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俺の言葉に、逸らしていた陸奥の顔が上向く。その瞳はまだ、自らがこれから醜態を晒させられることを知らない。
「お前、小便を堪えているだろう」
「そんな、ことは……」
「隠しても無駄だ、体に触れば分かる。いつもなら施術の前に患者を厠に行かせるんだが、急なことで忘れていた。体に無駄な力が入っていると、治療がうまくいかん」
立ち上がり、部屋の隅から小さな手桶を取って戻った俺を見て、陸奥の表情は凍りついた。その顔のまま彼がそろりと浴衣に伸ばした手を、俺は止めた。
「か……厠に、行かせてください……」
「うちの厠は離れにあるんだ。戻って来る頃には、せっかく温めたその体がすっかり冷めちまう」
わずかに目を見開き、陸奥は腹に押し付けられた桶を見つめた。
「向こうを向いているから」
返事を聞かずに背を向けて座ると、身動きしない彼の逡巡が背中に伝わってきた。
「早く済ませろ」
ほどなく、キシッと桶の軋む小さな音がした。敷布の衣擦れと、床板の鳴る音。陸奥が戸惑いながら体を起こした気配がする。
彼がどんな顔で桶に跨がっているのか、俺は振り向いて見たい衝動にじっと耐えた。待つ身には長く感じられるしばしの間のあと、蚊の鳴くような声がした。
「できません……厠に、行かせてください……」
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