、お金のある方なら散茶には行けると思います。其れでも、本当に大変な料金が掛かってしまいますけど。格子は更に大変で、お金があるだけではいけないんです。特別なお客様でないと。其の点、局は丁度良いんです。紹介がなくとも、誰でも気兼ねせず御来店頂けますし、遊び方次第では、お金もそんなに掛かりませんから。切見世も、料金は安いですけれど、やっぱり吉原に来たからには、もう少し奮発して局に、と、そうお考えになる方が多いんだと思います」 「成程」  俺はスッカリ感心してしまった。百合子の語り口には説得力があった。 「じゃあ、太夫なんかは夢の又夢だね」  絵空事を語るフリをして、俺は一歩踏み込んだ。 「男の人は全員、太夫がお好きですね」  百合子はそう言って苦笑し、子狐と「ねぇ」「ねぇ」と頷き合った。 「かもね。でも、男だけじゃなくて、女性にとっては?二人は憧れたりしない?」 「憧れは、あるかも知れませんけど、私の目標は菜奈姉様なので」  と子狐は応え、徐に百合子を見やった。 「どう?百合子ちゃんは太夫の実物が見た事あったよね?やっぱり本物を見ると憧れる?」 「見た事はあるけどね」  百合子の返事に、俺は色めき立った。が、膨らむ期待は胸中に収め、飽く迄冷静に話題を続けた。 「太夫さんは美人だった?」 「其れは、もう、もう、神々しいお方で」  其の白い頬に朱を差し、百合子はウットリと、 「天女様でした。憧れるなんて畏れ多いくらい。其れに、太夫の階も非常に荘厳で、此の世の極楽みたいな所ですよ」 「百合子さんは、太夫の階に行った事があるんだ?」 「はい、有り難い事に」 「吉原で働いている人なら誰でも太夫の階に行けるの?」 「いいえ、百合子ちゃんは特別なんです」  とは子狐。 「普通の新造は、殆ど自分の住む階だけにいるんですけど、百合子ちゃんは要領がいいし、世話好きで、頼りにする人が多くて、色んな階にお手伝いやお使いを頼まれるんです」  しめた!心の中で手を叩く。 「太夫にもお使いを?」  俺が訊くと、百合子は恥ずかしそうに、しかし目蓋の上に誇らしさを添えて頷いた。 「(たま)に、ですけど」  俺は畳み掛ける様に、 「最近も行った?太夫の様子はどうだった?」  と訊き、其の後、やや性急に過ぎたかと、即座に反省した。つい必死になってしまった。俺は前のめりになった姿勢を正し、意識的にゆっくりと頬を掻いて、 「職業病かな。秘密めいたものは知りたくなっちゃって」  と、似合わない言い訳で取り繕った。果たして効果があったかどうか、百合子は顔色も変えず、 「近頃は全然なんです。太夫の階への出入りが急に厳しくなって」 「ふぅん。其れはいつ頃から?」 「十日前、くらいでしょうか」  大臣が消えた時期と重なる。 「出入りが厳しくなる事って、結構あるの?」 「いえ。少なくとも、私には経験がありません。だから不思議で」  そう応える百合子と共に、子狐も首を傾げて、 「何かあったのかな?」 「さぁ……太夫ともなると、色々事情がおありなんだろうけど」  少女達が囁き合う。頼みの綱がふっつりと途切れ、手応えのなくなった瞬間を俺は感じ取った。引き際か。 「最後に一つ、百合子さんに質問なんだけど……太夫の名前って、知ってる?」 「ご免なさい、知らないんです。昆虫の名前だというのは、噂では聞いたんですけど」 「あぁ、いや、謝らないで」  俺は自分の立ち位置を移した。子狐と百合子の正面を退き、彼女達と横一列になるよう、壁を背に、広間の騒ぎを改めて眺めた。 「長話で引き留めちゃったね。二人はお祭には参加しないの?」  此の問いに、何故か百合子が気遣わしく子狐の肩に触れ、 「混じってたんですけど、疲れてしまって」  と応えた。其れでようやく、俺は子狐の涙を思い出した。事情は不明だが、故にこれ以上踏み込むべきではない話題だと察した。が、無言になるのもあからさまで、バツが悪い。俺は咄嗟に己の手中を確かめた。ふっくらとした蜜柑が握られている。 「そうそう、これ、遣り手の(ひと)に貰ったんだけど、縁起物なんだってね。新造にあげると良いって言われたよ。折角だし、子狐さん、貰ってくれない?」  俺は場の空気を換えようと、敢えて陽気に提案した。が、子狐は一層表情を暗くして、 「いえ……私にはもう、其の資格は御座いませんので……」  と断り、俯いてしまった。  時間が凍ったかの様だった。差し出された蜜柑は行き場を失い、俺には言葉がなかった。怖れていた痛々しい沈黙が落ち、祭囃子が俺達を冷やかす様に()いている。 「じゃあ私が頂こうかな」  口を切ったのは百合子だった。百合子は水を(すく)う様な形で両手を合わせて、 「いいですか?探偵様」  と言った。 「あ、あぁ、うん。勿論」  俺は彼女の掌の窪みに蜜柑をそっと置いた。小さな白い手に、橙色のまん丸が柔く(くる)まる。 「やった。こんなに格好良い殿方から頂けて、御利益が凄そうです」 「だといいけどね」 「まぁ、御謙遜」  百合子は天晴と蜜柑を掲げてみせ、其れでようやく子狐が微笑んだ。天を衝く果物が目印になったのか、其の時、遣り手が群衆を避け此方へやって来た。 「お客様」  遣り手はホッとした顔で、 「お待たせ致しました。菜奈の支度が整って御座います」  と案内してから、俺の横にいる新造二人を認めた。 「あら、お相手して頂いていたの?」 「はい、お話を」  百合子が応える。 「つまらないお話で困らせてはいけませんよ。貴女達は仕様のない噂ばっかり追い掛けているんですから」  遣り手のお叱言(こごと)にも慣れたもの、二人は「はぁい」と、揃いの和やかな返事。 「まったく……ほら、子狐さん、お客様をお座敷にお通しして」 「はい。どうぞ、お客様」  と、子狐が手で示し、先に立って行く。俺は百合子と遣り手に別れを告げ、附いて行った。  ……俺達が離れると、遣り手と百合子は何やら打ち合わせを始めた様だった。相変わらずの乱痴気騒ぎに邪魔され、切れ切れにしか聞こえなかったが、其の打ち合わせの断片が矢鱈と耳に付いたのは、何故か……。 「此方です。お客様、カードを」  子狐の声で正気付く。其処は広間の片隅、余所と同じく赤い壁に塞がれているのだが、子狐の示した箇所にだけ金色の法輪が描かれていた。俺は銀色のカードを取り出し、法輪にかざしてみれば、壁が僅かに奥へズれ、回転式の扉に早変わりである。  これが隠し戸か。  子狐は先に戸を抜け、階段を上がって行った。俺も後に続きながら、先程耳にした、遣り手と百合子の会話を思い出していた。 「……控室も物騒だから……貴重品は大切に……」 「……承知しています……子狐ちゃんも……皆、鍵を掛けてますから……」
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