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5
ある日、泊まりの準備をしなさいと言われて、颯太郎は母に言われるがまま、着替えと日用品をボストンバッグに詰め込んだ。そして、ついてきなさいとだけ言われて、電車に乗る。九歳の頃だった。
当時というか、物心ついた時から父と母は仲が悪く、顔を合わせれば喧嘩ばかりしていた。喧嘩の内容までは分からなかったけれど、何となく父が悪いのかな、と思っていた。
そんな時に泊まりで外出だと言われ、これで両親の喧嘩を見ずに済む、とホッとした記憶がある。母が落ち着けるのなら、どこだっていいと思っていた。
「源一さん、来たわよー」
着いた場所はとある一軒家。母、沙奈恵は辺りの様子を伺う颯太郎をよそに、まるで自分の家のように入っていく。
奥から「ああ」と男性の声が聞こえた。そして廊下に、母よりもずっと年上の、厳しそうな目付きをした男性と、その男性の腕に絡みついている母が出てきて、颯太郎の前に来る。
「颯太郎、ぼうっとしてないで挨拶しなさい」
沙奈恵の冷たい声にハッとして、颯太郎は自己紹介をする。状況が飲み込めないまま立ち尽くしていると、二人は奥へと引っ込んでいった。
そしてしばらくして、「何してるの、早く来なさい」と沙奈恵の声がする。
颯太郎は躊躇った。ここは嫌な色が多すぎる、と。
母は、父と本格的に仲が悪くなり始めた頃から、父との間に産まれた颯太郎の事を、厄介者扱いしていた。だから沙奈恵が颯太郎を見る時はいつも、黒い色が混ざっている。そして今源一と呼ばれた男性も、無関心を装ってはいたが、黒色が混ざっていて、良くは思っていない色だった。
颯太郎は靴を脱いで二人が入っていった部屋へ向かうと、そこには更に青年が一人、ソファーに座っていた。
その青年は男の人なのに綺麗な人だな、と思った。源一を若くしたらこんな感じなのだろうか。しかしその青年が颯太郎を見た瞬間、目が痛くなるほどのピンク色と黒い色が涌いてきたので、思わず後ずさりする。笑っているのに攻撃性を感じ、颯太郎は今すぐここを出たくなった。
「あの、お母さん……ここは?」
「今日からここに住むのよ」
「……え?」
颯太郎は愕然とした。こんな嫌な感情に囲まれて、生活しなくてはいけないのか、と。
「……嫌だ……俺帰りたい」
「帰りたいって……あの家はもうすぐ新しい家族が住むの。颯太郎がいたら、邪魔でしょ?」
「でも……ここは嫌だ。黒い色がいっぱいある……っ」
颯太郎が思わずそう言ったとき、頬に鋭い熱が走った。じんじんと痛む頬を押さえると、沙奈恵は声を上げる。
「その話は止めてって言ったでしょ!」
ごめんなさいは!? と言われ、颯太郎は涙を浮かべて言う通りにした。すると沙奈恵は誤魔化すように笑顔を浮かべ、この子、ちょっと頭がおかしいのよ、と源一の隣に擦り寄るように座った。
「正臣、部屋に案内してやれ」
正臣と呼ばれた青年は、はいはい、と返事をすると立ち上がり、こっちだよ、と背中を押される。強いピンク色と黒が近付いてきて、思わずその手を払ってしまった。
「そんなに怯えなくていいから、ね?」
そう言われて、颯太郎は言いようのない恐怖を感じる。笑いながら黒い感情を纏う人は、ろくな人ではない、と思った。
案内された部屋は、六畳ほどの洋室だった。がらんとしたその部屋は何も置いておらず、布団すら無い。今はこれから寒くなる時期だ、母に言って買ってもらわないと、と思う。
「布団が無いなら、今夜は一緒に寝る?」
部屋を見て呆然としていた颯太郎は、正臣に耳元で囁かれ、驚いて数歩後ずさりした。けれど正臣は気にした様子はなく、まだニコニコしている。
「今日から兄弟なんだし、別に変な事じゃないだろ?」
「え……?」
颯太郎の反応に、正臣は何だ、聞かされてないのか、と意外そうな顔をした。
「俺の親父と颯太郎のお母さん、結婚したんだから俺たちは兄弟、だろ?」
颯太郎は黙って首を振った。
この人が?
この、綺麗なのに強烈なピンク色と黒を常に纏わせた人が、兄?
恐怖と嫌悪感で震える呼吸を、颯太郎はゆっくり整える。
どういう事なのか、母に聞かなければ、と思った。
◇◇
それからの颯太郎の生活はがらりと変わった。
前の家でも居心地の悪さはあったけれど、今の家ほどではなかった。父親になったという源一は颯太郎に無関心で、そんな彼に沙奈恵はついていく。そして正臣はことあるごとに颯太郎の身体に触れようとし、颯太郎はそれを回避してきた。しかし所詮同じ家に住む家族、偶然を装って風呂場やトイレで遭遇すれば……それも何回も重なれば嫌になる。
「お母さん、正臣兄さん……何か嫌だ……」
ある日、義父と義兄がいない間を見計らって、颯太郎は沙奈恵に相談した。風呂やトイレで頻繁に遭遇したり、やたら身体に触れようとしてくる事を話す。
「ねぇ俺……この家嫌だよ……」
颯太郎は涙を流して訴えた。外での茅場家の評判は何故か良い。それも颯太郎が嫌悪感を抱く原因の一つになっている。何故なら周りに訴えても、誰も聞いてくれないからだ。
沙奈恵は一つため息をつくと、冷たい視線で颯太郎を見る。
「じゃあ、あなたが出ていきなさい。私はあなたのせいで、この生活を狂わされるのは嫌よ」
「……っ、だって正臣兄さん、いつもお風呂を覗いてくるんだ……トイレだって無理やりドアを開けようとしてくるし、それにこの間だって……!」
「颯太郎」
颯太郎は義兄にされた事をもう一度まくし立てようとしたけれど、沙奈恵の一言で遮られる。
「……何言ってるの? あなた男の子でしょう? 女の子ならまだしも……」
そこまで言って沙奈恵は、何かに気付いた様子を見せた。そして大人しくなり、源一さんに伝えておくわ、と言って話を終わらせる。
颯太郎はその時、沙奈恵は本当に源一に話をしてくれるものだと思った。そしてそれはちゃんと実現させてくれた。これで安心できる、と思ったのだ。
けれど結果は、颯太郎にとって最悪の状況になる。
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