形而上的恋愛

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 事務所の二階には物置と化した部屋がある。元々、二階はお千代の居住スペースなのだが、使っていない部屋に荷物を押し込んだ結果、其処には段ボール箱が山積している。其れらの箱には、契約書やら報告書、請求書、チラシ等々が満載されていた。  日頃立ち入らない埃っぽい部屋から、一箱ずつ抱え、階段を下り、仕事場の片隅に据えた業務用裁断機(シュレッダー)の手前に置く。そして中身の書類に一々目を通していく。紙面の右上に付された日付が比較的新しい物は依然保管し、五年以上前の物は破棄する。これがウチの事務所の方針であり、契約書にも明記されている。  そういった古い紙を、俺はシュレッダーへ放り込んでいった。黒く大きな機械の、ギザギザの刃が、ムシャムシャと紙を噛む派手な音を立て、個人情報を細切れにしていく。一箱目は半分程が機械の餌食になった。重さも半分になった箱を二階へ戻し、別の箱を抱えて階段を下り、シュレッダーに古い紙を食べさせる。シュレッダーの屑入れが満杯になったら、細かくなった紙片をゴミ袋に注ぐ。此の作業の繰り返しだ。紙というのは積み上がると重たいもので、其れを抱えて何往復もしていると、段々しんどくなってくる。当然、これは罰なのだから、相応の重労働に違いない。  七箱目の蓋を開けた時、俺は肩で息をするようになっていた。が、中身の書類に懐かしい事件名を発見し、咄嗟に手に取っていた。日付は丁度五年前。当時、相当に世間を騒がせた事件の報告書だ。俺が此処に入所したての頃、初めて経験した殺人事件だった。警察も持て余す難事件、巡り巡ってお千代の許に依頼として舞い込み、見事、解決へと導き、これを機に、お千代は一躍其の名を馳せた。  ……そう言えば……。  此の事件を解決し、犯人が逮捕された翌日、事務所の仕事場、即ち此処で、お千代にこんな提案をされた。 「君、一つ質問なんだがね、私が『私と君の名前を書いて、恋姻届を役所に出そう』と言ったら、何と応える?」  此の質問を聞いた時、俺は一瞬固まった。言葉が耳の奥で無意味に反響した。そして、やっとお千代の意味するところを理解すると、苦笑を浮かべ、こう返したのだ。 「そうですね……又法廷で会いましょう、と応えますかね」  今度はお千代が一瞬固まり、そして苦笑を浮かべて、「そうか」と一言告げるのだった。  あの時の判断は間違っていなかった。俺はそんな男なのだ。いつ浮気をするか自分でも判らない前科持ち。結局、吉原でも遊びに溺れ、こうして罰を受ける身分なのだから。  さて、俺の返答を聞いたあの時、お千代は背を向けて、所長机に戻る途中、振り向かずに、確かこう言ったのだった。 「あぁ、そうだ。君、これからは私の事を『所長』ではなく、『お千代』と呼び給え。あと、敬語は禁止だ」  昼休憩を挟み、書類の破棄を続ける。もう何箱目かも覚えていない。そろそろ退屈になり始めてきた。午後の日差しが降り掛かり、室内は森閑として、眠気に襲われる。一応、日付は確かめているものの、書類をシュレッダーへ投げ込む作業は、手が殆ど自動でこなしていた。  確認し終えた段ボール箱を二階へ戻し、新しい箱を一階へ下ろし、蓋を開ける。と、一番上に広告がお目見えした。パイ生地の様に薄く重なる紙をパラパラと捲ってみても、チラシばかりが収まっている。  俺は書類の確認にスッカリ疲れていたので、砂漠でオアシスに出くわした様に喜んだ。これらはチェックもせず、何も考えずに、全て裁断してしまえばいい。  頭を空っぽに、手癖に従って、チラシの類を機械に次々放り込んでいく。俺は暫くぼんやりとしていたが、やがて退屈紛れに端末を呼び出した。とある言葉を検索しようと思い付いたのである。  かむろ。  毒蛾やお千代が口にした此の単語について調べるなら、今の内ではないだろうか。仕事にならなかった昨夜の二の舞を避ける為にも、吉原を再訪する前に、せめて「素人」と罵られない程度の知識を得なえれば。  検索結果は直ぐ眼前に投射された。四角い画像の一番上に躍る仰々しい見出し。副題に「遊郭」とあるから、きっと此の記事に詳しく載っているだろう。俺は其の見出しを選んだ。画像が一転して新たに映し出された細かな文字列を目で追っていく。  国家が見捨てた子供たち   <遊郭に留置された「禿(かむろ)」という課題>  風営法の改定から二十年以上、売春の斡旋を生業にする現代の遊郭には、国内だけでなく、国際社会からも女性の人権を踏み躙っているとして批判の声が絶えないが、さらに「禿(かむろ)」と呼ばれる子供たちの存在がこの問題をより深刻にしている。 「禿」とは、遊郭に住み込みで働く少女たちを指す言葉だ。江戸時代、幼くして親に売られたか、遊女の産んだ娘がこれに当たり、遊女たちの身の回りの世話をしながら、芸事や作法、接客などを学ぶ、遊女見習いであったが、この「禿」が現代にも生き残っているというのだ。  全国遊郭協同組合は「子供の人身売買をしているというのは事実無根である。また、従業員には徹底した避妊を実施している」と声明を発表しているが、その裏では遊女たちが「本命」と呼ばれる客を相手に意図的に妊娠、出産する事例が報告されている。そういった子供たちは「禿」と呼称され、現に働かされているが、遊郭側は一貫して公式には存在しないという立場でいる為、結果「禿」は無国籍児となり、正当な医療・教育・福祉のサービスが受けられず、移動の自由も制限され、結局遊郭内に留まる事を()いられているという。  野党からは「これは明らかな人権侵害であり、政府は速やかに対策を講じるべき」と主張しているが、実態の把握が難航しているとし、議論の進行も遅れている。国会では……。  記事は更に続いている。が、俺は画面を消してしまった。寝不足の頭ではとても正視出来ない内容であったし、其れに余所見をしていた所為でシュレッダーの刃に書類が詰まり、機械がピーピーと鳴り始めたからである。  夕方、俺は事務所を出、吉原へ向かった。  二度目ともなれば緊張も薄まり、足取り軽く、憶えたての道順をなぞる。地下鉄の駅を降り、高い塔を正面に臨む。土産物屋が軒を連ねる通りを、男達の群れに混じって進む。アルミ庇の奥にある、薄型テレビが速報を流している。「法務大臣、体調不良の為、長期療養」。これが嘘であると、人混みの中、俺だけが知っている。  大門を抜ける。と、町屋通りは、朝方とは打って変わって、活気に溢れていた。色町は矢張り夜が本番である。俺も、今夜こそ、成果を上げねばならない。  談笑や商人の掛け声に賑わう店先を、脇目も振らず歩いて行く。塔の麓、襖を模した自動ドアを潜れば、エレベーターホールに着く。昨夜は此処から失敗した。今日は恥を忍んで「局」に上がる方法を誰かに訊く積もりだった。が、そうするより先に、 「もし、もし」  と、俺の方が声を掛けられた。慌てて振り返れば、着物姿の四十絡みの女が儀礼的な笑みを浮かべていた。 「お会い出来てよう御座いました、お客様」  女はやおら頭を下げて、 「御挨拶が遅れまして。私は吉原にて遣り手を致しております。お客様の御案内に参りました。さ、さ、此方へ」  と、俺を何処かへ連れていこうとする。エレベーターを待つ列に並ぶ男達に注目される中、言われるが儘、俺は女の案内に従って、ホール右手の蔵戸へ向かった。 「これを。鍵になっておりますので、決して紛失されませぬよう」  そう言うと、遣り手は着物の袖から一枚のカードを取り出した。銀色の地に、金色の車輪らしきもの……光背だろうか……が描かれている。俺が其れを受け取ると、遣り手は仮面の様な作り笑いを浮かべ、 「此のパネルにかざして頂ければ」  と、黒光りする漆塗りの、蒔絵で花鳥図の描かれた立派な蔵戸、其の取っ手を示すのだった。俺は言われた通りにした。果たして、戸は外観の重厚さに反し、音もなく横に滑り、ポッカリと口を開けた。そして、開いた先に別のエレベーターホールが現れた。  床にはペルシャ絨毯(じゅうたん)が敷かれ、格子天井には金箔が貼られた、絢爛たる小部屋。奥にはエレベーターが一基と、壁に嵌め込まれたボタン、其の手前には小さな机と古瀬戸の花瓶が置かれ、白粉花が活けられていた。  ……清廉な白い花が……。  其れら豪勢な調度品に取り囲まれた中に二人の人物が佇み、俺達を出迎えた。 「今晩は、旦那様」  相変わらず抑揚のない調子で維織が挨拶する。地下から上がってきたのか。しかし、これも相変わらず、湿っぽい薄暗さが彼女の痩身から湧き出ている様で、浴衣の鬼灯と簪の紅玉ばかりが異様に鮮やかである。 「初めまして、お客様」  あべこべに、維織の傍にいる毒蛾は、今朝とはまるで別人の様な澄まし顔、平気で嘘を吐いている。演技派というか、実に不貞不貞しいガキだ。「禿」に関する記事を読んだばかりで、此処に来る前は多少可哀想に思っていたが、安い同情心は既に霧散しかけていた。 「手前共、どうやら手違いを致しまして」  と、其処で俄かに遣り手が声音を改め、 「申し訳御座いませんでした。お客様は『局』に御用向きがあったと、此処な毒蛾から聞いて御座います。此の子は毒蛾と申しまして、維織の禿で御座いまして」  其れは知っている。が、「局」に上がりたがっていると、まさか毒蛾が教えてくれていたとは。俺は感謝から、再び此の禿を同情する気持ちになっていた。 「其れにも関わらず、昨晩はあんなにもお遊び頂きまして、大変有り難う存じます」  俺と毒蛾の因縁を知らない遣り手が説明を続ける。 「其の御恩にせめてものお返しをすべく、『局』でも()り抜きの遊女にお引き合わせを、と、手前の勝手では御座いますが、こうして別室にお連れ致した次第でして。これからは、どうぞ、此のエレベーターをお使い下さい。其れから、此方の維織たっての申し出で、上へ行かれるなら、是非、お見送りを致したいとの事で」 「はい」  維織が頷く。美しい無表情は崩さず、口だけを動かし、 「旦那様」  と俺を呼ぶ。 「旦那様、其の節は誠に有難う御座いました。上の階でもお愉しみ頂ければ幸いです……然様なら」  維織が頭を下げる。これだけの事で、俺は酷く後ろ髪を引かれた。自分が惨い事をしている様な錯覚に陥る。これが此の女の性質(たち)なのだと、俺は未だ理解していなかった。血の通いを感じない白い顔、黒い髪、細い撫で肩、死人めいた姿。維織は永遠の被害者なのだ。 「参りましょう」  遣り手の声と共に、ポーンと、部屋に響く軽やかな音。エレベーターの到着を報せる音だ。俺は我に返り、遣り手に続いて箱に乗った。危なかった。俺は寸でのトコロで不幸の影から脱したのだった。  やがてドアが閉まり始める。維織は依然頭を下げている。毒蛾も笑顔で無邪気に手を振っていた。が、ドアが閉まり切る直前、あのガキ、赤い舌を出しやがった。  ドアが閉じ、エレベーターが動き出す。四方を黒漆で囲み、鏡の様に磨き込んだ其の中で、遣り手が振り返り、 「ではお客様」  と、俺を見て微笑んだ。遣り手の着物には、水仙が一輪、咲いていた。 「次は吉原遊郭の二階、『局』のフロアとなります」
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