第一部MEMORYS・第一章

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 午後8時を過ぎ、サイン会が始まった。椅子は置いていない、僕は床に座った。座ってコーヒーを飲んだ。600mlのやつだ。皆、床に座って本を読むかスマホに目をやっている。僕は少し後へ傾いた。すると何かに触れた。僕が後を振り向くと、女性がいた。僕の背中は、その女性の背中に触れたのだった。 「どうも、すいません」とだけ僕は言った。 「いえいえ、こちらこそ」と、その女性も応えた。彼女は、何かを書いていた。メモ帳に丁寧に、又、押し付ける程の力を一文字・一文字に込めて書いている。初めは質疑応答の際の井坂さんへの質問かと思った。しかし、それにしては少々長い。細々と書かれた文字は読み辛く、何のことやらだが、Get Backという文字だけが読み取れた。それが、その時彼女のメモ帳にあった唯一の英語であり、読み取れるものだった。彼女の横にはベースが置かれていた。彼女はメモ帳を右手で鎖していた。指が退かされ、Get Backに続く文章が見えた。 Get back, get back Get back to where you once belonged それはビートルズのGet Backにある歌詞の断片だった。彼女は時折、頬杖をつき、その手で時々、膝にリズムを打った。ぎこちない指の動き。あんな指の動きでベースが弾けるのかと、僕は疑問に思った。僕の同級生に川端浩紀という男がいる。そいつも、あまた楽器を操るが、それを長らく見てきた僕が言うのである。だから何だ、素人の眼など当てにならない。まさにその通りだろう。しかし、彼女の場合は、楽器に拒まれているかのようだ。楽器との対峙。しかし、その対峙は互いの不理解の為だったのかも知れない。対峙というものは、殆ど幻想に過ぎない。空を飛び、地面の物理的感触も感じていれば、対峙など幻想だと言うことは、容易に分かる。彼女が、そうかは分からない。若しかしたら、裡の音を出す術が無いという呪縛の下、言葉によって紡ぎ出す才に志向しているのかも知れない。彼女の裡は、若しかしたら音楽家よりも豊潤な旋律で満たされているのかも知れない。僕は半ば無責任な憶測に身を投じていた。彼女の瞳はただメモ帳の一カ所を見続ける。そうして、時折首を右へ少し傾けては、優しく否応なく瞬きを繰り返していた。 コーヒーを飲みながら視線を泳がせ、ときどき僕は彼女に目をやっていた。 この本は僕の主著である…。そう井坂さんがインタビューに応えているのが聞こえてきた。井坂さんにサインを貰いに行かなくては…。僕は立ち上がり、軽薄な立ち眩みの中で辺りを見回し、列に並んだ。列と言っても、10人くらいである。 なぜ僕が彼のサイン会に来たのかと言えば、彼はこのEpiphanyを以て文章を書くことから離れると言うのである。しばらくは、書かない。そう言っていた。それならと思い、やって来たのだ。このEpiphanyは、あの頃の僕にとってのお守り本だった。 いつも、制服のポケットに入れていた。 御陰でボロボロになってしまった。幸い中とサイトの部分は、綺麗なままだった。
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