散茶 壱

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 ……無言の座敷に、遠く、三味線の音が届く。微かな其の音色には馴染みがある。風花師匠が弾いているのだろうか。耳を澄ましてみる。と、廊下から、ビロードを擦る、スルスルという滑らかな跫音が聞こえ、間もなく、 「失礼致します」  と、襖越しに涼やかな女の声。毒蛾がすっくと立ち、静かに襖を開ける。  と、女が一人、現れた。 「遅れまして、申し訳御座いません……毒蛾さんも、お疲れ様でした」 「いえ、これくらいは」  毒蛾がペコリと頭を下げる。 「あの方は三階の一番奥で待機しております。此処はもう大丈夫ですから、お行きなさい」  女がそう言うと、毒蛾は「はい」とだけ応え、俺には一瞥もくれず座敷を出て行った。  が、そんな毒蛾の珍奇な振る舞いに、俺は頓着していられなかった。  入れ替わりに座敷に入った女は、青地に雪山の描かれた羽織の裾を畳の上に引き摺りながら、スルスルと俺の前に来、下座の座布団に腰を落とした。墨色地に沈丁花柄の着物が正面に座す。そして女は三つ指を突き、 「ようこそお出で下さいました。私は(つぼみ)と申します」  と名乗り、顔を上げて、 「風花師匠に無理なお願いをし、貴方様とお引き合わせ頂きました」  と語る其の姿勢におもねるトコロはなく、淡々と、儀礼的な色が濃い。が、其の構えこそ此の(ひと)に似付かわしく、真顔でヒタと見詰める視線の無機質さ、白い頬の冷ややかさが、彼女の美貌を人並み以上に押し上げていた。吊り型の大きな瞳には、相応しく大きな虹彩が嵌まり、意志の固さを暗示している。鼻先は高く鋭く、唇は控え目、其れらが全体に細い顔の上に揃うと、酷薄な美少年を思わせる形象が浮かび上がる。特に目を惹くのは、肩の上で切り揃えられた短い黒髪、其の頭頂部から後頭部に掛けて織布が被さっていた事だ。 「これは『被衣(かずき)』と呼ばれる物です」  俺の視線を察したのか、蕾が説明をくれる。 「古くは平安時代に見られる、女の被り物です。本来は髪や顔を隠す為に用いられますが、私は髪を纏めるのに使っております」  そう言うと、蕾は顔を横向け、被衣をよく見せてくれた。形の良い、丸みを帯びた短い髪型に沿う様に、更紗模様の布が垂れている。いや、単に垂れているのではない。裾の穴に左右から一本ずつ簪を挿し、其の二本が交差する様に差し込む事で、巾着の要領で以て留まっている。成程、こうして布の内に髪を収めているのか。  ……簪には、それぞれ、鶴と雪の結晶の飾りが下がり、ゆらゆら、揺らめいていた……。 「散茶では皆、そういう髪型を?」  俺はやっとこれだけの言葉を発した。が、我ながら実に退屈な質問だった。 「いいえ。被衣はあまり流行っておりません。他の者はもっと派手な髪型を好んでいます」  蕾が真面目に応える。其れで、俺はようやくホッとした。 「あの、蕾さん」 「どうぞ緊張なさらず、気安くお話し下さい」 「じゃあ……さっき、『師匠の紹介』って言ってたけど、風花師匠とは知り合い?」 「昵懇(じっこん)という間柄ではありませんが、何度か稽古を付けて頂いた御縁が御座います……其の程度ですが、探偵様にお会いしたい一心で師匠に取り持って頂きました」  そう言うと、蕾は、そっと、俺の頬に触れ、 「お噂通りですね。綺麗なお顔……」  貴女こそ!俺は胸の内で叫んだ。段々接近する蕾の顔、取り分け其の瞳は、直視するには強過ぎる。俺は逃げる様に彼女の眉や前髪の辺りを見詰めた。 「……失礼致しました」  と、蕾は手を離して、 「勝手に夢中になってしまいました。私がお客様のお眼鏡に適うかも訊かぬ内に、馴れ馴れしい事を」 「いや、そんな」  畏れ多い。 「嫌がってる訳じゃないんだ。俺なんか美人に滅法弱いから、嬉しくて息が出来なかっただけで」 「恐縮です」  互いを褒め合うだけの初心な会話だが、鉄仮面と思われた蕾から細やかな花が一輪咲く様な微笑を引き出すくらいの効果はあったらしい。 「お客様、お食事はお済みですか?」  と、蕾が表情を「無」に戻して訊く。 「今日は未だ」 「では、お支度を始めても?」 「お願いしようかな」  俺の返事を聞くと、蕾は両手を掲げ、パパンッ、軽く打ち合わせた。其れを合図に襖が開き、大勢の番頭、新造が皆一様に膳を掲げ、座敷に雪崩れ込んだ。  運ばれたのは蒔絵尽くしの重箱、鮮やかな九谷焼の皿、銅製の酒燗器にチロリ、等々。料理も器に合わせた贅を尽くしたものばかり、刺身には(ひらめ)の縁側、烏賊、鮪の赤身が並び、付け合わせは山葵の代わりに青紫蘇と木の芽が添えられ、吸い物には大きな(はまぐり)の身が沈み、重箱の蓋を取れば、格子に仕切られた各区画に、白子、蟹の足、牛肉に藻塩を(まぶ)したもの、数の子、玉子豆腐、赤飯、酒蒸しの牡蠣、穴子の白焼き、蕗の薹の天ぷらが詰まっていた。  其れらの膳を配し終えると、番頭も新造も一言もなく座敷を辞した。いつの間にか隣に移っていた蕾が、俺に猪口を手渡して、 「普段は一膳ずつ持って来させるのですが、人の出入りで邪魔されたくなかったので、一度に全て運ばせました。こうしておけば貴方様と長く二人切りでいられますから」  と、チロリを傾ける。温まった酒は香りをよく発し、俺を酔わせようと誘ってくる。事実、御馳走は溢れんばかりの量が待ち構えていた。蕾は輪島塗の箸を手に取ると、煮物の中から花形に切られた人参を一切れ摘まんで、 「どうぞ」  と、俺の方へ差し出した。平気な素振りこそ見栄を張れると打算した俺が飄々と口を開ければ、存外に優しく人参は舌の上に置かれた。俺は照れ隠しに酒を呑み干した。其れから、急に現実的な「これだけの料理、一体、幾らするのか?」という疑問が脳裏を()ぎった。が、払いは忘八、俺の財布は痛まない、と、心配は直ぐ消えてしまった。 「蕾さんも」  俺は伏せられていたもう一つの猪口を取った。 「頂きます」  蕾が盃を両手に受け、俺が酒を注ぐなり、クイッと、吞んでしまった。 「いける口?」 「弱くはありません」  蕾はそう応え、ふぅ、と浅く息を吐いた。 「毒蛾とは知り合い?」  俺が訊く。 「以前より顔は知っていました」  蕾は猪口を膳に置き、再び箸を取って、 「あの子は塔の上下を行き来している子で、散茶の廊下でも何度かすれ違った事があります。名を知ったのは最近ですが」 「どんな経緯で?」 「利害が一致したのです」  と応えつつ、白子を摘まみ上げ、 「私と風花師匠と毒蛾さん、三人の間で取引が成立しました。私は毒蛾さんの探す人物を紹介し、代わりに、私は貴方様を求めました」  そう言って、蕾は白子を食べた。 「正直だね」  俺はあからさまな会話に好感を持ちつつ、己の箸を用い数の子を食べた。 「だって、探偵様に隠し事は通用しない、というのが相場ですから。私は嘘が下手ですから、殊更、小細工は無意味でしょう」  粛々と応える蕾の表情は、しかし、俺如きには読み取れない程の「無」であった。 「俺と小説に登場する探偵を比べられると、ガッカリされちゃってお終いだよ……そういうものはよく読む?」 「嗜む程度です」 「なら良かった。俺にも未だ希望はあるかな……他に趣味はある?」 「そうですね……」  蕾は束の間考え込み、 「……写真……」  と呟いてから、 「いえ、読書でしたら三島をよく読みます」  と訂正した。何故訂正したか、気にはなったが、俺は敢えて触れずにおいた。 「純文学だ」 「お詳しいですか?」 「ウチの所長がね。俺は全然」  応えつつ、三島に対するお千代の総評が、あの不敵な声で自動的に回想される。 「彼の強固な美意識は犯罪心理学的観点からも大いに学ぶトコロがある。探偵として、一度は読む事をお勧めするがね、不慣れな内に純文学を取り扱うと要らぬ苦労に挫折し勝ちだから……」 「最初はエッセイから入るのが、読み易いかも知れません。純文学は概して癖が強いですから」  記憶の中のお千代の解説を引き取って、隣に座す蕾が語る。 「所長も同じ事を言ってたよ」  俺が笑うと、お返しに蕾も瞳だけで笑ってみせた。其の笑い方が、彼女の短い髪と、更紗の被衣に似合っていた。  次第、酒杯が重なるにつれ、俺は徐々に目的を見失っていった。一つには、初めての散茶に浮かれていた所為もあっただろう。法務大臣の失踪について聞きとるどころか、太夫の階へ上がる方法を探る事すら忘れていた。仕方ない、先ずは打ち解ける事が大切、情報収集は相手の信頼を得てから、なんて己に言い訳しつつ、蕾と他愛ない会話を繰り返した。 「散茶に通うお客さんってのは、余程のお金持ちばかりなんだろうね」 「そうであれば良いのですが、中には無理をなさる方もいらっしゃいます。身上(しんしょう)を潰さぬよう、此方が注意する事も屡々です」 「其れは其れは。けど、破産する気持ちも判るよ」 「……探偵様も御注意下さい」 「ハハハ、了解」  と、そうこうしている内に肴も少なくなり、俺はスッカリ出来上がった。付き合う蕾も相当に呑んでいるだろうに、顔色一つ変えず、其の美しい顔を近付けて、 「支度を致しましょう」 「あぁ……うん」  酒精(アルコール)の熱にあてられた俺は、既に上着を脱いでいた。  蕾が淡々と囁く。 「部屋付きの護摩湯が御座います。其方へ」  護摩湯か。酔った頭で思考する。吉原に来たならば、護摩湯に入る決まりである。其れに、ひと汗かけば酔いも少しは抜けるかも知れない。  脇息を支えに立ち上がり、外の提灯の赤色が透けて灯る座敷を蕾の案内に従って横切り、其処だけ木戸になっている片隅へと歩く。脱衣場で着ている物を全て脱ぎ、更に奥の木戸を開ければ、湯気に満ちた八畳に繋がる。  腰掛けに落ち着き、室内を見回す。此処には時計がない。そう言えば、湯気がそう熱くない。ゆったり入っていられる。香りもない。切見世での薬品的な匂いや、局での柑橘系の香りとも違い、無臭である。  と、ぼんやり考えていると、不意に護摩湯の戸が開き、蕾が入って来た。 「失礼致します」  そう言うと、蕾は後ろ手に戸を閉めつつ、此方に近付く。白い襦袢一枚だけを纏った蕾が……。  湿気が忽ち女の身体を濡らしていく。薄い襦袢は透け、肌色が浮かぶ。一瞬、足がすくんだ。誘惑に負けじと蕾の顔を凝視する。短い黒髪も温かく濡れ、柔らかく額や頬に貼り付いていく。 「被衣をした儘だけど、防水なの?」  俺はつまらない事を訊いた。 「えぇ。簪も含め、特別製です」  応えつつ、蕾が隣に腰を下ろして、 「楽になさって下さい」  と言い、女は右手の親指と人差し指とをくっ付けて、輪っかを作った……。  のぼせる様な護摩湯を出る。と、数多あった膳は下げられ、座敷には布団が敷いてあった。俺は裸の儘、畳の中央に現れた紅い布団を眺めた。酔いと熱が全身を駆け巡り、呼吸を速める。女の匂いと感触が肌に未だ残っている。  後からやって来た蕾は、濡れた白い襦袢を着替え、真新しい緋色の襦袢を召していた。が、真っ直ぐ寝具へ向かうと、其の上で正座し、腰紐を緩めた。鎖骨と胸元が露わになり……そうして、蕾は被衣を留める二本の簪を順番に引き抜いた。先ずは雪の結晶を、次に鶴を……。  すると、被衣は訳なくパサリと落ち、連鎖して、其の中に収まっていた長い黒髪が、絹糸が如く、ストンと流れ落ちたのだった。  俺は夢を見ている様だった。短髪の女は其の面影を消し、腰より長い髪を垂らす蕾が俺を見上げていた。 「来て頂けますか?」  其れは懇願と呼べる表情で、不安な瞳が此方をじっと待っていた。申し訳ない様な、其れでいて許された様な、狡い気持ちになる。特権的な、即ち一方的な自由を与えられた優越感を含む「後ろめたい」という快感に突き動かされ、俺は其処へ向かった。
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