切見世 壱

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切見世 壱

 俺が初めてお千代に会った時の事を思い出す。裁判所で、浮気調査の結果を証言していたお千代の姿に、俺は一目惚れしたのだ。  小柄な背丈をものともしない堂々とした立ち居振る舞い。俺はもう其の時、俺を訴え、証人控え席に座って此方を睨んでいる元恋人の存在すら忘れ、お千代に見入っていた。  そして俺に有罪判決が下され、罰金の支払いが定められた時、お千代は裁判長の前を横切り、俺の許に来て、こう言ったのだ。 「君、私の処で働かないか?丁度男手が欲しいと思っていたんだ。有罪となれば、今の職場も辞めなければならない筈……どうだろう?せめて、罰金分くらいは稼がないかい?」  俺は一も二もなく頷いていた。  其れからが大変だった。  私立探偵の事務所に所属するには探偵免許証が要る。此の免許を取るのは非常に難しい。  生半な覚悟で取れるものではない。俺は生まれて初めて勉強に打ち込み、お千代の助言も得つつ、ギリギリ試験をパスしたのだった。  あれから数年経ち、罰金も払い終えた。其れでも俺はお千代と共に働き続けている。が、彼女の素性について俺が知っている事柄は、未だにそう多くない。古い文学を好み、其れらの引用を好み、煙管を好み、衣装道楽で、頭脳明晰で、不遜な性格であり、美しい、と、こういった表面的な事は共に仕事していく中で知り得たが、其れ以外の事、例えば出身地や経歴については何も知らなかった。どうして政府関係者とパイプがあるのか?今回の依頼だって……吉原へ向かう地下鉄の中で、俺は独り黙考し続けた……忘八が態々(わざわざ)ウチの事務所を選んだ理由がきっとある。何か重大な秘密もある気がする。トンネルを走る電車の暗い窓に俺の悩む顔が薄く映り込んだ。  警察が介入してこない、というのも引っ掛かる点ではある。が、これはままある事だ。金持ちが身内の起こした事件等を暗々の内に処理すべく探偵を雇い、警察を一切排除してしまうという事例は、一時期に比べれば減ったものの、依然残っている。今回もそういう事なのだろう。其れこそ一昔前は、人知れず解決どころか、悪徳探偵に賄賂を握らせ、事件自体をもみ消そうとする依頼人もいた。が、不正ばかり蔓延(はびこ)っては探偵業全体の信頼に関わると問題視され、不審な場合は他の探偵が再調査するという相互監視体制が組まれて以来、そういった噂はとんと聞かなくなった。  其れに今回は、お千代も言っていたが、場所も場所、大臣の親族も失踪届は出しに難いのだろう。となれば、益々、警察ではなく、探偵の出番になる訳か。  ところで、これは賄賂になるだろうか?俺は懐から黒いクレジットカードを取り出してみた。これを使って、本当に問題にならないのだろうか?  お千代にもっと訊いておくべきだった。もっと、色々な事、依頼の事だけでなく、此の際彼女の来歴や素性についても。事務所に勤め出してから今迄に訊く機会がなかった訳じゃない。が、当人から打ち明けてこない事を、果たして俺が詮索していいのか?人の過去を暴こうとするのは、褒められた趣味ではない。其れに、あの金色の瞳と銀色の髪が象徴する彼女の神秘性を(いたずら)に破る事が、俺には空怖ろしかった。触れてはならない禁忌に触れる様で……。  忘八からの依頼内容を語り終えた直後、珍しく灰色のスーツに着替えたお千代は、俺に向き直って、 「先ずは大臣の死の発表迄どれだけの時間的猶予があるか、其れだけでも探ってくるよ。君も今晩早速吉原へ行き、あの塔をどう登るか、せめて取っ掛かりくらいは見付けてき給え」  と言い残し、事務所を出て行ったのだった。  そうとも。お千代はお千代で頑張っているのだ。俺も俺で、色香に惑わされず、依頼をキチンとこなせば、コイツは賄賂ならない……筈。俺はカードを懐に戻した。丁度、電車も「吉原大門前駅」に到着した。  ホームに降り、改札を抜ける。地上行きのエスカレーターに運ばれつつ、星のない東京の夜空が段々と近付いてくるのを眺める。まるで工場の搬送経路の様に、多くの人々が地下鉄の出口から次々排出されていく。俺も同様に通りに出、振り返れば、夜景を貫く燈籠が案外近くに御目見えした。  台東区は隅田川の傍に建つ此の塔をこんな間近に拝むのは初めてだ。流石に圧倒されてしまう。首が痛くなる程に仰ぎ見れば、天地が逆様になった様に錯覚する。石の様な灰色の外観がより威圧的である。  今から彼処(あそこ)へ行くのか。今更ながら緊張してくる。  依頼の難易度が異様に高いというのもある。が、もっと単純に、仕事とはいえ色街へ正面切って向かうという事実が気恥ずかしく、後頭部の辺りが熱くなった。実際、初めて訪ねる場所は唯でさえ余裕がなくなるというのに、其れが遊郭となれば身も硬くなろうというもの。胸中は不穏にザワつき、逃げ帰ろうと足がすくむ。何より、未だ日が沈んで間もない。今行くのは早過ぎるのではないか?いや、行った事がないから、適切な時間があるのかどうか、其れすら判らないけれど。  歩道の真ん中に突っ立った儘の俺を通行人が不審気に一瞥していく。其の時、通りに面した雑居ビルの二階に「バー」の看板が掛かっているのを見付け、俺は一先ず……言い訳がましく……其処で時間を潰す事にした。酒の力を借りれば、冷や冷やした胸の内も温まり、首筋の鳥肌も幾らか紛れるだろうと期待したのだ。  三十分後、ほろ酔いになった俺の気は大分大きくなり、よし、風俗だろうが何処だろうが行ってやろう、と、目論見通りの度胸を携え、通りを闊歩するに至った。  巨人に挑む小人の勇ましさで、俺はズンズンと塔へ向かって行った。あれだけ目立てば道に迷う気遣いもない。一体、此の地域は花魁燈籠の建設と共に再開発が進み、其れも観光を促進した為、道路は幅広に新設され、一方で所々に古い下町風の建築物が保存されているという、不調和な街並みが続いていた。が、塔に近付く程に、通りは細く狭くなり、軒を連ねる建物も電飾(おびただ)しい長屋造りの土産物屋ばかりになって、宛も仲見世通りの観である。呼子の声が四方八方から飛び交う最中に、妙なTシャツだのキーホルダーだのが並ぶ、観光地に有り勝ちな、アルミの(ひさし)の張り出した店先を、大勢の男、男、男ばかりが突き進む。年齢(とし)も恰好もてんでバラバラな男の一群が、路地を通って、吸い込まれる様に塔の根本へ向かっていく。俺も其の一人である。  さて、路地の終点、土産物屋の途切れた其処に、木造の大きな門がドッシリと待ち構えていた。これが駅名にもなっている「吉原大門」に相違ない。後で知った事だが、これは江戸時代の吉原のものを正確に再現した、という訳でなく、ケレン味を()かせるべく吉原とは無関係の城門を真似、()えて大仰に造られたのだとか。  其の門を男達が次々に潜っていく。俺も、折角酒で火照った心臓が既にヒヤリとするのを感じながら、門を抜ける。  途端、別世界が広がった。  (あたか)も城下町である。大変な賑わいである。奥に控え空を埋め尽くす塔は仰ぎ得ぬ程に(おお)きく、壁の様な、山の様な、存在感すら超えた自然な背景と化していた。其の麓に敷かれた大通りは石畳、其の目抜き通りの両脇に構えた土産物屋の列、其の全てが外とは様相を異にした本格式の木造瓦葺である。三和土(たたき)に棚を出して売る商品も、櫛やら御盆やら、風鈴、化粧箱、等々、工芸品が主立っている。更に、一般客こそ洋服だが、店員達は男も女も揃って着流しに前掛けという風体で(せわ)しなく立ち働いている。髪型ばかりは現代風の下ろし髪だが、其れでも街の景観と上品な「いらっしゃいまし」の掛け声が合わさると、まるで時代劇に飛び込んだかの様であった。  あぁ、吉原に来たのだな。往来の様子から、やっと実感する。  人込みに揉まれながら、現代ではめっきり見なくなった純日本風の家屋の合間を進んで行く。煌々と連なるガス灯に照らされた人々の顔はほんのり赤らみ、皆々熱に浮かされた表情。浮世の憂いは忘れ去り、男達の足取りは躍る心を表す様に軽かった。財布の紐も弛み易いのか、其れを狙っての商売に相違ない、店から出て来る客は風呂敷を提げた者が多い。  街の中心にある十字路を過ぎると、ちょっとした広場があり、其処に野外用の芝居小屋が建っていた。丁度何かやっているらしく、人集(ひとだか)りが出来ている。興味本位から、俺も群れに混じって、少しだけ芝居見物……舞台上には連なる山々と急流の書割、そして中央には「大井川」と書かれた杭が刺さっており、上手(かみて)には(かみしも)を身に付けた初老の男女が座し、男は見台を前に独特な節回しを、女は三味線を披露していた。そして下手(しもて)には、継ぎの目立つ桃色の半纏(はんてん)を羽織った美しい少女が、芝居をしていた。歳の頃は十くらいだろうか……。  子供?どうしてこんな所に?  疑問が湧く。が、初めての吉原でのぼせ上っていたのもあって、俺は唯々舞台を眺めた。其の少女は金色に近い茶髪をおかっぱにした、頬の膨らみが幼い、通った鼻梁が大人びた、実に目を惹く容色をしていた。そんな少女が両の瞳をピッタリ瞑り、上手の男の節に合わせ苦しく悶えてみせていた。 「――此の年月(としつき)の艱難辛苦を、どうぞ、も一度其の人に逢わしたけと片時も、実らぬ的でもないものを、今日に限って此の大雨――」  節回しと共に三味線が弾かれ、鋭い弦の音が響くと、少女は半纏の袖に顔を埋め号泣してみせる。 「――思えば此の身は先の世も、如何(いか)なる事の罪せしぞ、さてもさても――」  川を前にひたすら嘆く少女の健気な姿に胸打たれ、雑踏すら耳に入らず、場面に集中し切ってしまう。が、其の時、一際強く弦が(ばち)に弾かれ、鋭い音が鳴り渡り、俺を我に返した。  いけない。観光に来たのではないのだから。  瞳を閉じた少女が「大井川」の杭に(すが)っている。其の物哀しいサマを惜しみつつ、俺は見物客の中からそっと脱け出た。  とはいえ、何処へ行けばいいのやら。俺はハタと迷子になった。よく観察すると、一帯にうごめく男達も大半は店々を冷やかすだけで大門を出て行く。してみると、此の内の誰かに道を(たず)ねたとて、俺の行きたい場所へ案内してくれるとは限らない。いや、そも、俺は自分の行きたい場所すら判っていないのだ。  加えて、目的を思い出すと羞恥心も復活し、他人に質問するのが一層憚られた。遊郭の入り方を訊くという事は、遊女買いを公言すると同義であり、己の性生活を告白するに等しい。又、其れだけでなく、無駄な虚栄心も働いていた。吉原に不慣れであると悟られたくなかった。「俺は遊び慣れた、駄目な男で」と、余計な見栄を張ろうとしたのだ。  男の矜持(プライド)なんぞ自身でも不可解なもの。そんな不可思議の所為で、俺は誰にも声を掛けられず、孤独に歩む他なかった。  同じ男達の中にあって、急に仲間外れにあった様な疎外感を覚えながら、通りの終点、即ち塔の入口に、到頭着いてしまう。松の描かれた大判襖を模した自動ドアが左右に開けば、先ず行列が目に飛び込んだ。正面に三基あるエレベーターを待つ男達は、多種多様、学生らしい恰好の者もいれば、公務員らしい生真面目な恰好の者もいる。皆、行儀よく、天井から吊るされた数十の行燈の仄明るい下に整列し、エレベーター前でボタンを操作する着物の女の指示に従い箱を乗り降りしている。  あれに乗ればいいのだろうか?  覚束ない心地でキョロキョロと周囲に目をやる。と、広々した此のエレベーターホールの、ヒッソリとした暗がり、左右の壁……これも見事な作りで、蒔絵細工が施されているのだが、其のどちらの壁にも、立派な蔵戸前が設けてある上に、どちらの戸の前にも矢張り着物の女が立っているのだった。  正面のエレベーター、左右の蔵戸、どの入口が正解か……サッパリである。俺はもう帰りたくなっていた。不安でならなかったのだ。思わず(きびす)を返す。と、出入口が開き、新しい客が一人、ホールにやって来た。其の男は裾や袖口の汚れた作務衣という、飛び切り粗雑な恰好で、正面の行列に混じるでもなく、向かって左、入口脇へサッサと向かった。其処には、闇中に隠れる様にして、ポッカリと階段があり、男は其れを下っていくのだった。  地下があるのか?  どうやら一階はエレベーターが並ぶのみ。確か、お千代の談では、上の階層へ行くには決まった手順を踏む必要があるとか。順番として、下から上へ登るならば、地下こそ俺が行くべき場所ではないだろうか。きっとそうだ。嵐の中に灯台を見付けた心地、俺は内心救われたと感謝しつつ、早速地下へ足先を向けた。  これが大間違いだった。  自分の靴音が矢鱈(やたら)に響く薄暗い階段。灯りと謂えば、壁にポツポツと(まば)らに掛かった提灯の灯りのみ。其れらの提灯には墨字で「切見世(きりみせ)」と大きく書いてあった。其の赤々と揺らめく灯りの傍を過ぎ、踊り場を回れば、階下に錆色の暖簾が現れた。こんな地下に本当に店があるか半信半疑であったが、ちゃんとあるらしい。  暖簾を潜ると、小さな部屋があった。四畳半程の板敷きで、直ぐ()がり(がまち)になっており、奥には番台が据えてある。 「いらっしゃいまし」  其の番台に座った男が、商売人らしい笑みを浮かべて挨拶してくる。 「御予約の御客様で?」 「え?いや……」  しまった。俺はそう思いながら応えた。此処に来る事にばかり夢中になって、来た後の事を一切想定していなかったのだ。 「畏まりました。では御客様、お遊びになられるお時間をお選び下さい」  着流しの男は、笑顔の儘、淡々と話を進めていく。時間……其れも客が決める仕組みなのか。そうだな……俺は此処に調査をしに来たのだから、時間はなるべく長く取るのが、無難であろうか。 「じゃあ、今夜一晩」  深い意味もなく俺がそう言うと、男は明らかに眉を潜めた。が、笑みだけは崩さずにいたのは、(から)くも商売人の意地らしい。 「少々、お待ち下さい」  男はそう言い置くと、立って背後の間に引っ込んでしまった。残された俺は、もうオロオロとし始めていた。何か変な事を言っただろうか?初めての吉原で勝手が判らず、つい一晩と注文したが、いけなかったのだろうか? 「しかしねぇ……」  と、独りで冷や冷やしている俺に追い打ちを掛ける様な囁きが、奥の間から漏れ聞こえてくるのだった。 「まさか今夜中だなんて……」 「無茶を言うよ……」 「きっと素人だね。或いは、相当な玄人か……」 「だけど、そんな長い時間、空いている()なんか……」 「いるじゃないか、お誂え向きが……」 「でも、あの娘は……」 「客の御要望だろう?なら仕方ないやね……」  俺が居堪(いたたま)れず逃げ出す寸前であった。ほくそ笑む様な声を最後に囁きは止み、さっきの男が笑顔で戻ってきて、 「お待たせを致しました。御客様、此方、『三十六』の札をお取り下さい」  と、何やら数字の刻まれた木札を差し出すのだった。
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