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散茶 弐
「――人間が、人間に奉仕するというのは、悪い事であろうか。もったいぶって、なかなか笑わぬというのは、善い事であろうか。――」
女の声が耳を掠めたので眠りから醒めれば、開け放たれた障子の外に青空が広がっていた。寝不足の目には過度な朝日から逃れるべく、寝返りを打つ。と、髪を結う女の姿と向き合った。紅色の肌襦袢を召した彼女は、手に持つ更紗の布をじっと注視している。
「お早う御座います」
女に声を掛けられ、俺は布団から裸身を起こした。
「お早う」
「よくお休みになられましたか?」
蕾はそう訊きながら、長い黒髪を手際よく被衣に収めていった。
「うーん……未だ眠い」
俺は大きな欠伸をし、
「運動の疲れがね」
と、自分でも甘えた声だと判る調子で応えた。
「……なら、未だお休みになられますね。朝食は下げさせましょう」
蕾は突き放す様に言うものの、冷たさはなく、呆れた声音だった。其の響が無性に嬉しい。
「いや、起きます、起きます」
辺りを見回す。座敷はがらんとしている。熱も人いきれも、跡形もない。朝の光を浴びる畳から若草の匂いがし、起き抜けの身体を清めていく。襖に描かれた沈丁花の大群も、白々しい明かりに照らされ夜とは印象を異にしていた……今は何処となく寂しい。障子の外で風が吹き、赤い提灯が揺れる。白日の下にぶら下がる提灯の列も、鬼火めいた妖しさは青空にスッカリ取り除かれ、頼りない。
朝は虚飾を拭う。日光は、月光に比べ、情事に容赦がない。
半覚醒の頭でそんな事を考える。
「蕾さん」
俺は依然甘ったれた声で訊いた。
「最近、太夫の階で何があったか、知らない?」
肉体と精神の距離感はまさしく比例する。これは真実で、昨晩密着したばかりだからか、俺は無遠慮になっていた。
当然、蕾はムッとした顔になって、
「もう別の女の話ですか?思いやりの欠如ですね」
と、共寝の相手を咎める。正当な権利だな、と、俺は思った。其れでも、蕾は俺の為に浴衣を差し出してくれる。有り難く袖を通しつつ、
「誤解だよ。近頃、太夫の階が騒がしいって噂を聞いたから、興味が湧いただけ」
「そうですか」
蕾は冷たく、
「太夫の階が鎖された、という噂は私も耳にしました。ですが、其の意味するトコロは存じません。そういった事は、塔の上下を自由にする者に御質問下さい」
「じゃあ、散茶について、質問しようかな」
俺は布団を抜け出し、蕾の手を取った。蕾は其れを振り払おうとはせず、小さな溜息を吐くだけだった。
「何でしょう?」
「ズット気になってたんだけど、あの空って何?まさか本物じゃないだろうし」
窓外に抜ける青空を見やる。何度見上げても不思議だ。此処は塔の内部だというのに。
「あれは立体映像です」
同じく空を見つつ、蕾が説く。
「古い様式の模倣です。吉原には、古い方が偉い、という儒教的な思想があり、散茶も其の懐古趣味に従って、二十世紀半ばの色宿を再現しているのですが、其の為に空も造ってしまったのでしょう。映写や平面映像でなく、敢えて立体映像を使用しているのは、奥行きのあった方が、より本物の空に近付けるから、と聞いた事があります」
教師の様な語り口。ついウトウトしてしまう。
「起きて下さい。朝食の膳が届きましたよ」
叱言のする方へ頭を傾ける。其の間に座敷に上がった新造達がぱっぱと布団を仕舞い、膳と席を用意したものだから、俺はやむを得ず座布団に移った。
眼前の朝食は、夜の豪勢さと打って変わって質素な取り合わせで、焼鮭、浅漬け、玉子焼き、金平、味噌汁に、「どうぞ」と蕾が白米をよそってくれる。
「有り難う」
茶碗に半分盛られた此の分量こそ、蕾の思いやりであろう。
食事は互いに何か喋るでもなく、黙々と進んだ。俺は昨夜の営みについて想いを馳せた。飯を喰う蕾の手や口の運び、箸捌きや咀嚼の具合を窺っては、達成感を得ていた。膳の隅に置かれたお冷のグラス、其の硝子の表面を伝う結露を眺める。氷も汗をかく。蕾の内股も……。
食事を終えると、見計らったのか、俺の服が編籠に入って届いた。洗濯してくれた様で、服はキチンと畳まれ、どれも皺一つなく、清潔な匂いがする。
蕾は甲斐甲斐しく着替えを手伝い、シャツのボタンも留めてくれた。
「今夜はお祭ですから、是非いらして下さい」
几帳面な指先がくるりと回る度にボタンが穴を通る。
「うん」
着替えが済むと、蕾は襦袢の儘、
「散茶ではお見送りをしない事に決まっていますので、此処で失礼します」
と断ってから、
「今夜、きっと。待っています」
と念押しした。
「勿論」
遊郭にて交わされるこんな口約束が、一体、どれ程守られるのか……勿論、俺は守るけれど。
さて、廊下に出、蕾に手を振り、玄関へと歩き出すと、思わぬ帰宅ラッシュに打つかった。道中、襖が次々開き、それぞれの座敷から男が一人、又一人と現れたのだ。ホテルのチェックアウト間際に似た行列は終に六人となり、男達は目礼し合うだけで、誰一人話し掛けるでもなかったが、しかし全員洗い立ての服を着ている、という一点が、行進に連帯を与えた。
「いってらっしゃいませ」
玄関にて、番頭や新造に見送られながら、俺達六人は一時の友情をこそばゆく感じつつ微笑し、同じエレベーターに乗って、朝の東京へと繰り出すのだった。
帰宅直後、俺は事務所に連絡を入れた。
「今日は顔を出せない。調査で夜遅くて、昼は休ませて欲しい。ゴメン。仕事は順調だから、今度、報告会をしよう」
地下鉄に揺られながら考えた言い訳を留守電に残し、ベッドに倒れ込む。
昼夜逆転は堪える。遊女達の体力が羨ましい。俺にはとても無理だ。枕に顔を埋める。女の髪に頬を寄せるのとは別種の、孤独な安心感に身を委ねる。相手がいない、という安らぎ。しかし、蕾との交流の素晴らしさを貶めている訳ではない。寧ろ、其の運動が素晴らしければ素晴らしい程、体力を使うというだけで……。
一体、何を考えているのか?
仰向けになり、思考を改める。快楽に耽っている場合ではない。仕事の方針を探らねば。今回にしても、「太夫の階が閉じている」という噂が散茶にも流れている、という事実が確認出来ただけだ。もっと成果を挙げなければ、遊びに行っているのと変わりない。
其れだけでも成果としては充分じゃないか?初回にしては充分に親しくなった。あの表情、思い出してみろ。床の中、蕾があんな顔をするなんて、想像出来たか?俺はよくやったよ。
違う。仕事の話だ。第一、お前はお千代に悪いと思わないのか?其りゃあ、俺とお千代は届け出た正式な恋人ではないけれど。
何を言う。吉原での行為は浮気にならないと、お上が認めているんだ。恥じる事は何一つしていない。昨夜は恥ずかしい体勢を取ったりはしたが、な。
だから、調査に行ってるんだよ、俺は。本分を忘れるな。俺が大臣失踪を解決しないと……けど……あぁ……。
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