散茶 弐

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 俺が俺と口論する妙な夢から醒めると、日が暮れかかっていた。  近頃、太陽と縁遠くなった。茜色が差し込む枕元、寝足りない頭を起こし、カーテンを引く。暗くなった部屋を横切り、シャワーを浴びて、着替え、自宅を出ると、外は既に暗かった。此の頃は月ばかり見上げている。  中太りの三日月を眺めつつ、俺は今夜も吉原へ向かった。  宵の口、千客万来な花魁燈籠の城下町に着き、塔に入る。散茶直通のエレベーターに乗りながら、俺はこんな事を考えた……昼間仕事場にも行かず、夜毎廓に舞い戻り、これで調査をしないとなれば、俺は本物のドラだ。昨晩はハメを外したが、今夜こそ真面目に取り組むべし……と意気込む反面、心の底では、蕾を前に自制する己が想像出来ない。彼女を訪ねる此の足に期待する軽やかさがないかどうか、(はなは)だ疑問である。蕾の施術を経験してしまっては、其の技巧に屈するなという方が難しい。俺は快楽欲しさに仕事をダシにしてはいないか?局では菜奈と同衾しなかった。其の反動がないと言い切れるか?  昼間見た夢の続きの様な自問を繰り返す。と、エレベーターが停止、扉が開き、途端に俺の悩みなぞ吹き飛ばすような歓声が雪崩れ込んできた。  火炎の様な熱狂と煌めき遍満している。辺り一帯が異様に明るいのは、あちこちに掲げられた大提灯が夜空を炙っているからだ。人の背丈よりも大きい提灯には、それぞれ、「朝美」、「栞」、「緑子」と、恐らくは遊女の名であろう字が物々しく記され、其れらが散茶の建物を取り囲む様に配され、揺らめく明かりの下、数多の男女の嬉々とした顔が照らされていた。男は大概洋装。対して、女は皆和装でうら若く、一目で新造が客に対応しているのだと判る。  俺はエレベーターを降り、祭の騒ぎに混じり、見物がてら散策する気になった。  吉原とて、他の祭と同じく、屋台が幾つか出ている。が、流石に遊郭、物は一風変わっており、例えば玄関脇には小鉢ばかり数十も並ぶ机が置かれていた。小鉢の中には、かぼちゃの煮物やら、大根のぬか漬けやら、味玉やら、といった家庭料理が入っており、銘々の横には「琴美」、「早枝」、「葵」といった立札が飾られている。察するにこれは作り手の名前で、即ち遊女達の手作りが陳列されているのだろう。男達は我先にと目当ての料理……或いは女……の小鉢を奪い合い、噛み締めつつ「美味い」と感嘆するのだった。  其れから角を曲がると、一際賑わう店の前に出た。見物人が囃し立てる、たこ焼き屋と焼きそば屋に挟まれた其の店は、何ら変哲もない烏賊(いか)焼きの店であったが、野次馬達の関心は串に刺さった丸焼きの烏賊でなく、どうも店主の方にあるらしい。坊主頭にねじり鉢巻きをした店主は、浴衣を半脱ぎ、露わな上半身に汗を輝かせつつ、ボロボロの団扇で炭を焚き付け、焦げ目の付いた烏賊から順に、刷毛(はけ)で以て醤油を塗っていく。其の一挙手一投足が宛も真剣試合の様に躍動するものだから、客から喝采が飛ぶ。 「腰が入ってるね!」 「これぞ散茶の大番頭!」 「よっ!日本一!」 「初午万歳!」  応援を浴びる店主こと大番頭は、気を良くしたか、白い歯を覗かる笑みで、ぱっぱと烏賊焼きを仕上げていった。  俺は見物衆を抜け、醤油やソースの匂いから離れ、又角を曲がると、木板で組まれた即席の休憩所が長々連なり、其の上で花見客の様に人々の塊がひしめき合い、華々しい宴会が催されていた。二、三人の連れ合い客が、五、六人の新造を伴っているのが常らしく、彼らは真ん中に重箱を広げ、差しつ差されつ、談笑している。皆々、顔は仄赤く、其れが酔いの回りか、提灯の色香、判然としない。  宴会の一画を過ぎると、又新たな店があった。俺は最初、其処が金魚の店だと勘違いした。百匹はいるであろう、水に混じった血の様に尾びれをたなびかす優雅な金魚の群れが、巨大な水槽の中で泳いでいるのだ、と。  しかし、よくよく見れば、どの金魚もピクリともせず、空中で静止している。水槽もない。更に近付けば、全ての金魚の腹に透明な棒が刺さっている……と、不思議がる俺の傍で、赤い帯を締めた新造が、ひょいと、其の棒を手に取るなり、ペロリ、金魚の身を舐めてみせた。俺は目を丸くした。其の新造は構わず金魚を舐め続け、横に立つ男に笑みを……甘ったるい笑みと共に、金魚の尾を見せびらかし、そして二人はこんな会話を始めた―― 「金魚は金魚同士でなくちゃ、(なん)にも出来はしないよ。」 「そういえばそうね。」 「うまく尾が継げたらしいよ。」 「眼を開けていい。」 「いいよ、尾を張って見たまえ。」 「ありがとう、ぴんと張って来て泳げるようになったわ。おじさまは相当お上手なのね、どうやら、彼処此処のぶちの金魚を(だま)して歩いているんじゃない? 尾のあつかい方も手馴れていらっしゃるし、ふふ、そいからあの、……」  ――休憩所にいた新造二人が、これを盗み聞きしていたらしく、ヒソヒソと、囁き合っている。 「いやらしい。飴細工を使って『蜜のあわれ』ごっこだなんて」 「気取っちゃってさ。ヤな奴ら」 「絶対出来てるよ」 「あの子の姉さんに言い付けてやろうかしら」  少女達の陰口を背景に、俺は間の抜けた事を考えた。本物の、生きた金魚みたいだな、と……此の感想が、飴細工に対してなのか、其れとも赤い帯を締めた新造に対してなのかは、言及せずにおく。  居堪まれず、其の場を離れる。少し歩くと、知らぬ間に建物を一周していたらしく、元の玄関前に戻って来た。提灯の数は更に増え、夜空の星々が落ちた様な輝かんばかりの明るさに包まれる。其の提灯の中に「蕾」と記した物が玄関の左手にポツンと浮かんでいるのを発見した。其の時である。群衆が一瞬細く裂け、其の間隙を縫って、提灯の足許にいる少女と一瞬、目が合った。彼女は提灯の支柱を固定しようと地面をグリグリいじっているトコロだった。憶えのある顔だ……ひっつめた黒髪が艶々と照る、清廉な美少女……そうだ、先日、局で会った、百合子だ。  彼女も俺の顔にピンときたのか、人々の陰から顔を出そうと、つま先立ちでヒョコヒョコと身体を上下させている。雛が餌をねだる仕草にソックリだ。 「探偵様!」  喧噪に紛れぬよう、百合子が大声を出す。 「百合子さん」  俺は人垣をかき分け、彼女の真横に立った。百合子は若々しい唇を開いて、 「お久し振り……でもありませんね。短い間に物事が重なったから、そう感じるのかな」  と呟いた後、慎ましく頭を下げた。 「其の節は大変お世話になりました。子狐ちゃんの手袋を取り返してくれたそうで。私もお礼したかったんです。子狐ちゃんは私の親友ですもの」 「俺の手柄って訳じゃないけど、うん、百合子さんの心遣いは受け取りました」  敢えて丁寧に応える。と、百合子はクスクス笑って、 「其れにしても、探偵様にお会い出来て助かりました。此処には知り合いが未だ少ないので、心細かったんです」 「そういえば、どうして百合子さんは此処に?手伝い?」 「私、先日、散茶付きの新造になったんです」 「へぇ、其りゃお目出度う!」  百合子は「有難う御座います」と微笑み、 「探偵様も、お目出度う御座います。私、此処で探偵様にお会いするって、判ってました。探偵様が昨夜より散茶にいらしていたのは知っていたので」 「其れも又噂で?」  百合子は苦笑を返して、 「こんな二枚目を独占していたら、私こそ噂されちゃいます」  とだけ応えた。 「百合子さんこそ大したもんだよ。散茶に昇格だなんて」 「いいえ、偶々なんです。幸運……というか、本当に偶々、散茶の新造に空きがあったので、其処に私が収まったかたちで」  此の説明に引っ張られ、俺の脳裏に局で聞いた噂が蘇った。 「上の階で新造が一人いなくなったって」 「上に欠員が出ると、下の誰かが昇格する仕組みなんだ」  確か、菜奈とこんな会話をした筈だ。 「でも、どうして空きが?」  俺は素朴に訊いた。が、百合子は俄かに表情を曇らせて、 「事情があるんです。例えば格子に昇格した子がいて、其の穴埋めとか、そういう嬉しい事情なら私も手放しで喜べるんですけど、ツネ子ちゃんの場合は……」 「『ツネ子』っていうのは?」 「前任者の名前です。蕾お姉様付きの留袖新造で、私の……友達でした」  でした。過去形だ。「新造が一人いなくなった」という噂も合わせると、どうも愉快な事情ではないらしい。ならば、掘り下げるべきではない。 「友達といえば、話を戻すんだけど、子狐さんは元気?」 「スッカリ元気ですよ。あんなに泣いてたのが嘘みたい。私の昇格もお祝いしてくれました」  其れから、百合子は寂し気に、 「本当なら……あんな盗難さえなかったら、子狐ちゃんが此処にいたかも知れないって、少し考えちゃいます」  と付け足した。  少女の励まし方について、俺は詳しくない。故に、本心だけを述べた。 「お祝いしてくれたなら、後ろめたく思う必要はないんじゃないかな。子狐さんは素直な性格だって、百合子さんもよく知っているでしょ?」 「……はい」  百合子はモジモジと両手の親指を組んでいたが、やがて「そうそう」と仕切り直し、 「昨日、子狐ちゃんに会いに行ったら、ポメラニアンと遊んでたんです。子狐ちゃんは『手袋を見付けてくれた恩人』って言ってましたけど、あれ、何処の犬か、探偵様は御存知ですか?」 「あぁ、あの犬は切見世の……」  と俺が言い掛けた矢先、手拍子と共に「よいしょ!」という盛大な掛け声が上がった。打ち寄せる波濤が如く声は後から後から、段々に迫って来た。そして、俺達の目の前を小さな神輿が、狐の面を被った禿ばかりを担ぎ手にして、威勢よく横切って行った。  客と新造と、男女混合のお囃子に付き添われ、其の儘神輿は角を曲がって行く。其の様子を目だけで追うと、神輿が通った角に新たな提灯が上がるのを見た。其れは特別に大きな提灯で、火袋には遊女の名でなく、絵が描かれていた。白い狐と黒い狐が一匹ずつ、輪に乗って舞う姿の絵が。俺は咄嗟に反対側へと顔を向けた。矢張り、此方にも新たな提灯が出ている。白狐にまたがる天女を描かれた物が。  吉原には、斯くも狐に由来があるものか。或いは、俺が狐に化かされているだけか。 「あっ。ごめんなさい。長々お引き留めしてしまって」  百合子が両手を合わせ、 「お座敷で、蕾お姉様がお待ちです。そうそう、『しるしの杉』を、必ず受け取って下さいね。常連さんでもなかなか頂けない、自慢の代物なんですから」  と言い、声を潜めて、 「『しるしの杉』は、お祭の夜に選ばれたっていう証ですから。実は、今お祭に参加されている方々は選ばれなかったお客ばかりで、此の騒ぎは憂さ晴らしも兼ねているんですよ」 「どういう事?」  俺も小声で訊く。と、百合子は顔を近付けて、 「今夜は、お姉様方がそれぞれ最も慕っていらっしゃるお客様だけをお相手なさるんです。探偵様も蕾お姉様と事前にお約束されたでしょう?そうでないとお座敷には入れないんです。此の提灯も呼び出しの合図になっていて、これに火が入った名前から、支度が整ったという意味が……ほら、周りの明るい提灯を見て下さい。名前が書いてあるでしょう?あのお姉様方は、今頃特別なお客様と逢ってる筈ですよ」 「へぇ……」  奇妙な心持ちで俺はこれを聞いた。嬉しくない筈はない。が、そんな重要な夜にどうして俺が選ばれたのか、まるで心当たりがなかった。何しろ、蕾と俺は昨日面会したばかりだ。 「流石ですね、探偵様。もう蕾お姉様を射止めるなんて」  百合子にからかわれる。が、本当にそうだろうか?俺は己惚れていいのだろうか?……しかし他に思い当たる事がない。まぁ、詮索しても野暮だろう。 「だといいけどね。じゃあ、行ってくるよ」  其れを挨拶に、俺は百合子に手を振り、暖簾を潜った。玄関に入る。と、再び狐面を被った禿が無言でお辞儀した。まさか毒蛾ではあるまい。毒蛾ならば開口一番に悪態を吐いてくるであろうし、加えて此の子の髪色は黒い。  俺は正体の知れぬ子供に案内され、廊下を突き進んだ。遊女に選ばれた男だけがいるという屋内は、祭の騒ぎから隔絶され、変にしんとしている。中庭の橋を渡り、大階段を上がって、襖絵の花園を歩く。中で交わされているだろう睦言に耳をそばだててみても、何も聞こえない。其の内に沈丁花の前に行き着く。禿は襖を開けるなり、何処かへ行ってしまった。  蕾は座敷の中央に、凪いだ顔で正座していた。其れでも、衣装は祭に似合う華やかなもので、朱色地に金屏風を散らした物で、柄の屏風には更に細かな梅が描かれていた。  床の間には三幅の書幅が「大」、「黒」、「天」と飾られ、其の手前には杉と椎の枝に二本の紙垂(しで)を巻き付けた物が置いてあった。  狐に化かされているとして……俺は考えつつ、蕾の前に腰を下ろした……巧く化かしたものだ。蕾は美しい。 「さっき、百合子さんに会ったよ」  世間話の積もりで俺が切り出す。 「お知り合いなのですか?」  そう問う蕾の声が硬い。 「局に行ってた時に、名乗り合った事があって」  俺がそう応えると、蕾は顔をしかめて、 「そうですか……」  と不機嫌も露わに、膝の上で拳を強く握り締めていた。
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