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散茶 参
蕾と百合子は不仲なのか、俺は訊けずにいた。
若しかしたら、という予感はあった。あの沈丁花の座敷で百合子を見掛けた事がない。これだけ通って、唯の一度も、である。菜奈と子狐の様な親密さは稀にせよ、他の座敷を覗くと、遊女の傍には、大概、新造が控えている。なのに、料理の膳を運ぶ者達の列にすら、百合子は混じっていた事がない。百合子から教えられなければ、彼女が蕾の妹分だと気付きもしなかっただろう。
何度かは蕾に訊こうと試みた。百合子との関係は良好か否か……しかし、結局いつも質問は口にせず済ました。訊く必要を感じなかったというのもある。が、何より訊く勇気がなかった。折角近まった蕾との関係をこじれさせたくなかったのだ。
俺は蕾の所に足繁く通っていた。
蕾の腕は回を重ねる毎に冴え渡っていく。一つには、阿吽の呼吸と言おうか、互いに身体のコツを掴んできたからであろう。が、其れ以上に、蕾の態度から商売っ気が段々に抜け、真情に似た柔らかな応対、これが俺を寛がせた。
判っている。其れこそ遊女の作戦であり、商売っ気である、という事は。しかし、丁度、馴染みになった定食屋で食後の甘味をロハで差し入れて貰う様なサービスに、俺は心酔した。遊女の其れはまさに献身だった。
俺は己がスッカリ中毒になっていると知っていた。知っているから未だ安心だと思った。自覚のある内は未だ中毒ではない、と己を甘やかした。
仕事も殆ど忘れていた。
行為の終わり、荒い息を整えるべく布団に仰向けになる。隣の蕾は俯伏せて、枕元に畳んだ更紗の被衣を撫でていた。
「蕾さんは、普段、どんな風に過ごしてるの?」
義務的に質問する。俺は今やこんな程度でしか吉原の内情を探ろうとしていない。
「私達が、普段、どの様に暮らしているか、という事でしょうか?」
「うん、そう。俺が帰った後とか、何してるのかなって」
「二度寝しています」
蕾はハキハキと応え、身体を此方へ向けた。白い女の裸が湿気った雪の様に横たわる。
「意外だな」
と、俺も身体を横向けて、
「蕾さんは朝からシャンとしてるかと思った」
「まさか。身体が保ちません」
「もっと教えて」
「暮らし振りを、ですか?」
「うん」
「どんな事が知りたいのです?」
「えーっと……吉原の女性陣って皆、此処に暮らしてるの?」
「半々、でしょうか」
蕾は首周りの汗を手拭いで始末しながら、
「切見世や局で働いている者は、大抵が近くの寮で生活しているそうです。散茶にもそういう遊女はいます。しかし、新造や禿、其れに格子以上の、所謂花魁と呼ばれる者達は、全員が塔の中で暮らしていますね」
とすると、太夫もか。
「蕾さんは?」
俺は蕾の長い黒髪に触れつつ訊いた。
「私も此処で暮らしています。通勤がなく、色々便利ですので」
「二度寝した後は?」
「直ぐ昼食を頂きます。其れが済むと、お稽古に」
「三味線とか、踊りとか」
「そうです。曜日別に分かれていまして、私の場合は月曜に三味線、火曜にお箏、水曜はお茶という風に……日曜はお休みで……大体、一時間から二時間。其の後は自由時間です。思い思いに過ごします。最近は八卦に凝る者が多いみたいです」
「占いが流行ってるんだ」
「吉原では周期的に流行るんです。先月は手相でした」
「自由時間に蕾さんは何してるの?」
「……秘密です」
「ふぅん」
俺は女の手を握って「其れから?」と催促した。
「自由時間の後には支度が始まります。着付けをし、お化粧をして、お客様をお迎えする準備をし、出来上がる頃、店が開きます」
そして接客……俺は互いの裸を改めて観察した。全く効率的な時間割だ。蓋し時間割とは、職業的義務感の一歩目にして舗装路だな(欲の抜けた頭は矢鱈に哲学に傾く)。
「此の暮らし方は、江戸時代の吉原を参考にしているそうですよ」
蕾が手を握り返しつつ補足する。
「『古い方が偉い』ってヤツだ」
俺は己の親指を女の手の甲に滑らせた。
「そうですね。でも、其の儘ではないみたいです。変更されているトコロもあります」
「其れも教えて」
「……代表的なのは、昼見世の廃止でしょうか。現代でも他の廓は昼営業を続けていますが、ウチは一切止めてしまって、お稽古の時間に宛がっています。後は、細かいトコロだと、私達の食事について、でしょうか。昔、遊女はお客様の前ではものを食べなかったそうです」
「へぇ……今はそんな事ないね。やっぱり、人が食べているのを見るだけってのは、一種の拷問だろうし」
「其れもありますが……女がものを喰う姿を好む殿方が増えた、というのが本当の原因かも知れません」
と言って、蕾は俺の親指を甘噛みした。こんな児戯も蕾は涼しい顔でやってのけるものだから、其の生真面目を笑ってしまいたくなる。
俺は暫し彼女を眺めてから、
「新造や禿も似た感じ?」
と訊いた。
「新造は殆ど同じでしょうか」
親指から口を離し、蕾が応える。
「唯、夜には新造専用の仕事があって、床入りしている姉貴分と其のお客様の着物を、洗い場へ持って行くという……禿に関してはかなり違います。朝昼とに、六三制相当の授業を受けている筈です」
「吉原にも学校があるんだ」
「学校と呼べるかどうか、あれは寺子屋に近いですが……寂しい思いをしている子ばかりですから、せめて教育だけはしっかり、というのが忘八の方針の様です。幾分かは、世間の批判を少しでもかわしたい、という目的もあるのでしょうけど」
サッパリと、明け透けに言ってくれる。しかし批判となれば、俺こそ大いに批判されるべきだろう。
……蕾の胸に潜り込む……。
ニュースの端々に読める「人身売買」の文字にヒヤリとする様になったのは、吉原に通う回数が十を超えた頃だったか。一得一失こそ世の常、プラスとマイナスが畢竟均衡するなら、客の悦びは遊女の哀しみに因って賄われているのか。店で会う彼女達の顔には、世間が声高に訴える様な影をまるで感じさせない溌剌さがある。此の溌剌さすら遊女の技巧なら、あまりに遣る瀬ない。せめて、其の高額な料金に因って帳尻が合っていて欲しい。が、そうすると、矢張り「売買」の文字に怯える事になる。
いいや、其れだけではない。俺にはもっと怖ろしい文字がある。「お千代」の三文字だ。
そも、俺が何故吉原に通う事になったか。仕事の為である。其れが、此の体たらく、俺の職業的義務感は遊女の足下にも及ばない。現状がお千代に知れたらどうなるか……知れたら?あの名探偵の事だ、既にお見通しに違いない。にも関わらず、特にお叱りの連絡を寄越すでもなく、不干渉を貫いている。其れが一層怖ろしい。
怖ろしいからこそ廓に来てしまう。世間や家人の批判も、台風の目たる廓の中では聞こえない。
加えて、俺は世人に説きたい。心の底に潜む怪物の力強さを。アレに足を掴まれたが最後、如何なる抵抗も虚しく、俺達は引きずり込まれてしまうのだ。快楽の沼の底に住まう、性欲という怪物に。切迫だ。欲望は一種の病気であり、渇いた際に覚える喉の焼き付きは、到底抗えるものでは……。
……女の肌に頬を寄せる。と、自然、心が落ち着いた……。
そうとも、病み付きだ。蜜の味を知った者にとって、切迫だ恐怖だ批判だ、全て単なる調味料に過ぎない。
立派な悪人だ。悪事をなし開き直る清々しさに酔い、其の酔いの片隅に「此の儘ではいつか身を滅ぼす」という予感を自覚し、つい身震いする。
と、俺が寒がっているとでも勘違いしたのか、蕾が俺の背中に手を回し、母親の様に抱き締めてくれた。其の胸に抱かれ、明日、明日こそ仕事をしよう、と考えながら、俺は眠りに就いた。
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