忘八

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忘八

 午前八時半、俺は日課に従い事務所への道を歩いていた。  心地好い秋晴れ。ひと月前の景色も溶け出し揺らめく様な酷暑はスッカリ抜け、代わりに季節を進める涼風が吹き、此の頃の朝方には上着が一枚欲しくなる。街路樹や家々の庭に植えられた木々の緑も、もっと風の強まる来月には赤や黄に染まり始めるだろう。閑静な住宅街を行く人々は銀杏(いちょう)より一足早く衣替えを済まし、スーツや制服の色合いを濃くして駅へと向かい、銘々の通勤や通学の(みち)を辿っている。  俺は、いつも通り、其の流れに逆行していた。俺の職場は此の住宅街の中にあった。  最近は住民にも顔を覚えられ、学生や、植物に水をやっている老人に挨拶される事も増えた。俺も笑顔で挨拶を返し、時折は立ち話もする。今朝は老人に誘われ、金木犀の花を見せて貰った。其の甘い香りが妙に好ましかった。  足取り軽く、十字路を曲がり、路地に入る。と、俄かに眼前が開け、森めいた景色が現れる。煉瓦塀が続いているから、(ある)いは公園と勘違いされるかも知れない。園芸の盛んな此の辺りでも、ちょっとない規模、敷地面積にしても個人宅の其れではない。  俺は塀を回り、正門へ。其処の門扉脇には金属のプレートが()まっており、仰々しい字体でこう刻まれている。  蓼喰探偵事務所  此処が俺の職場だ。  これも日課として、俺は事務所に到着したら先ず正門を開ける事になっている。が、今朝は既に開いていた。不思議に思いながらも、さして気にせず、敷地に入る。  両脇を広葉樹に挟まれた道路を行く。と、木漏れ日の先に建物が見えてくる。木造の三角屋根が特徴的な其の建物は、二階が白い漆喰に木組みを露出した造り、一階は素朴な煉瓦組みになっている。どちらの階の壁にも、大きな窓が数多く並んでおり、こういった建築をハーフティンバー様式というのだと、以前、所長が語っていた。  そんな建物の手前、玄関先の車寄せに、白いリムジンが一台、停まっている。俺はこれに驚いた。あれはウチの車ではない。もう客が来たのか?こんな時間に来客の予定はなかった筈だが。開店には未だ早いし……。  俺が疑問符を浮かべながら立ち尽くしていると、ガチャリ、玄関が音を立てて開き、男が一人、事務所から出て来た。リムジンと同色の真っ白いスーツを着込んだ、三十代らしき其の男は、遠くから一瞥(いちべつ)しただけでは細かい目鼻立ちは判然としないものの、其れでも異様と言える程に端整な顔立ちをしていた。まるで人間離れした……其の男は、突っ立っている俺に、ふと、視線をくれるなり、微笑を寄越した。寒気のする微笑を……其の目に捉えられた俺は、魔法に掛かった様に身じろぎも出来ず、会釈を返すのがやっとだった。男はやがて運転手の開けたドアに滑り込み、車に乗り込んだ。初老の運転手も俺に一礼した後、運転席に収まった。俺は慌てて道を退いた。リムジンはエンジンを吹かして道路を進み、其の儘事務所の正門を出て行った。  リムジンのエンジン音が聞こえなくなると、俺の身体もどうにか縛めを解かれた。依然、男の存在感が残像めいて漂い、其の他にも色々と疑問は残っているけれど、俺は取り敢えず事務所に入った。 「お千代、お早う」  声を掛ける。が、返事はない。珍しいな。いつもなら、舞台役者もかくやと通る声が迎えてくれるのに。所員は俺と所長の二人切りなので、こうなると、我が職場ながら、無人の屋敷に不法侵入する様で少し心許ない。  玄関から真っ直ぐ伸びる木目の濃い廊下の突き当りが仕事場になる。此処は一般の家庭でいうトコロのリビングに似た構造になっており、二十五畳の広さ、吹き抜けの高い天井にはシーリングファンが緩慢に回り、連なる窓から差し込む朝の陽が燦々(さんさん)と照らす其処には、時代掛かった家具や調度が配されている。例えば事務机は深い色をした木製のゴシック式、ソファも海老色のアンティーク、観葉植物の鉢一つ取っても此の調子であるから、一見すると老舗ホテルのフロントの様でもあった。  其の部屋の内で最も目を引くのが、最奥にて、長い壁を埋め尽くす本棚、其の手前に置かれた一番大きな机の、其の席に着く所長である。 「お早う、お千代」  何やら難しい顔で腕を組んでいる所長に、俺が改めて声を掛ける。と、其処で初めて気が付いたらしく、所長は美しい顔を物憂げにもたげて、 「あぁ、君か。お早う」  と、呆けた調子で応えた。其の金色の瞳を朝日に輝かせながら……。  俺が勤める「蓼喰探偵事務所」の所長、蓼喰千代は、お気に入りの銀の長煙管を吸い吸い、何事か思案の体であった。俺は、これも日課として、其の姿に見惚れずにいられなかった。此の麗人を前にすれば誰しも似た感覚を味わうだろう。お千代(理由は不明だけれど、本人にこう呼ぶよう厳命されている)の容色を説明するのに避け得ない要素として、其の髪と瞳の色合いがある。彼女の絹が如く流れる長い髪は銀色で、大きなツリ型の瞳の虹彩は金色なのである。万人がそうするように、俺もお千代と初めて会った時、染めているのかと、安易に訊いたものだ。が、お千代は莞爾と笑って、染めているのでもコンタクトでもない、生まれ付きだと、()()けに教えてくれた。其の一風変わった、神秘的とも呼べる色合いを当たり前に許容する美貌は、(およ)そ俗人に真似出来るものではない。筋の通った小振りな鼻や、薄く形の良い唇、等々、賞賛し始めればキリがない。こんな(ひと)が他にいるだろうか。更に、其の理知的な顔立ちと、百四十センチしかない小柄な背丈の不釣り合い(アンバランス)も相まって、お千代は……こんな事を真剣に語るのは恥ずかしいが……まるで妖精か、妖怪か、兎も角此の世ならざる雅趣を(まと)っていた。  加えて、お千代の頭脳も又、常人の其れではなかった。取り分け人間心理の分野に()いては天賦の才があり、其の観察眼も合わさって、世間を騒がず難事件を度々解決し、界隈でも名探偵と謳われ、其の功績を頼って特別に厄介な依頼が持ち込まれる事も屡々(しばしば)である。  今朝の様子も、恐らく其の所為だろう。  透かし編みの紺ニットと白いジーンズという服装のお千代は、相変わらず難しい顔をして、煙管を吹かしていた。お千代は思考に深く潜る際、此の煙管を吸うのが癖になっている。 「又面倒な依頼か?」  俺はそう訊きながら、先程の、ゾッとする程美しい優男の姿を脳裏に描いて、 「さっき、依頼人っぽい人とすれ違ったけど、何か関係があるのか?」  と、重ねて訊けば、お千代は紫煙に続いて、 「うむ……」  と呟き、其れから煙管の火を灰吹きに始末した。 「いや、其の件は後回しだ。君は先ず今日の仕事を片付けてくれ」 「了解」  俺は頷き、自分の机に向かった。  今日の予定では、昼過ぎに依頼人が訪ねて来る約束になっている。引き出しから報告書を取り出し、机上のペン立てからボールペンと黒い棒をそれぞれ引き抜く。此の棒は記録装置(メモリー)である。視線を動かし、自分の携帯端末を操作、視界に写真や録音を呼び出す。依頼人が来る前に調査報告を纏めておかねばならない。貴女の恋人は、お疑い通り、浮気していました、と。俺は視界一杯に展開した写真を一枚一枚凝視した。自業自得とはいえ、コイツは慰謝料を支払うハメと相成(あいな)るだろう。其れも仕方ない。恋姻届を役所に提出しておきながら、他の女に(うつつ)を抜かしたのだから。  ……不防法は姦通罪、遊郭と、過去の遺物を掘り返しただけでは飽き足らず、恋愛の価値観も古式床しいものに戻してしまった。婚姻関係の純潔がより高尚化した結果、其の前段階である恋仲にも取り締まりが要求されたのである。恋人とはこれ即ち結婚を覚悟した者同士であると公的にみなされ、其の証として、普通(つまり例外もあるという事だ)互いの名を記した「恋姻届」を役所に出すように、という要綱が不防法に追加された。此の誓いを破り、浮気に走ると、婚姻時とは異なり罪には問われないものの、「精神的苦痛を与えた」として民事訴訟を起こされ、関係を破棄された上に、慰謝料を請求されるのだ。  そして、浮気の証拠収集も、相変わらず探偵の仕事だった。「不倫調査」と「浮気調査」は、今の探偵業の二本柱だ。  (ちな)みに、俺も過去、「浮気裁判」を起こされ、負けた経験がある。しかも、其の証拠を集めた探偵は、他ならぬお千代である。  ……其れは、まぁ、いいとして……。  俺は敢然と報告書に対し、何月何日何時にホテルや浮気相手の自宅へ入ったか、其の事実を羅列し、二人が如何に仲睦まじく過ごしたか、事の後にどれだけ満足気に微笑み合っていたか、抒情的に書き立てた。これは所長たるお千代の「どんな短い文章も文学的に」というこだわりに()る。建前では「依頼人の心情に寄り添う為」と言っているが、半分は道楽目的であろう。お千代はかなりの読書家であり、しかも其の趣味が非常に偏っている。所長机の背後を占める巨大な本棚にギッチリ収まった本の殆どが大正から昭和初期に掛けての文学作品ばかりだ。お陰で俺は偉大な文豪の様な文章を毎回期待され、報告書の段になると、遠く及ばないながら、毎回悪戦苦闘を()いられるのだった。
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