第一部MEMORYS・第一章

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僕は目を覚ました。彼女も目が覚めたようだ。耳には、初期ステレオの響きに似た拍手の音が押し寄せている。僕は吐息に劣りそうな声量で「さあ」と言って、ボールペンを持つ手に力を入れた。ただ、何の迷いもなくノートの上を舞うボールペンを見ていると、少しの罪悪が僕を襲った。風に敏感になった利き手が、此方を見詰めている。僕はふっと思った。僕は自身を見ることが今までにあったのかと。目線は指の隙間を通り、折り返す。微かでありながら力強い潮騒を伴って僕の裡へと向かう。判然としているという事も無く、風が小道を吹き抜ける様に、今現在の僕へと抜けた。道や葉に棲んでいた砂埃や何処から来たのかも計り知れない証。僕は其れ等を纏い小道を抜けた先にある大通りの手前に立ち竦んでいるようだった。そのことを詩にしようと思い再びペンを持った。僕の独り言も井坂さん程ではないが、大きかったようだ。彼女はいつの間にか、何処かに行っていたようで、戻ってきた次いでか、僕に話し掛けてきた。「詩を作っているのですか?」 「ああ、ええ」  あの様な場で、詩を書こうとする人間は、少なくないのが常である。着想を紙に落とさぬとも、詩的な言葉を感受の縮小写像として想起し、己は只浸っている。僕にわざわざそのことを訊ねなくても、無意識の盗作をすれば済む事である。しかし、とやかくとやかく叫き散らす世界では、それは完全なる悪なのだと煙たがられる。まあ無理もない。僕は恥ずかしい思いがした。何に対してか、先ずは只、恥ずかしいとだけ思っていた。よくよく思い返せば、僕の裡に犇めくあの様な理屈が、もはや病的なのかも知れなかった。
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