Cabinet

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 日が暮れた。吉原へ出掛けると、子狐が俺を待っていた。  アルミサッシが目立つ土産物屋の通りを抜け、大門を潜り、賑わう往来の途中、見慣れた茶屋の縁台にて博光丸をあやしていたのが、胡桃色の着物を着た子狐だった。 「珍しいね」  俺から声を掛ける。と、子狐はポメラニアンをあやす手を止め、 「はい。もう一度、探偵様にはキチンとお礼を申し上げたくて」 「お役に立てたかは怪しいけどね。お礼なら、そっちに言ってあげて」  俺は博光丸を見やった。人懐っこい此の小型犬は、子狐の足許に纏わり付いて離れずにいる。 「此の子には、もう沢山言っておきましたから。ねぇ?」  子狐が犬の頭をそっと撫でる。博光丸は尻尾を振り、舌を出している。 「もう平気?」  訊きつつ、隣に腰掛ける。 「はい」  子狐は頷いて、 「お恥ずかしいトコロをお見せしました」  と、はにかんだ。其の瞳に充血の(あと)はない。目蓋の腫れも退いた様だ。 「手袋も無事?」 「少し汚れていましたけど、今朝洗って元通りです」  初対面の際には冷ややかにも感じた子狐のツリ目も、打ち解けてしまえばこんなにもいじらしい。其の整った顔立ちも……色素の薄い肌も、高く通った鼻も、今夜の着物の色によく似た髪色も……彼女の出自を物語る容姿の特徴を……しかし俺は真実を噤んだ。子狐の母親と「全て口外しない」と約束したのだ。  代わりに、俺は新しい話題を用意した。 「そういえば、『ふいご祭』の時、人目を忍んで泣いてたみたいだけど……其の件はもう大丈夫?」 「え?」  子狐は束の間驚いた顔をし、みるみる頬を赤らめた。 「御覧だったんですね……重ね重ね、お見苦しいトコロを……」 「あ、いや、俺が盗み見ただけで……こっちこそ、ゴメン」  俺が謝る。デリカシーに欠けていたかも知れない。あの直後に盗難事件があったものだから、何か関係があるのかと、うっかり好奇心に負けたのだ。 「いえ……大した事ではありませんから……」  子狐はモジモジとしながら、実に言い難そうに、 「あの時、百合子ちゃんに相談に乗って頂いていたんです……其の……三条様の事で……」  俺は其の名を聞き、矢張り、と思った。 「三条さんが嫌い、とか?」  探りを入れる。と、子狐は慌てて首を横に振った。 「違うんです。其の……逆なんです」 「逆?」  俺がキョトンとすると、子狐は声を潜めて、 「内緒ですよ?」  と前置きしてから、 「探偵様にはお世話になりましたし、お話しします。私、三条様みたいな(ひと)が、好み、みたいでして……三条様も私を憎からず想って下さっているんじゃないかなと、最近……己惚れかも知れないんですけど……でも、三条様は菜奈姉様の大切な方で、私は姉様も大好きですから、板挟みで胸が苦しかったんです。唯でさえ、お客様の横取りは御法度なのに」  今度は俺が驚く番だった。子狐は既に立派な一人前だった。其の事実が、俺の少女に対する偏見を打ち破ったのである。 「そろそろ行きませんか」  面映ゆいのか、子狐が立ち上がる。俺も席を立ち、塔へ向かった。犬は子狐の腕に抱かれ、大人しくしていた。  玄関を入り、エレベーターホールの左手にある蔵戸門へ案内される。此方の戸も鏡の様に磨き抜かれた漆塗りに、流麗な金色の曲線が描かれている。金色の線は幾重にも、幾重にも蛇行し、渦を巻き、奔流を表していた。其の金色の川べりには梅が幹と枝を斜に伸ばし、豆粒に似た花をポツポツと咲かせている。  そんな黒地の戸がやおら横に滑り、開いていく。  と、玲瓏な銀白色の小部屋が現れた。  壁、天井を占める銀箔に、精緻な植物画がひしめいている。写実的な葉と葉が風に揺れる有様、花々が頭を垂れ、(すすき)が風になびく姿……全て剃刀の様な鋭利な線で描かれている。銀箔の鈍い反射の所為か、将又(はたまた)、明度を控えた画の色彩がそう見せるのか、俺は冬の野原の直中(ただなか)に踏み込んだ気になった。  其の部屋の中に、菜奈がいた。 「こんばんは」  普段の爛漫たる調子。菜奈は軽やかに俺へと近付くと、いつもならキスしてくれる俺の頬を、ギュっと、つねった。 「痛っ」  俺が思わず飛び退くと、菜奈は……濃緑地に紅葉の映える着物を召した菜奈は、腰に手を当てて、 「探偵様には御恩がありますから、これくらいで勘弁してあげます。私を捨てて、上の階へ行っちゃう、憎い探偵様」  俺は己の頬を擦りつつ、ならば仕方ない、と納得した。言われてみれば其の通り、酷い男もあったもんだ。 「顔は覚えた?こんな男には引っ掛かっちゃ駄目だよ」  俺は子狐に注意喚起した。子狐は困った様に笑うばかりだった。 「大丈夫ですよ。私が監督してますもん」  と、菜奈が胸を張り、其れから、そっと、俺にこう耳打ちした。 「其れに、子狐もそろそろ一人で座敷に出るんで、お祝いに三条様を譲ろうと考えているんです。子狐を預けるお客様に相応しいと思うんで」  俺が目を見張ると、菜奈は満面の笑みで、 「ね?私の見立ては正しかったでしょう?」  流石である。俺は拍手したくなった。これが「局」で一番と名高い遊女の実力か。  ポーン。  小部屋にのどかな音が響き、奥の扉が開く。エレベーターがやって来たのだ。 「お待たせ致しました」  箱の中から現れたのは、六十絡みの女性。見た事のない顔だ。新しい遣り手だろうか。 「其れじゃあ」  俺は菜奈と子狐に向き直り、手を振った。 「お元気で」  と菜奈。 「本当に、有り難う御座いました」  と子狐。  俺は二人に見送られ、エレベーターの箱に乗り込んだ。徐に扉が閉じる。 「では、お客様」  と、エレベーターのボタンを操作していた遣り手が、俺を見て微笑む。  遣り手の着る紺色の着物には、白い沈丁花が一面に咲いていた。 「次は吉原遊郭の三階、『散茶』のフロアとなります」
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