形而上的恋愛

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形而上的恋愛

 不慣れな早起きをしたものの、二度寝するには中途半端な時間。着替えの為に帰宅したが、ベッドに横たわる勇気はなかった。今寝てしなえば間違いなく寝坊するであろうし、其れに今の俺にそんな時間的余裕はない。取り急ぎ言い訳を用意しなければ。俺はこれから事務所に出勤し、お千代に昨晩の出来事を報告する義務を負っている。其れが仕事いうものだ。  維織との間の事は、これは問題にもならない。真っ先に報告から除外される。此の世の何処に、廓での睦言を異性に披露する男がいるか。俺にそんな性癖はない。言わぬが仏、知られれば地獄は目に見えている。  毒蛾との一件も、伏せておく方が無難だろう。見す見す財布を盗まれた挙句、其の盗人に愛想を尽かされたとあっては、探偵の名折れ、大人失格は免れない。翻れば、昨晩の己が如何に不甲斐なかったか痛感する。とてもじゃないが、本当の事は何一つ報告出来ないな。  しかし、仕事として訪ねた以上、成果が()る。遊びに行ったのではない、有力な情報は望めずとも、お千代の言った通り、「せめて取っ掛かりくらい」は見付ける使命があった。其れが此のザマ。進退窮まっている。  いっそ嘘でも吐くか?  否。墓穴を掘るだけだ。あの名探偵に其の手は通用しない。数々の犯罪者達がお千代の前で虚言を繰ってきたが、一人としてあの金瞳を欺けた者はいない。まるで魔法の様に全てが看破されてきた。彼らの真似をしたところで、お千代の機嫌を逆撫でする事はあっても、俺が助かる事はない。  では、嘘は吐かない迄も、真実を明かさないというのは?俺は一応、調査する意志はあった。途中から忘れはしたが、これは本当だ。切見世で情報が得られなかったというのも事実である。そうとも、事実のみを連ね、失態を隠してしまえばいい、こんな風に。 「初日って事で、先ずは吉原の仕組みについて調べたよ。勝手が判らないと、これからの仕事に差し支えると思って。けど、彼処は広くて、まだまだ掴めない事ばかりでさ。聞き込みも其れなりにしたけど、太夫はガードが固くって。これは持久戦になるかもな」  よし。嘘は吐いていない。中身のない報告で、とても褒められたものではないが、サボりがバレるよりはマシだ。次の調査からはキチンと本腰を入れるから、今日のトコロはこれで御勘弁願えないだろうか。  支度を万端整え、家を出る。最寄り駅でいつもの電車に乗り、いつもの駅で降り、スーツや制服の人波に逆らい住宅地へ向かって歩く。いつもの日常、昨日もこうして通勤したのに、見える景色はまるで変っている。木々の緑が濃く、サラリーマン達の白いワイシャツが妙に目に付く。これも太陽が黄色い所為だろうか。  欠伸を噛み殺しつつ、近隣住民に挨拶していく。やがて一際大きな木々が現れ、煉瓦塀を回って、正面に着く。門を開け、秋めく木漏れ日の下を抜け、事務所の玄関戸も開ける。 「お千代、お早う」  声を掛ける。が、返事はない。珍しいな。昨日は忘八が帰った直後だったから仕方なかったが、今朝は正門が閉じていたから来客も未だない筈なのに……。  俺は早くも危険を察知していた。家の奥から不穏なものが漏れ出でていた。二の腕辺りの肌がザワつく。不法侵入者の様に跫音を(ひそ)め、怖々、仕事場を覗く。  と、巨大書架の手前、所長机にて、案の定、スーツ姿のお千代が、腕組み、足組み、冷徹な面持ちで座していた。  美人の無表情とは、何故こうも強圧的なのか?そうでなくとも、お千代の金色の瞳や、銀色の髪は、造り物めいた、生ける人形の様な凄味を常に漂わせているというのに。  眉一つ動かさない白皙の顔にああも真っ直ぐ待ち構えられると、神懸るというか、兎に角畏れ多いなんてものではない。しかし、どうしてバレたのか?判らないが、俺は観念し、お白州に出る心境で、すごすご所長机に向かった。 「お早う、お千代」 「お早う」  機械の様に硬質な声。これだけで既に拷問だが、お千代は其処へ一枚の用紙を畳み掛けた。「御利用明細書」と印刷された紙だ。 「君はこう思っているだろう。『何故、放蕩がバレたか?』」  机上の紙を神経質な指先で叩きつつ、お千代が語る。 「カラクリを教えてあげよう。簡単な事だ。昨日、ウッカリ話しそびれたが、君なら説明する迄もないだろうと信頼して其の儘にしたんだ。見事に裏切られたよ。君に渡したあのカード、吉原で使用するとなると、必要経費とはいえ、どうしても支払いが高額になりがちだからね、税務署対策の為に明細書を毎日発行して貰うよう、忘八と相談して決めておいたんだ」  冷や汗が止まらない。 「そういう事情で、早速、昨晩……いや、今朝だね。朝帰りだものね。数時間前の君の支払いを知るに至った、と。其れにしても、君、『切見世』に一晩とは、そんな趣味があったなんて知らなかったよ。『切見世』の名前の由来を御存知かな?時間を切って見世に出るからだ。普通は蝋燭一本分、つまり三十分の利用が基本なんだ。其れを、君、一晩とは、蝋燭何本分だい?さぞ堪能したのだろうね。酒と飯も振る舞って……別の部屋に御馳走迄している。さて、私は愉しみにしているんだよ。これだけの長時間、『切見世』に居残ったのだから、其れは其れは聞き込みが捗ったのだろう?さぁ、遠慮は要らない。君が知り得た情報を、(とく)と聞かしてくれ給え」  息が苦しい。家で考案しておいた言い訳もスッカリ吹っ飛び、頭は真っ白だった。後の祭りだ。推理小説の解決編で、探偵に一切の仕掛け(トリック)を言い当てられた犯人も、こういう心地に違いない。  無言で立ち尽くす俺に対し、お千代は海より深い溜息を吐き、 「こうなる予感はしたんだ」  と呆れ顔、煙管の準備をしながら、 「だから、あれだけ事前に注意喚起しておいたというのに、君は其れを無視して遊び明かしたんだね。よぉく判ったよ。私と君は、恋姻届を出していないから正式な恋人ではないし、そも、吉原で起きた事は浮気に当たらないのだから、私達が仮令(たとい)どんな関係であれ、私に抗議する権利はない。しかし、部下がロクに仕事もせず、廓遊びに耽って朝帰りとなれば、上司として訓戒の一つも()かねば示しが付かないからね。まったく……私は遊郭の復活については特に意見のない、無関心からくる中立だったがね、君の所為で廃娼論者に転向しそうだよ」  正直、一分の隙もない正論で詰められるより、こうして互いの関係性を人質に取られて責められる方が、(つら)い。俺はもう楽になりたい一心で、降参の意を含め、拝む様に謝り倒した。此の期に及んでは申し開きもなく、俺はひたすら誠実に昨晩の顛末を喋った。お千代は煙管に火を点けながら其れを聞いた。維織の事、毒蛾の事。財布を盗まれた段に至ると、お千代は明らかに苦い顔をしたが、吸い口に唇を付け、紫煙を吹かしてから、 「宮沢賢治好きの遊女とはね……維織といったか……『たき火様』というのは判らないが」  と呟いた後、俺を見やり、諦観らしい温かな溜息を吐いた。 「はぁ……廓帰りにしては殊勝な自白に免じて、これ以上は堪忍してあげよう。君も初めての吉原で舞い上がったのだろう?初犯は情状酌量されるものだ。これで君も吉原での振る舞いを多少は学んだであろうし……但し、執行猶予中の再犯が、どんな判決を受けるか、君も重々承知だね?」 「其れは、勿論」  胸から血が流れ出るかと思われる程、肝に銘じる。 「こっちはこんな始末で、収穫ゼロだったけど、お千代はどうだった?」  頭を上げつつ訊く。お千代は首を横に振った。 「サッパリ。伝手を頼って、大臣の行き着けの情報は得たんだが、何処を訪ねても空振り。初手で手詰まりだよ。これが別の人物を捜索するなら他に方策もあるんだが、何しろ政治的に難しい事件でね。下手を打つと藪蛇になり()ねないもんだから……」 「政治的に、ってのは、どうしてだ?」 「法務大臣は遊郭反対派の重鎮なんだよ」  其れが吉原内で消えた……これの指し示す意味については、現状、どうとも言えない。なので、こんな曖昧な返事になった。 「其れは、大変だな」 「本当に」  お千代は苦笑交じりに煙管を吸い、 「お陰様、やり(にく)いったらない。元々、売春に関する国の態度はあやふやなんだ。浅からぬ因縁というか、諸問題の根深さが事をより複雑にしているし。君も其の代表例である『かむろ』を目の当たりにしただろう?其れに、そろそろ法務大臣の不在が政権に響いてくる頃合いだ。今夜辺り、何かしらの発表があるだろうね。我々も悠長にはしていられない……」  と、細腕に巻いた時計を見下ろし、煙管の火を灰吹きに始末した。 「じゃあ、私はこれから人と会う約束があるから」 「出掛けるのか?」 「うむ。大臣秘書とのアポが取れたからね。其の後は保険局さ。近頃、大臣が頻繁に出入りしてると聞いたんだ。一日掛かりになるから、事務所の戸締りは任せたよ。其れから、君は今夜も吉原へ行くだろうが、判ってるね?」 「はい、判ってます」  俺の平身低頭に納得したかどうか、お千代は立ち上がり、淡々と玄関へ向かった。見送りに俺も後を附いて行く。 「そうそう」  と、玄関に着くなりお千代はやおら振り返って、 「心情としては、まぁ、許しているがね、組織としては君の放蕩を看過する訳にいかないんでね。社会人として罰を受けて貰うよ。今日一日、倉庫に溜まった書類を仕分けして、不要な物は捨てておく事。勿論、全部だよ。判ったね?」 「はい、判りました」  其れで済むなら願ったり叶ったりだ。お千代は外に出、秋晴れの下、愛車(テントウムシに似た赤いアンティークカー)を運転していく。其のサマを、俺は神々しいものを見るように眺めた。
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