切見世 参

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切見世 参

 浮遊感のまにまに、安らかに横たわっていると、徐々に頭の奥が重たくなり、眉間が痛み始め、身体は揺蕩(たゆた)い意識は底から引き上げられ、呼吸をしようと目を開ければ、維織が俺の肩を揺さぶっていた。 「旦那様、お時間で御座います」  抑揚のない声で言う維織は既に鬼灯の浴衣を着込んでいる。対して、俺は裸の儘、未だ目蓋も開き切らず、微睡(まどろ)みに沈み込むのを辛くも堪え、やっと上半身を起こし、欠伸を一つ。 「お早う、維織さん」 「お早う御座います、旦那様。間もなく閉店で御座います」 「了解……」  寝起きの霞む頭では会話も一拍子(ワン・テンポ)遅れる。俺は殆ど条件反射で衣服を着、立ち上がった。維織は部屋の戸を開けながら、 「御来店、有り難う御座いました。再びお目に掛かれます日を、心よりお待ちしております」  と、定型文を宣った。其の機械的な響きに、俺は寧ろ安心した。 「うん。又ね」  微苦笑を添えた挨拶を残し、俺は三畳間を出た。  窓一つない廊下には相変わらず電燈ばかり瞬き、今が夜か朝かも判らない。周囲からは男の声も女の息切れも漏れ聞こえず森閑としている。こう静かだと廃墟の様だ……俺はぼんやりと階段を上がった。「此方」と染め抜かれた暖簾を潜り、脱衣場に入ると、これも習慣的に甚兵衛を脱ぎ、シャワー室へ。蛇口を捻って、熱い湯を頭から被れば、眠気も溶け流れ、意識がハッキリしてくる。其れにつれ、昨晩の記憶も実感として肌を伝った。維織の身体は全体に(なめ)らかで、腕や腰回りは骨立していたけれど、其処以外は柔らかく、触れるに嬉しかった。更に、其の体温の低い事、肌はヒンヤリとし、あらゆる意味で陶器の様であった……其の白い裸に殊更目立つ、円い火傷の数々……俺は両手に湯を溜め、思い切り顔を洗った。そうとも。事の最中、火照った俺の身体に、彼女の肌は冷ややかで心地好かった。しかし、維織にとってはどうであったろう?俺は自分が巧いと己惚れてはいない。比べる機会がないので、他の男がどうかは知らないが、恐らく技術は人並みである(と思う)。其れにしても、維織は動かなかった。俺の下になり、されるが儘、声は出ていたけれど、俺はキチンとやれていたのだろうか?相性は悪くなかった筈だが、或いはそう考えるのも男の独り()がりであろうか?そう言えば、さっき見送りの際にも、維織は簪を挿していなかった。あの紅い玉簪を贈った相手になら、維織も熱中するのだろうか?上になって動くのだろうか?  ……蛇口を閉じる。自信を失くしていても仕方ない。其れに、あんまり下世話な反省は維織に失礼ではないか。折角サッパリしたのだから、サッサと帰ろう。俺は昨夜と同じタオルで身体を拭き、甚兵衛は着ずに、下着だけ履き、「三十六」のロッカーへ向かった。取っ手に木札をかざし解錠、手早く着替えを済まし、靴を手にロッカーを閉じる。途中にあった大きな布製の「回収袋」に甚兵衛とタオルを放り、出口の戸を開ける。  と、受付に頬杖突いていた男が、矢庭に顔を上げ、ジロリと、俺を睨んだ。  肥えているものの眼光鋭い強面の男……入店時にアレコレ説明してくれた番頭ではない別人が、俺の事をまるで犯罪者でも見るかの如くねめつけてくる。其れだけで俺は二の足を踏みそうになるが、払うものは払わねばなるまい。怖ず怖ず、受付に近付き、 「あの、お会計を……」  と声を掛ければ、 「どうぞ」  男は無愛想にレシートを番台の上に投げ捨てた。俺は内訳をじっくり確かめる余裕もなく、此処から逃げ出したい一心で、慌てて懐から黒いカードを取り出した。 「これで、お願いします」 「承知しました」  男は素っ気なく応え、カードを手にのっそりと奥へ引っ込んだ。間もなく、奥がドタバタと騒がしくなり、四十絡みの女が受付に現れた。皺の目立つ手に、俺の渡した黒いカードを持っている。 「お客様、大変に失礼を致しました。えぇ、本日は誠に有り難う御座います。お手数で御座いますが、署名(サイン)を頂戴出来ますでしょうか?」  (うやうや)しく、女は空間投射された"Signature"という文字を示した。  はたと、俺は困ってしまった。此のカードは依頼人たる忘八から預かった物、つまり忘八の所有物だ。では、果たして、署名は俺の名前でいいのか?お千代には「支払いはこれで」と命じられているけれど。  ……まぁ、使えなかったら、其の時は一旦俺が支払い、領収書でも貰えばいいか。しかし、これ、経費として落ちるか?望みは薄い。とすると、自腹?こんな事なら、もっとちゃんとレシートを確かめるべきだった。第一、俺の手持ちで足りるかどうか……。  緊張で呼吸が浅くなる。神頼み、指先で"Signature"に自分の名前を記す。と、ポン、平和な音が鳴った。決済が無事された音だ。 「此方、お返し致します。重ね重ね、御利用有り難う御座いました。又の御来店を、維織を含め店員一同、心よりお待ち申し上げております」  矢鱈とへりくだって女はカードを手渡し、深々頭を下げた。俺もつい相手に合わせてペコペコしてしまう。女は最後迄礼節を崩さず、暖簾の外にも見送りに出、頭を下げ続けていた。  一体、コイツはどういった代物なのか?  窮地を脱し、物事を冷静に考えられるようになると、俺は手中のカードが危険物の様に思えてならなかった。これを出した途端、店側の対応が一変した。吉原の主がくれた物だからある程度の威光は予想出来るが、印籠よろしく、見せた相手の態度があんなにも変わると、使っている俺の方が臆してしまう。身の丈に合わない笠を着させられている気分だ。  不審を抱きつつも、俺は直ぐ懐にカードを仕舞った。ともあれ支払いは出来た。其れで充分、これ以上の事を考える思考能力が今の俺にはない。  提灯が列なす薄暗い階段を上がり、丁度、階段の折り返し、踊り場を踏んだ時である。背後から軽やかな跫音(あしおと)が聞こえ、かと思えば、ドシン!衝撃で倒れそうになるのを、寸で踏み止まる。何が起きたか、前を見やれば、小柄な背が薄暗い階段を駆け上がっていく。子供の様だ。あの子に()つかられたものらしい。やんちゃだな、なんて、呑気に考えながら、俺も階段を上がり切った。  伽藍堂のエレベーターホールを横目に、自動ドアを抜ける。と、外気がヒヤリと頬に触れ、仰げば夜明けの空、太陽は遠くのビル群に隠れ、未だ就寝中の東京を薄緑色の明かりでほのぼの包んでいる。花魁燈籠の高い高い塔も、心なし夜の色気を失い、のっぺりとした、一塊の、灰色の建築物になり果てている。世間はこれから目を醒ます。そうしたら、人々はたっぷり眠った寝床を離れ、普段通りの朝を迎える。俺独りだけが其の正常な営みから外れてしまった様だ。昨夜の内に酒と共に大量に吸い込んだ夜気が、二日酔いの重たい身体の隅々に居残っていて、後ろめたい。  せめて新鮮な空気を取り入れようと、通りの真ん中で深呼吸、ついでに思い切り伸びをする。其の際、予期せず、違和感を覚えた。服が軽いのだ。いつもの重みがなくなっている。俺は上着のポケットを探った……矢張りそうだ。財布がない。  しまった!何処かで落としたらしい。心当たりはない。俺は慌てて踵を返した。一先ず、来た道を辿るしかない。  エレベーターホールにはない。では階段か。思い出せ……カードを仕舞う際、上着の膨らみに触れたのを覚えている。あの時迄はポケットにあった。そして、直後、踊り場で子供に打つかられた。あの時、拍子に落としたんだ。きっとそうだ。  急ぎ階段を下りる。灯りは提灯だけ、薄暗さが恨めしい。踊り場の端々には暗闇が溜まっており、這いつくばって其の黒い(もや)に手を突っ込み隈なく探し回ってもみた。が、甲斐なく、財布は見付からない。立ち上がって、懐を(あらた)める。幸い忘八のカードはある。財布の金にしてもそう多くはない。が、あの中には免許証の類が入っている……。  俺は途方に暮れた。が、若しや、と、不意に閃くものがあり、其れを一縷の希望と、階段を駆け上がる。あの子供の体当たりは、思えば不自然だった。若しかすると、アイツに財布をスられたのかも知れない。  ホールを見回す。エレベーターで上に行かれていたらお手上げだ。どうしようもない。俺は祈りながらもう一度外へ飛び出した。往来にある店を一軒一軒訪ねてでも盗人を捕まえる意気込みであった。  しかし、出鼻は敢えなく挫かれてしまった。目当ての子供は、直ぐ其処の軒先におり、どころか茶屋の前の緋毛氈を敷いた縁台に腰掛け、悠々と三色団子を喰っていたのだ。  十くらいの歳、金に近い茶髪をおかっぱにした、瞳が丸々とした少女。見覚えがある。そうだ、昨晩舞台に立っていた少女ではないか。着物は半纏でなく、亜麻色の地に目の細かい格子縞だが、間違いない、「大井川」の前でさめざめと涙に伏していた彼女である。  野良猫を捕まえる要領で、俺はジリジリと悟られぬよう迫った。が、此方の用心なぞまるで無視し、少女は俺の姿を認めると、笑顔で手を振ってきた。俺の財布を握った手で。 「よぉ、旦那。御馳走になってますぜ」  いけしゃあしゃあと、外見に似合わぬ粗野な物言い。俺はカチンときて、 「いい度胸だな。人から盗った物で飲み食いした挙句、被害者に礼を言う為に待ち構えてるなんて」 「いやいや、旦那、人聞きの悪い」  少女は茶をすすり、 「『盗った』だなんて、とんでもない、『拾った』んですよ、これは。拾得物には一割の返礼ってね、其れを一足先に頂いただけでさ、コッチは丸切り善意ですよ。ま、ま、どうぞ。旦那の分も頼んであるんで」  と、おためごかし。子供らしい舌足らずで、子供らしからぬ言い回し、まるで舞台だ。まさか、俺を演技で騙そうとしているのでは?訝しんでみるものの、財布を握られている手前、渋々、縁台に座る。 「ウチは毒蛾(どくが)というもんです」  そう名乗ると、少女は案外素直に財布を返した。俺は早速中身を調べた。二千円程なくなっているが、其れ以外は無事だ。 「変わった名前だな」  財布を上着に仕舞いつつ、俺が不機嫌に言うと、 「名付けた奴の趣味が悪いんでね、仕方ないや」  毒蛾はアッサリ切り返し、団子を喰い切った。入れ替わり、俺の団子と茶が盆に乗って運ばれてくる。俺はちょっと変な心地になった。早朝の、誰もいない古街道にて、和服の少女(しかも盗人)の隣、何故団子を喰う事になったか。吉原とはそういう場所なのだろうか。 「……で、どうして俺の財布をスったんだ?」  直截(ちょくさい)に訊くも、毒蛾は応えず、 「旦那は探偵さんでいらっしゃる」  と話題を変えた。 「何で知ってる?」  俺が眉間に皺を寄せると、毒蛾は上着の膨らみを指差した。成程、財布の中の探偵免許証を見たのか。 「其れで?俺が探偵なら、どうしたってんだ?」  団子をヤケ喰いしつつ言い捨てる。悔しいが美味い。 「いやね、旦那がそんな立派なお方とは知らなかったんでね」  毒蛾はおだてる調子で、 「探偵免許と謂やぁ、司法試験並の難関と聞きますがね、旦那は其れを通過してらっしゃる訳で、頭の良い金持ちには変態が多いって評判ですがね、旦那も其の手合い、だから切見世なんぞに女郎買い、其の上あんな注文をなさったんでしょう?あ、いや、勘違いされたら困るんですがね、ウチは褒めてるんですよ、これでも。あんな女を貸切りたぁ、なかなか出来る事じゃない。一周回って相当な通人、加えて見ず知らずの奴らに一等高い弁当と酒を差し入れる肝っ玉の太さ、惚れ惚れだ。其れで、そんな旦那が太夫の階に行きたいと仰言(おっしゃ)る。ウチの見立てじゃ、旦那、最近起きた最上階の騒ぎを調査しに来た口ですね。でなけりゃ、探偵様が維織なんぞに会いに来る理由がないや。けど、旦那は流石、あんな女が太夫の事情を知る訳がないと、早々見切りを付け、最低限の事しか訊かないんだから、偉いもんだ」  立て板に水である。しかし感心するより先に、俺は遅ればせながら己の失敗を自覚するハメとなった。初めての吉原に浮足立つあまり、俺は維織に聞き込みするのを忘れていたのだ。これでは何の為に来たか判らない。唯遊んで朝帰りしただけではないか。此の儘事務所に戻り、所長にどんな報告をしたものか、身から出た錆とはいえ、想像するに首の裏が寒くなる。 「……お前、どうして、俺の行動をそんなに把握してるんだ?」  己の過ちから目を逸らす為、話を毒蛾の談へ移す。姑息ながら、現に此の子供が如何な方法であの地下深くの三畳間で交わされた会話の内容を知り得たか、其の点が引っ掛かったのは本心だ。 「ウチは維織の『かむろ』なんでね」  毒蛾は苦々しく応え、 「死ぬ程嫌だが、物心付く前に決まっちまったんだから……」  と呟き、()かさず元の企む笑みを浮かべた。 「お察しでしょう?ウチは『三十六』の御用聞きなんぞ(つかまつ)ってるんですよ。何しろ彼処は全体に壁が薄いもんで。『三十五』のおっさんも言ってた通り、聞かない積もりでも勝手に耳に入るんでさぁ。しっかし、旦那、太夫とはね。とてもとても、生半じゃいきませんや。手順も手数も時間も金も掛かる。旦那なら散茶(さんちゃ)迄は呼ばれるでしょうが、格子(こうし)に上がるのだって相当なコネが()るときた。其れより上となりゃあ、文字通り雲の上でさぁ。そうと知って、旦那は(つぼね)の前に態々切見世を訪ねたんでしょう?下から順繰りに、ってね。けど、旦那はツイてる。太夫の階について調べたい、ってんなら、是非、ウチをお引き立て下さいや。維織よりよっぽどお力になれますぜ。一足飛びに解決出来まさぁな。まぁ、其れなりに、貰うもんは頂きますがね、太夫に面会するよりは(はる)かに安上がりですぜ」  俺はそろそろ頭が痛くなってきた。朝一から勘弁して欲しい。昨夜の酒も抜けておらず、仕事をこなしていない罪悪感に苛まれ、更に毒蛾の言う事の半分も判らない。此の生意気な子供が太夫の内情を探るという。だから対価を寄越せとも。最上階に上がるのはどれだけ難しいのか。そうであるならば、どうして毒蛾は太夫の許へ行けるのか。他にも訊きたい事は沢山ある。が、俺は指でこめかみを抑えながら、最も気になっている(くだり)を先ず問うた。 「『かむろ』って、何だ?」  果たして、これを聞いた時の毒蛾の表情たるや、太鼓持ちの仮面を捨て、しかめ面に急変、胡乱に俺を睨み、 「アンタ、いなせじゃなくて、本当に唯の素人だな?」  そう言って、口の中で舌打ち、 「あーあ。カモかと思って期待すりゃあ、とんだダボを掴まされたもんだ。こんなんでも探偵様だってんだから、世も末だね。財布にも大して入ってねぇし、骨折り損だよ、まったく」  と縁台を飛び下りた。そして去り際、 「にィちゃん、太夫の階に行きたいならな、切見世じゃなくて、せめて局から始めねぇと、お話になんねぇぞ」  捨て台詞、往来を走って行ってしまった。ポツンと残された俺は、湯飲みから昇る湯気越しに、遠のく子供の背を見送る他なかった。
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