散茶 壱

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散茶 壱

 上昇するエレベーターの中で、俺はこんな事を考えた……散茶と謂えば、局の一つ上。風花師匠は約束を守り、俺を昇格させてくれた訳だが、心の何処かで一足飛びに太夫へ行けるものと期待していた(ふし)があり、其のアテが外れ落胆した、というのも僭越ながら本音である。そう言えば、百合子に「格子以上は本当に特別な客でないと行けない」と教えて貰った事がある。()しかすると、太夫は(おろ)か、俺を散茶へ押し上げるのにも、師匠はかなり無茶をしたのかも知れない。いいや、どちらにせよ、俺は師匠に感謝しなければ……と、アレコレ考える頭の片隅では、別種の興奮がエレベーターの上昇に比例して膨らんでいった……散茶とはどんな所だろう?其処にいる遊女はどんな女だろう?局で一番だった菜奈の器量を引き合いにすれば、局の上にある散茶は、単純に、彼女と同等以上が揃っている筈。其れでは、更に上、格子や、其れこそ太夫には、どんな女がいるのか?其れは本当に人間だろうか?百合子の言っていた通り「天女」ではなかろうか……と、俺がこんな妄想に励んでいる間に、エレベーターは停止し、扉が開くのだった。  俺が顔を上げる。そして、眼前に広がる景色を見、固まってしまう。其れ迄考えていた事など吹っ飛んでしまった。これも又、俺の妄想が産んだ夢の続きか。でなければ、こんな異様な景色は有り得ない。  俺は建物を仰ぎ見ながら、怖ず怖ず、エレベーターを降りた。  ……満点の星空に、弓形(ゆみなり)の月が浮かんでいる……。  眼前には、経た年月を風格として漂わせる木造二階建ての屋敷がある。瓦屋根の隆起した二階、其の屋根伝いには提灯がズラリと並び掛けられ紗幕透過の如く赤く灯り、作り付けの飾り欄間と共に外観を賑わせている。其の二階は障子窓が一面を覆い、木枠の柵を設けている。一階は、又、瓦の(あま)(どい)が被さって、磨り硝子の窓が漆喰の壁に嵌め込まれている。正面に見える玄関には、城門と比肩する華美な装飾が施され、「吉原 散茶」と染め抜かれた暖簾が掛かっていた。  フラフラと、覚束ない足取りで屋敷に近付けば、足許で砂利が鳴る。俺はこれが(うつつ)か確かめるべく背後を見やった。果たして、エレベーターを呼ぶボタンがあり、扉もある。其れはそうだ。俺は彼処からやって来たのだ。此処は塔の内部に相違ない。にも関わらず、上を向けば、天井がない。代わりに夜空がある。天象儀(プラネタリウム)かとも疑ったが、星々の瞬きは慎ましく電球らしくない。夜特有の闇黒色も深遠で、何より月が……今夜の月の形をハッキリとは憶えていないけれど、あんな風な三日月だった気がする。頬を触れる空気も、夜気らしい冷ややかさを含んでいる。全く露天の、夜の一画に迷い込み、不意に豪邸に行き当たった、そういう風情である。 「どうぞ」  と、白髪交じりの遣り手に声を掛けられ、俺は我に返った。遣り手は暖簾の端を手の甲で押し上げ、此方を待っている。 「どうも」  と、俺は頭を下げ、「散茶」の暖簾を潜った。  床一面に敷かれた赤ビロードの絨毯、玄関口に立つ山水画の衝立(ついたて)、其の奥の飾り棚には古伊万里の花瓶と大皿……上がり(がまち)の先に其れらは、矢鱈に誇らず、しっかり馴染んだ様子で当然とばかりに据えられていた。俺は束の間、自分が吉原の遊郭にいる事を忘れ、箱根か熱海辺りの山奥にある老舗旅館を訪ねた心地になった。  其の衝立の陰からひょっこり顔を出したのは、誰あろう、毒蛾であった。 「お待ちしておりました、お客様」  臙脂色の着物を着た毒蛾は、見た事もない天真爛漫な笑みで俺達を出迎えると、先ず遣り手に会釈した。 「後はお任せください。姉さんから御案内を仰せつかっております」 「そうでしたか」  遣り手はアッサリ頷いて、 「お願いしますね。決して粗相のないように。其れから、毒蛾さん、あまり切見世を留守にしてはいけませんよ」 「承知しております」  毒蛾が小さな身体を折り曲げ頭を下げる。遣り手は満足気に、 「では、お客様、ごゆるり……」  と言い残し、外へ出た。 「……おい」  打って変わって無愛想な声。俺が振り返ると、毒蛾はもう笑顔を消して、 「言ったろ?姉さんがお待ちだ。とっとと行くぞ」  と踵を返し、奥へと歩いて行った。俺は慌てて靴を脱ぎ、用意されていた皮のスリッパに履き替え、ビロードの絨毯に上がった。フワフワと柔らかな踏み心地を不安がる俺を一顧だにせず、毒蛾はどんどん進んでしまう。行き先は何処か?姉さんとは誰か?何故、毒蛾が散茶にいるのか?……数々の疑問は、しかし、内装の絢爛たる意匠に圧倒され、浮かぶそばから沈んでいった。  玄関を入って直ぐ、正面廊下の入口にて対をなす二本の太い柱には、それぞれ阿吽の獅子と狛犬が彫られている。途中、これも四曲一双の龍虎の屏風に挟まれた先を抜けると、店の丁度中央と思しき場所に吹き抜け構造の中庭があり、小さな池を跨ぐ太鼓橋が向こう側へと掛かっていた。毒蛾の背を追い掛け、俺は其の橋を渡った……池の端には、狂い咲きの梅が一本、真っ赤な花を咲かせていた。  橋を渡り切った先には大階段がお目見えした。 「ちゃっちゃとしろよ」  と、上の踊り場から毒蛾が億劫気に言い捨てる。 「待ってくれよ。こっちは初めてで……」  俺が言い終わる前に、毒蛾はサッと階段を上がってしまった。まるで鬼ごっこだ。  紅のビロードが滝の様に敷かれた階段を上がると、毒蛾が退屈気に待っていた。 「アンタ、探偵のクセして運動不足じゃねぇの?」 「ほっとけ。探偵にどんなイメージがあるか知らんけどな、俺は普通だ……そんな事より、質問が山程……」  案の定、俺の言葉を最後迄聞く気はないらしく、毒蛾は顔を背けるなり、二階の廊下を突き進んで行く。俺は浅く息を吐き、此の、奇想の廊下を歩いた。  行燈の灯りだけが妖しく影を揺らす此処には、種々の花が咲き乱れていた。と言っても、其れらは鉢に植えられていたり、花瓶に活けられていたりするのではなく、廊下に連なる襖に描かれていたのだ。  真っ赤なビロードの左右に、四季折々の植物画が、茎や枝を伸ばし、葉を茂らせ、色取り取りと……例えば菊の細やかな黄色、菖蒲の涼やかな紫色、牡丹の大らかな白……といった花弁を所狭しと広げていた。  一見雑駁(ざっぱく)な、生々しく毒々しい花園の絵の中を、毒蛾と俺が突っ切って行く。 「着いたぞ」  そして、ある襖の前で毒蛾が立ち止まる。  二階の最奥、突き当りにあたる座敷の襖、其の上貼りに描かれた荘厳な花の群れを俺は仰いだ。小さな花が幾百幾千と重なって咲く其の景色は、美しいとも、可憐とも、ケバケバしいとも形容出来る。白を基調に、少し桃色を差した花弁は、沈丁花だろうか。其れにしても、沈丁花ですらこうも数多集えば高圧的になるのだな、と俺は妙な感心をした。 「中で待ってろよ。姉さんの支度もそろそろ済むからよ」  毒蛾が素っ気なく取ってに手を掛ける。画面の重々しさに反して、襖が呆気なく開く。 「姉さんって?」  愈々(いよいよ)となって緊張に襲われた俺が訊けば、 「アンタには勿体ないお(ひと)だよ。ほら、入った入った、意気地なし」  と急かされたので、仕方なく俺はスリッパを脱ぎ、毒蛾と共に座敷へ踏み入った。  十五畳はある広い和室だ。天井から吊られたシャンデリア型の行燈が存外に明るく部屋を照らしている。床の間には徳利花器に万両が活けられ、小粒な赤い実がふんだんに成っている。更に、三幅の書幅……「福」、「禄」、「寿」……が掛かっている。其れから、矢張り、襖一面の沈丁花。  俺は心許なく入口近くで立ち尽くした。其の間にも毒蛾は働き、隅に積まれた座布団の山から二枚を取ると、上座と下座に一枚ずつ敷いた。 「ほれ、アンタは上座だ。姉さんの指示でな」 「あぁ……どうも」  恐縮の体で俺は上座に腰を下ろした。毒蛾は片隅にちょこんと正座している。  ……窓近くの畳が仄かに赤いのは、外に吊られた提灯の灯りが障子越しに差し込んでくるからか……。 「なぁ」 「あ?」  毒蛾の不機嫌な声にも構わず質問する。 「此処って何処なんだ?此の建物とか、あの空とか」 「は?何言ってんだ?」  毒蛾は心底怪訝に、 「終にオツムがイカれたか。可哀想によ。ウチを捕まえた天罰だ。ザマァ見ろ」  悪口のキレは相変わらず。俺は寧ろ安心した。 「なぁ」 「んだよ。さっきから何度も。いい加減、面倒だってんだ」 「そんな事言われてもな。此処には俺とお前の二人切りだしな」 「気色悪ィ。おいアンタ、ウチに近付くんじゃねぇぞ。留袖ならいざ知らず、禿に手ェ出したら、アンタ出禁だからな、出禁」  誰がお前なんか、と、言い返す前に、毒蛾は警戒の睨みを寄越した。実に心外だが、毛を逆立てる野良猫に引っ掻かれては堪らない。俺は其れ以上何も言わずにいた。
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