忘八

2/2
前へ
/46ページ
次へ
 正午近く、俺はやっと報告書を書き終え、黒い棒状のメモリーの中にホテルを出入りした写真や音声記録を保存した。これで午前中の作業は終わり。俺は席を立ち、一階のキッチン……此の建物はお千代の自宅も兼ねている……へ行き、黒いエプロンを身に付けた。  昼食作りは俺の担当だ。  今日は何にしようか。午後直ぐに依頼人が来るから、簡単なものにしよう。近所のパン屋で買ったトーストが余っているから、ピザトーストでも焼くか。サラダも添えれば見栄えも悪くない。  大きな窓から木々の緑が溢れる流し場にて、俺はトーストを厚切りし、其の上にチーズを山盛りに振り掛けた上に、マヨネーズを混ぜた。更に具材としてトマトやピーマン、オリーブを乗せ、オーブンで八分。其の間にサラダを拵え、ドレッシングを()える。オーブンが音を立てたので、トーストを取り出す。チーズの溶け具合も良い。キッチンと繋がったダイニングに二人分の皿を用意し、お千代を呼ぶ。 「飯が出来たぞ」  昼食中、お千代は報告書を確認しつつ、器用にトーストをかじった。 「今回もよく出来ているね」 「其れは料理が?其れとも報告書が?」 「両方だよ」  お千代はそう応えるなり、ペロリと昼食を平らげてしまった。  午後、約束の時間より十五分早く、依頼人がやって来た。俺は彼女を応接用のソファに通し、報告書とメモリーを差し出した。 「残念ですが、黒です」  俺はそう切り出してから、数週間の調査の結果を語った。彼女は神妙な面持ちでじっと聞き続けた。  報告が終わると、依頼人は報告書と証拠品を受け取り、深く腰を折った。其れから謝礼を支払うなり、足早に事務所を去って行った。玄関迄見送りに出た俺は、内心ホッとしていた。泣き喚く依頼人も多いからだ。  彼女の背が見えなくなってから、仕事場に戻る。と、長ソファに今度はお千代が腰掛けていた。 「今日はもう店仕舞いだ。話があるから、君も座り(たま)え」  促される(まま)、俺はお千代の真向いに座った。部屋に差し込む陽光は午後らしい柔らかさを湛え、新鮮さは薄れた代わりに今日という日にしっかり馴染んでいる。 「さて、今朝の男だがね」  お千代が語り始める。其の金色の瞳が、午後の陽光の色と重なる。 「あれは吉原の忘八だよ」 「吉原の……」  忽ち、俺は空を突き刺す塔の姿を思い浮かべたが、其れを()ぐ打ち消して、 「吉原は知ってるけど、『忘八』ってのは何だ?」 「遊郭の店主を指す(くるわ)用語さ」  お千代は足を組んで、 「女を商品としている店の主は、人間の徳性、即ち、仁、義、礼、智、信、考、悌、忠の八つを忘れた者とされ、特にこういう呼び方をされているんだ」 「つまり『人でなし』って事か」 「鋭いね。人でなしとは、言い得て妙だな。あの忘八、己を『(へび)』だと名乗ってきたからね」 「『蛇』?本名じゃないだろうし……妖しい男だとは思ったけど、蛇が人間に化けてるとか……まさかな」 「どうだろうね。不可思議な噂の絶えぬ男だからね。一晩で酒を十升吞み干したとか、金閣寺の様な金箔の御殿に住んでいるとか、諜報員だとか、何処かの王子だとか」 「王子、ね。あれだけの美形なら、そういう噂も立つだろうな」 「君だって劣らぬ二枚目だよ」 「其りゃどうも。で、忘八はどんな用事でウチに?」 「依頼があるんだとさ」  お千代は長い銀髪を耳に掛けながら、 「現職の法務大臣が吉原の中で消えたらしいよ」  と、アッサリ(のたま)った。 「え?」  俺が間抜けな声を出すも、お千代は構わず説明を続けた。 「一週間前の夜、大臣が吉原の最上階、花魁燈籠の頂上にある太夫の間へ登ったそうだ。これは台帳に記録があるそうなんだが、しかし出た記録はないそうでね」 「待ってくれ。大臣が消えた?そんなニュース、見た憶えはないんだが」 「表向きには未発表だからね。近しい者には過労に()る自宅療養と説明しているらしいが、閣僚の不在なんぞ長い事隠し通せるものじゃない。記者が嗅ぎ付ける前にどうにか解決して欲しい、そういう依頼だよ」 「時間制限(タイム・リミット)があるって事か?」 「そうなるね」  お千代は淡々と頷き、事の仔細を語った。 「出た記録がない。これは大問題でね。場所が場所だけに、吉原は出入口に監視カメラを設けていない。廓遊びは裏の趣味、実際大臣もお忍びで訪問していたらしいが、故に店側は厳重()つ正確に台帳を付けているそうだ。上客に対しては特に。其の台帳に、入店記録のある大臣の、店を出た記録だけがない。  台帳を最終確認するのは忘八だ。おかしいと思い忘八も調べたそうだが、肝腎の太夫はだんまり、最上階にいた他の面々も知らぬ存ぜぬの一点張りでね、お手上げだ。  其処に気になる噂も流れ、忘八の耳に入った。あの夜、太夫の寝所にて『大きな血溜まりがあった』というものだ。真偽を確かめようと早速出向いたものの、既に寝所の畳は全て新品に交換されていたらしいよ。  これだけでも充分に厄介だが、太夫の間というのが又いけない。他の階なら未だしも、彼処(あそこ)だけは別格、最上階で起きた事は忘八といえども知り得ない。というのも、太夫は謂わば吉原の女王、其の女王が住まう御殿となれば、仮令(たとい)店の主でも手出しは難しく、無理に(あば)くとなると手荒な手法になるが、其れは吉原内に無用の混乱を招くだけ、出来れば避けたい。しかし、上客が店内で消えた手前、唯手をこまねいている訳にもいかない。悩みに悩み抜いた末、(つい)に探偵に泣き付いたと、こういう次第さ」 「へぇ……」  俺は嘆息に似た曖昧な返事をした。朝にすれ違ったあの男の、あの微笑は、本当にそんな崖淵に立つ人間の表情であっただろうか?探偵に哀願しに来るような男が、あんなにも余裕を含んだ笑みを浮かべられるものだろうか? 「……で、忘八は俺達に何を調べて欲しいって?」  いや、白スーツの男については考えるだけ無駄だろう。直感がそう訴えている。俺は依頼の方に意識を戻した。 「単なる行方不明なら足跡と居場所を、死んでいるなら遺体を、殺されているなら殺人犯を、見付けて欲しいそうだ」  お千代はソファの背もたれに小柄な身体を預けながら応えた。 「受けるのか?此の依頼」  俺が訊くと、 「うーむ」  お千代は徐に煙管の支度をし、たっぷり紫煙を吐き出してから、 「断れない、と言うのが正しいかな」  と、他人事の様に言った。 「今、法務省と内務省は蜂の巣をつついた騒ぎだとか。何しろ現役の閣僚が消えたのだからね。本来なら()ぐにでも新しい大臣を選出すべきだが、行方不明となれば、死んだかどうかも判らない。新大臣が選ばれてから、実は生きていましたでは、冗談にもならない。対応に苦慮した末、先ずは安否確認を最優先、()し死んでいたのなら其の死因の特定と、責任の所在を突き止める事になった。矛先は忘八だ。大臣の生死がどちらにせよ、消えたのは吉原内。責任は当然、吉原の責任者にある。おまけに吉原と政府の関係は、不防法の制定以来、非常に微妙だからね。これに乗じて吉原を潰そうとする廃娼論者は政府内にもごまんといる。忘八としては堪ったものじゃない。一方、吉原の上客の中には政府関係者も多くいる。相当な利権も絡んでいる。彼処は巨額の動く場所だからね。とくれば、忘八は板挟み。其の板挟みにウチも巻き込まれた格好だよ。此の一件を耳にしたにも関わらず、依頼を拒否すれば、口封じとして、道連れ、あっという間にウチは潰されてしまうだろうねぇ」 「えっ」  目が点になる、というのは、こういう際に用いる言い回しに相違ない。 「じゃ、じゃあ、コッチに選択肢はないのか?」 「そうなるねぇ」 「そんな……大体、店主すら知り得ない事実を、どうやって外部の人間が調べるんだ?」 「あぁ、其の方法についても、先方から注文があったよ。探偵を名乗って向かっても、太夫は門前払いするだろうから、内密にお願いしたい、ついては廓には客に化けて潜入して欲しいそうだ。其れはそうだろうね。容疑者がおいそれと探偵を現場に迎え入れる訳がない」 「まぁ、そうだろうな……けど、誰が客に化けるんだ?」 「其れは、当然、君だろう」  何度目だろう。俺は到頭、言葉が喉に詰まり、呼吸困難の鯉の様に口をパクパクさせた。 「何で、俺が?」  ようやく口から出た言葉も、お千代の紫煙に吹き飛ばされてしまう。 「吉原は女人禁制、私は遊郭の客にはなれないからだよ」 「其れは……確かに……都合は悪いけど、でも……」 「まぁまぁ、君に任せ切りにする積もりはないから、安心し給え。私は私で、大臣を探す係を引き受けるよ。遺体であろうとなかろうと、吉原の最上階から人一人が蒸発するなんて並大抵の事じゃない。恐らく外部にも手引きした者がいるだろから、其れも調べる必要がある……(つい)でに、伝手(つて)を頼って政府の動向も探ってこよう……私は外から、君が中から調査する、と、こういう方針でいこうと思うんだが、どうかな?」 「『どうかな?』って言われても……そもそも、そういった事情なら、忘八は何でウチに依頼したんだ?お千代の名声を聞いて来たのかと思ったけど、肝腎の吉原内の調査が俺にしか出来ないなら、そういう理由でもないだろうし……他に、有名な男の探偵のいる事務所なんて、此の御時世、沢山あるのに」 「さぁ?私の伝手を知っていたのかもね。忘八も政府内の動きを気にしている口振りだったから。或いは、矢張り、君の活躍に期待しているんじゃないかな」 「其れこそないだろ」  ハァ、と、俺は溜息を吐いた。駄々をこねても仕様がない。断れないのなら、此処は潔く仕事に専念しよう。 「とすると、俺とお千代で二手に分かれる算段だな」  俺は此の時、未だ此の依頼の錯綜具合を理解しておらず、軽く考えていた。権力者絡みの事件は過去にも扱った経験がある。今回の難易度も其れらと同程度であろうと、高を括っていた。なので、何の気なしにこう言った。 「じゃあ、俺は其の太夫の間とやらに客として出向いて、気取られないよう注意しつつ調査を進めればいいのか」  これを聞いたお千代の金の瞳に一瞬哀れみが過ぎり、かと思うと真摯に俺を見据えて、 「残念だが、其れは無理だね」  と告げた。 「無理って、どういう事だ?」  俺が呑気に訊く。と、お千代は愈々(いよいよ)深刻になって、 「太夫の階へ行くというのは、容易に叶う事じゃないんだよ。言っただろう?太夫は吉原の女王、謁見するのも容易ではない。其れなりの身分でなければならないんだ」 「でも、依頼人は、一般客に紛れて目立たずに調査して欲しいんだろう?」 「そうだ」 「じゃあ、どうやって太夫の所へ行くんだ?」 「さて……これが江戸時代なら、引手茶屋だの何だの、手立てもあったんだが、現在の吉原の制度(システム)がどうなっているか、私にも判らないんでね。少なくとも、あの塔を下から順番に上がっていくしかないんじゃないかな」 「けど時間がないんだろう?」 「そうとも、時間はない」 「時間がないのに、花魁燈籠を下から、登り方も判らない(まま)、三百メートル近く上がれっていうのか?しかも、上がった後に大臣について調べろと?制限時間以内に?」 「そうだね」 「なのに、此の依頼に失敗したら、ウチの事務所が潰されるっていうのか?」 「うん、まぁ、そうなるね」  俺は二の句が継げなかった。いつの間にか前のめりになっていた身体から力が抜け、ドッサリと、ソファに沈み込んでしまう。 「其れこそ無理だろ……」  やっと、これだけ呟く。責任の重さが雷雲の様に暗澹と俺の頭上に降り掛かった。俺の働きが足らなければ事務所が潰れるかと思うと、其れ以上の物事を考える力が抜き取られてしまった。  独り頭を抱える俺に、お千代は黒いプラスチックカードを差し出すのだった。 「忘八からの土産だ。上限額なしのクレジットカードだよ。吉原ではこれを好きに使って、飲み喰いしていいそうだ。資金面の問題は考えなくていいという配慮だね。(ただ)し」  突然、お千代は其の小さな両手で俺の頬を挟むと、俺の顔を正面に向けた。(にわ)かに金色の瞳に厳しく見詰められ、ドキリとしてしまう。互いの顔が数センチの距離にある体制で、お千代は鹿爪らしく、回りくどい事を言うのだった。 「よく聞き給え……田山花袋の短編『少女病』にこんな一節がある――先生のはただ、あくがれるというばかりなのだからね。美しいと思う、ただそれだけなのだ。我々なら、そういう時には、すぐ本能の力が首を出してきて、ただ、あくがれるくらいではどうしても満足ができんがね――私とて、男の本能は重々承知だがね、これは仕事だという事を、君、決して忘れてはいけないよ。金の心配がないからといって、女遊びに熱心になってはいけない。『あくがれるばかり』で我慢し給え。()してや廓に()まるなんてもっての(ほか)だからね。判ったかい?」  切実な念押し。お千代の心配するトコロは事務所の将来でなく、そっちなのか。俺はつい笑ってしまいそうだった。これも又、不防法がもたらした負の一側面だ。遊郭での行為が不貞に当たらないとしても、人の心は法律程には規則的に割り切れない。取り分け、嫉妬心というヤツは。 「勿論、判ってるよ」  俺は素直に頷いた。心底からの返事だった。お千代の嫉妬が嬉しかった。加えて、此処を潰す訳にはいかないと、決意を新たにした。俺はお千代にスッカリ惚れているのだから。
/46ページ

最初のコメントを投稿しよう!

37人が本棚に入れています
本棚に追加