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私がひとりでこのアパートの二階に越してきたのは、先週のことだ。
道路を挟んだ向かい側には花屋がある。
ベランダで洗濯物を干していると、たまに、花の香りがやってくる。
私の部屋には緑がない。私は、何かを育てることができない。
それは子どもでも犬でも猫でも植物でもきっと同じで、だからそういう生物の類は一切置かないことにしている。
それなのに。
買い物帰り、アパートの前。
向かいの花屋の端に見えた白い鉢植えに、私の目はくぎ付けになってしまった。赤い花が一輪咲いている。葉はなく、ちょうど握りこぶしくらいの大きさ。
あの花が私の部屋のベランダにあったら、どんなに素敵だろう。
そうして眺めていて気が付いた。あの花には札がない。他の花には値札と、名前の札がついているように見えるけれど……。
あの花は、売り物ではないのだろうか。
そのとき。
『私……気付いて……』
どこからか、幼い子どもの声がした。
『私だよ。ここにいるよ』
また同じ声がする。あたりを見渡しても、幼い子どもはどこにも見えない。
『お花になっちゃったけど、私だよ。お母さん』
お母さん。はっとしてあの花に目を戻す。あの花が、私を呼んでいる?私はとうとう道路を渡って、花の前へとやってきた。不思議だ。花が、喜んでいるのがわかる。
『待ってたよ』
私を、待っていてくれたの。あなたは奈月なの……。買い物袋を提げた右手に力が入る。
気が付くと、傍らに花屋の店主らしき男性が立っていた。七十代くらいだろうか。ニット帽から覗くシルバーヘア。丸眼鏡の中の小粒な目は、人がよさそうに垂れ下がっている。
「その花、気になりますか」
声を掛けられた。正直に言おうかどうか悩んでいると、
「その花、あなたを待っていたみたいだねぇ。呼ぶ声が聞こえたでしょう」
そう言われ、私は目を見開いた。動揺を隠せない。店主は終始にこやかな顔と声で続ける。
「この花が欲しいなら、条件がある――。記憶をもらいます。あなたの、大切な記憶を」
「大切な記憶って?」
「奈月ちゃんとの記憶。それが条件です」
奈月との記憶を渡すなんて。そのうえ、渡すと記憶は失われ、二度と戻らないのだそうだ。
「それは……できません」
「できない?それが、この花の望みなんだけどなぁ」
奈月の?続けて花から声がする。
『お母さんが悲しいのは、悲しい。記憶を、おじさんにあげて。お花でもいいから、お母さんと一緒にいたい……』
花の声はどんどん小さくなり、最後はほとんど聞こえなかった。少し萎れた?どうやら元気をなくしているようだ。店主が言う。
「ご覧のとおり、ここに置いていてももうもたない。あなたが育てるのなら、花は元気を取り戻すだろう。どうするんだい」
「あの、この花は奈月ですよね。この花はどこから?どうしてこんなことが……」
私の問いに、店主は困ったように笑うだけだった。こうしている間にも、花はみるみる下を向きうなだれていく。迷っているひまはない。
「――わかりました。その花をいただきます。記憶を、お渡しします……」
私は、奈月との記憶を思い起こしていた。
元夫と結婚してすぐに奈月が産まれた。慣れない育児に奮闘する日々。大変なことも多かったが、振り返ればあの時が私の幸せのピークだったように思える。
あれは、五歳になったばかりの奈月と、公園で遊んだ帰り道だった。
「あ、ボール落としちゃった」
奈月は私の右手をパッと離して、ボールを追って道路に飛び出した。危ない、と言う間もなくそこに車が走ってきて、奈月は……。
何度、何度後悔したことだろう。
私がもっと強く手を握っていたら――。
「はい、おまちどうさま」
店主から赤い花を渡されてはっとした。お代は、と尋ねる私に店主は、もういただきましたよ、と笑った。なんだ、払っていたのか。
私は満ち足りた気持ちで花を持ち帰った。こんなに喜ばしいのはいつぶりだろう。もう思い出せないくらい、昔な気がする。
早速私は花をベランダに置いた。うん。やっぱり素敵だ。水をやりながらふと考える。そういえば、この花の名前はなんだろう。この、愛しくてたまらない花の名前は。
そうだ、明日、花屋で店主に尋ねてみようか。
<了>
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