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「ユイ様、申し訳ございません。本当に申し訳ございませんでした」
「いえ、あの、…大丈夫です」
頭からシャンパンまみれになったユイを気遣い、京月院スミカは早々に外交官邸を辞した。スミカはユイをせっせと拭き清め、上着を着せかけ、土下座する勢いで謝ってくれる。だが、ユイは羽菱アキコの剣幕に驚いたものの、シャンパンを被ったことはまったく気にしていなかった。
むしろ、アルコールの匂いが感覚を麻痺させてくれたらいいのに、とさえ思っていた。
ユイが人狼の森から出て帝都で暮らしても、ロウは全く気にならないのだという現実を、忘れることが出来るように、…
なんて。
少しくらいのアルコールで忘れられるはずもないのだが。
「どうかお許しください。羽菱家とは仕事上の利害が一致して、婚姻関係を築くのもまた良い方法かもしれないと思っただけなのです。しかし、ユイ様にお会いして、その話は一切白紙に戻りました。父も母も、羽菱のご主人も、承知の上です。私にはユイ様だけです。ユイ様でなければダメなのです」
必死で謝罪し、ひしっとユイの手を取って懇願するスミカに、ユイの胸は痛んだ。
スミカの気持ちは有難い。でも、知らなかったとはいえ、決まっていた婚約を引き裂いたのは心苦しい。
京月院邸を出て行くべきだろうと思う。
羽菱アキコの視線が甦る。アキコは心からスミカを慕っていると言っていた。思いが届かない辛さはユイにもよく分かる。自分は京月院邸にいるべきではない。
しかし、世話になるだけなって、黙っていなくなるのも心が痛む。スミカは何の事情も聞かず、ユイを匿ってくれたのだ。あまりにも恩知らずというものではないか。
などとユイが悩んでいる間に、
「ユイ様、急なことではございますが、祝言をあげましょう。私とユイ様は既に夫婦であると広く知らしめすのです。羽菱に何が出来るとも思えませんが、正式に婚姻を結んでしまえばもはや手出しできぬでしょう」
スミカが祝言を提案してきた。
「え、それは、…」
さすがに急では、と戸惑うユイを遮って、スミカは強引に話を進める。
「既に準備は出来ています。明日、関係者を招いてありますから、ユイ様は私の隣に座っていて下されば良いのです」
明日!?
急展開すぎる。
「もちろん、外面上の話です。私はユイ様をお慕いしていますが、ユイ様のお気持ちが整うまでは決して手出ししないと誓います。ですからどうか、…」
ユイの前に両ひざをそろえて、京月院スミカが頭を下げた。
「私と結婚してください」
羽菱アキコの件はあれ、京月院スミカはずっと誠実だった。事情も説明できないユイをそのまま受け入れてくれ、心地よく住まわせてくれ、何の無理強いもしない。スミカに会えたユイは本当に幸運だったのだ。
「でも私、…」
だったら、自分も誠意を見せるべきだろう。
自分は人狼の娘で実の兄に恋をしていて、そばにいるのがつらくなって逃げてきた、とちゃんと伝えるべきだろう。
「…お慕いしている方がいるのですね」
視線を揺らしたユイを制して、スミカが先回りした。
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