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由美子さんに会えることになった。それでも、何を話したら良いのかは、分からなかった。宮倉の通夜を、ついさっきまで独り執り行っていた僕が、彼の事を乗り越える事が出来たのかすら分からない僕が、何を話せば良い。そうやって幾ら頭の中で悩みを大きくしても、僕の乗る車は、由美子さんの家まで、刻々と近づいている。アクセルを踏む足は重いんだ。僕は口をすぼめ息を吐いた。今までよりも、ハンドルを握る指の感覚が冴えてきた。人差し指でハンドルを叩いた。偶に少し長めの爪に目をやった。レンガ造りのアパート。ニューヨークにありながら、いかにもボストンらしい立ち振る舞いだ。そうさ、アパートが見えてきたんだ。ジョン・ペトルーシの奏でるギターが、僕の意識のゆらつきを明確に示してくれた。僕はラジオを止め、アパートの前に車を停めた。停めたときは良かった。勇気に満ち溢れていた。無意識の勇気にね。もう、駄目だ。指はハンドルに絡まっている。僕は目を閉じ、下唇をくわえた。そして、顔の表情を元に戻し、エンジンをきった。
インターフォンを押した。何の躊躇いも無かった。後を走る車の音がして、振り向いた。僕という存在をありったけ、ぶつけた。やり場のない感情を、視線を泳がすという方法で、ぶつけた。足音がして、前を向いた。扉が開き、由美子さんと対面した。顔をあわせたのは、6年振りであった。どうも、とお互い挨拶した。中へ入ってと、彼女は言った。既に僕はあるモードになっていた。それは到底、言葉では表せないものだ。敢えて言うなれば、いや、やめておこう。
「コーヒーを淹れましょうか。」
「ええ。」
おじさん、パパのお友達?と宮倉のちょうど4才になる男の子が、僕にそう訊ねてきた。ああ、そうだよ。と僕は返した。
「タクヤ、ちょっと向こうの部屋で遊んでいてくれない?」
由美子さんは、そう言い男の子をリビングへと連れて行った。
「すいませんね。」
「いえいえ、活発な年頃ですからね。」
「会うのは、何年ぶりでしょうか?5、6年振りなのでしょう。」
「ええ。」
「主人の執筆途中の作品は…。」
「その事ですが、僕自身でも、あまり筆が進まない時期が暫く続きました。今は、書く決心がついております。」
「そうなのですね…。あの時、突然頼み込んでしまって、本当に申し訳ありません。」
「いえいえ…。宮倉はよく、僕にこう言っていました。そこに表現がある。後はだから何だってものさってね。その表現に宮倉があって、僕がある。整頓させる必要はない。ある。それで良い、と。その事を、さっき宮倉の墓参りをしたときに思いだしたんです。」
「私も主人のスピーチをビデオで観ました。何度か…。主人はきっと夢を語ったのでしょう。私にはそう見えました。」
「僕も、近くで聞いていて、そう思ったんです。」
由美子さんとの会話は、辛くも成立していた。凡て、胸のうちをさらけ出すことは、しないでおく。そうでないと、とても、正気ではいられなくなりそうだ。今の由美子さんと僕からは、そんな予感がしていた。
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