Cabinet

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「これで報告は以上だ」  俺は淡々と告げた。実際、昇格話は俺の実力でなく、お千代の加勢があったおかげである。俺が誇れる事は何もない。幸運に恵まれただけ、怖いくらいのトントン拍子だ。  ふと、壁掛け時計を見やる。間もなく十時。 「今日はゆっくりなんだな」  俺はお千代にそう言った。最近のお千代は朝早くから霞が関へ出向くのが日課になっていたので、昼迄事務所に居残っている事が珍しかったのだ。  お千代は紫煙を吹かし吹かし、天井のファンを見上げて、 「今日はアポが全く取り付けられなくてね」  と零した後、机上の書類(言及を避けてきたが、所長机の上には雑多な書類が山脈を連ねている)を大儀そうに拾って、 「えーっと。そうそう、今日は終日、厚生委員会が開かれているそうだ。其の会議に、私が聞き込みしたい連中が皆出席しているものだから、仕事が出来ないんだよ。お役人の会議好きは最早病気だね」 「へぇ……どんな会議なんだ?」 「其れはね……よいしょ」  と、お千代は姿勢を正し、手にした書類を読み上げた。 「『売春に関する風紀紊乱の諸問題を議論すべく、警視庁生活安全課長、法務大臣代理、そして全国でも唯一遊郭を有しない県の代表として秋田県地方検察庁次席検事、更に全国遊里保険組合長を有識者として招聘し、合法売春の是非について省庁レベルでの認識を共有すべく』……ふむ……早い話が、遊郭を潰す為の会議だね」 「え?遊郭って潰されるのか?」  作ったのは政府なのに、と俺が言い掛けるより先に、お千代は煙管を吸って、 「世論の風当たりは日増しに強まっているからね。けど、現状は飽く迄ポーズだろうよ。『我々も対応に苦慮しています』と民衆に見せる為の演劇さ。其の証拠に、抱き合わせの不防法についても、後発の女性用風俗にも触れていない。これじゃあ何も決まらないよ。急先鋒の法務大臣が失踪しているのだから、其れも致し方ないがね。ところで、どうも、私が調べたトコロに因ると、失踪前、大臣は遊郭に関する何らかの法案を、厚生省を通して本格的に煮詰めていたらしいんだが……」  政治の話になると俺の頭では理解が追い着かず、特に俺なんかは不真面目の典型で、大臣の名前と顔も一致しないのだから、政治でなく、他の話題に興味がそそられ、無意識に口に出していたとしても、決して俺の配慮が欠けていた訳ではない、と言い訳しておく。 「女性にも風俗ってあるんだな」  そう。つい、こんな事を口走ってしまった後、己の失態に気が付き、発言を撤回しようとしても手遅れだった。お千代は既にニヤニヤと嫌な笑みを浮かべて、 「其りゃあ、あるさ。快楽が男だけのものと思い込む事こそ差別の温床だ。其れとも、君みたいな色男でも、矢張り自分のに自信が持てず、其の不安を相手の不感症に転嫁したくなるのかな?」 「男はいつだって臆病なんだよ。取り分け、相手が名優だとな」  やり返す意味を籠め、俺は金瞳を見詰めた。 「未だ日が高い」  お千代は、ふっと、微笑み、 「君の技術について詮議するのは、又改めて。其れより、女専用の遊郭についてだがね」  と煙管を吸い、紫煙を吐いてから、 「男の様に天を突く塔を建てたりはしないが、あるよ。其れも数多くね。古風なものを挙げるなら野郎茶屋なんか有名だけれど、これは男女どちらも通うからね。専用というなら、サロン形式が多いかな。本業のエステサロン店も特別なコースを設けていたりするよ。此の場合は、店員も大概女性でね……変声機を使って声だけ男にするサービスもあったかな?兎に角、施術者は女だ。手か器具かも選べた筈。ストレス発散や美容目的のお客も多く、なかなか流行っているんだとか」 「詳しいな」  俺は単純に驚いてみせた。内心、下世話な疑問が……「行った事あるのか?」といった類のものが……チラついたけれど、藪蛇は勘弁、グッと飲み込んだ。 「行った事があるからね」  しかし、お千代はそう応え、続けて、 「仕事でね」  と補足し、笑い声を上げた。 「何て顔だ。君、面白い顔になっているよ。アハハ、君、今の表情と心情を覚えてい給え。其れこそ、我々探偵が風俗店を訪ねる主な理由なのだから」 「いまいち、ピンとこないんだけど」  俺が不服を申し立てる。と、お千代はクスクス微笑を交えて、 「浮気調査だよ。配偶者の様子が変だから調べてくれと、日々依頼が舞い込むだろう?其れで調査に出向くと、統計的には半数くらいは廓狂いという結果になる。改訂風営法があるから、廓内での同衾は不貞に当て嵌まらない。報告も其の旨、伝える。しかしね、此の報告で『あぁ、良かった』となる依頼人は先ずいない。皆、今の君みたいな顔をして、ブツブツと文句を言いながら帰って行くよ」  煙管の煙がお千代を取り巻く。 「そうそう、中には、旦那の遊郭通いを知り抜いた上で、敢えて探偵に其の証拠を取って来させる妻もいるとか。法律上は無実でも、裁判所で下される判決は……いや、不防法の悪口は止そう。そういう経緯で、探偵は度々そういった(たな)へ調査に行くから、自然詳しくなる、と説明したかっただけなんだ。世間が女探偵を求める訳だよ。遊郭が女人禁制であるのと同様、サロン風俗も男子禁制なのだから」  俺は感嘆の息を漏らした。が、俄かに思い直して、 「でもそういう店へ仕事で行くのは、俺、今回が初めてなんだけど」  と訊いた。 「其れはそうだ」  お千代は腕を組み、少し不満気に、 「これ迄は、私が態と君からそういう仕事を遠ざけてきたんだ。君みたいな技巧派の二枚目を遊郭にやったりしたら、ロクな事にならないのは火を見るよりも明らかだからね」  と応え、金瞳の鋭い視線で以て俺を戒めた。
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