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「こちらは運転手の北山です。どうぞお乗りください」
スミカは何とも言えない焦燥感に駆られて、やや力を込めて娘の手を握った。乗車を促すと、娘はその愁いを帯びた琥珀色の瞳を瞬かせ、小さく頷いた。
このような場所で、無事で良かった。
彼女を見つけたのが、私で良かった。
娘の手を引いて、ピカピカに磨き上げられた北山自慢の黒塗り高級車に乗せる。娘は乗り掛かる前に一度遠くの方を仰ぎ見て、何かを振り切るように悲し気に目を伏せた。
娘の反対側から車に乗り込みながら、スミカも満月夜を仰いでみたが、おどろおどろしくたなびく灰色の雲と不気味に光る金色の月以外、何も見えなかった。
「お名前を伺っても?」
寒さと恐怖で口がきけないかもしれないと懸念して、スミカは娘の手を握ったまま、車内の温度になじんできた頃に意識的に優しく尋ねた。
「…ユイ」
ひどく麗しい声音に、スミカの心臓が大きく跳ね上がる。繋いでいる手までが心臓になったかのように感じられて、息が苦しい。同時に、白く滑らかで柔らかい手の感触が胸に迫り、頭の芯まで夢見心地になる。
「…ユイ、様。良い名ですね」
端正な容姿と由緒ある家柄で、言い寄る女子は数知れず。女泣かせの浮き名を流してきたスミカだが、ユイの前ではのぼせた青二才そのもので、気の利いた言葉の一つも出ない。
「どちらへ、…」
無駄に空咳をしてスミカは続けた。
「…参りましょうか」
願わくは、このままどこにも送りたくないのだが。十分に温まった手を離したくはないのだが。このような夜も遅い時間に可憐なご令嬢を連れ回すべきではないだろう。彼女の住まいさえ分かれば、食事なり観劇なり、誘うチャンスはいくらでもある。
「…どこにも帰れません」
下心を押し隠して紳士の仮面をかぶったスミカだが、ユイの一言で自制心が吹き飛び、舞い上がってユイの両手を握りしめた。
「それでは私の家に、…っ、私の家にお越しくださいっ」
勢い込んで言い募ると、ユイがビクッと身を竦ませたので、スミカは自分を殴りたくなった。
怖がらせてどうする。
ユイの手を緩やかに握り直し、スミカは改めてユイに乞う。
「何かお帰りになれないご事情があるのですね。話したくなければ、無理に聞こうとは思いません。ただ、私はあなたのお力になりたい。幸い家柄と金だけはあるのです。決して不自由はさせません。あなたの意に反することもしないと誓います。ですからどうか、私と一緒にお越しください。私は、…私は純粋に、あなたに焦がれているのです」
こんな風に、会って間もない女性に思いを打ち明けたことなどなかった。打ち明けたくなるような恋心を抱いたこともなかった。何事も器用にこなすスミカは、本気になることを馬鹿げたことだと思っていた。
こんなにも胸を熱くさせる思いがあるなど知らなかった。
全てを投げうっても構わない。
そんな風に思える相手に出会えたことを、神に感謝した。
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