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両想い
「ねぇ兄様、幸せって何だろう? 人はより高い地位を、裕福な暮らしを求めるものだけど、必ずしもその立場が幸せとは限らない、むしろ地位も財もない民の方が幸せなのかもって」
ユウナギは旅に出て、人と出会って、思うことがあった。
再び彼に背を向け、まるで夕陽と語り合うように話し出す。
「私も、今は贅沢な暮らしをさせてもらっているけれど、もし以前のまま……平凡な邑の娘であったなら、それはそれで満たされた暮らしだったでしょう……。今頃はもう、母になっていたかもしれない」
彼は一言も口にすることなく、彼女の言葉に耳を傾けている。
「だって私は、大家族の中で、毎日畑と家のことをして、いつか同じ集落の男性に見染められて、子を生み育てながらやっぱり家のことをして、それを死ぬまで繰り返す……そんな一生に憧れる」
彼の顔を見ては言えなかったのだろう。言い終えたユウナギはやっと対面する。すると夕陽を背にした、影のような彼女の、涙だけがトバリには輝いて見えた。
彼はそこで、普段は胸にしまっている思いを吐き出す。
「世が発展すればするほど人は幸せになる、というのが、まやかしだと思う時もあります。国が成り立ち身分制の確立する以前の方が、人々の心は豊かであったのかもしれない。だとしたら、私の日々の仕事は無駄でしかない」
ユウナギは切ない顔をした彼の隣に座り込む。
「……兄様の幸せは?」
「それはまさに、身分など意味を成さないものですよ」
彼は、遥か遠くを見つめる。ユウナギにはその横顔が、すごく嬉しそうに見えた。
「神が造られた美しいこの世の風景、大地、空、水、太陽、月。星々、虹、木々、草花……美しいもので溢れている、この世は。それをただ眺めている瞬間が幸せです、それらに包まれ死んでいいと思うほどに」
「死んでも? ……すぐでも? たとえば……1年後でも?」
少し眉根を寄せてそう聞く彼女に、彼はまた微笑んだ。
「でもそれよりもっと幸せなことがあったんですよ」
「?」
「そんな景色を眺める時に、あなたが隣にいるということ。この果てしない世に居て孤独ではないのだと感じるこの時が、明日死んでもいいと思えるほど幸せだ」
「兄様……」
暖かな情感が全身をかけ巡り、とめどなく涙があふれ出た。ユウナギも、彼と共にいるこの幸せを噛みしめた後で、明日、死んでもいいと思った。
だから、やっぱり言わない。
視てしまった現実は、自分の胸だけに留めておこう。たとえ道半ばで最後の時が来ても、その瞬間まで、今のこの気持ちを大事に抱いていたいから、そして抱いていて欲しいから。
長くなくても構わない。最後まで当たり前の、何も変わらない日々を、この人の隣で生きる。
ふたりは寄り添い、ただ静かに陽が沈むのを眺めていた。
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