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1いつか。
一八六四年八月二十日、元治元年甲子七月十九日。
禁門の変。
別名蛤御門の変。激戦地の蛤御門から命名。
長州の進発派の、来島又兵衛らが、洛中(天皇がいる地域)に侵略。
きっかけは同年六月五日、新選組と尊王攘夷派志士による「池田屋事件」。
この事件により、土佐藩士望月亀弥太、肥後藩脱藩浪士、宮部鼎蔵長州藩士杉山松助、同じく長州藩士吉田稔麿が死亡。
優秀な同志を失った進発派は憤り、武力解決を決意。
吉田稔麿とは、安政の大獄で処刑された吉田松陰の私塾、松下村塾で机を並べた仲であった、久坂玄瑞、入江九一らは、今の時点での武力行使は反対派だったが、来島や、真木和泉(長州の神官)らが軍議で強行に意見を決めてしまった。
最初は、来島などが、その心意気に偽りない戦意で優勢だったが、薩摩藩が加勢した途端形勢は逆転。
次々に来島や真木の戦死が伝えられた。
反対派で、真木と同じく天王山に陣を引いていた久坂は長州よりの公家、鷹司輔煕に朝廷への参内(御所へ入ること。)の同行を願い出たが、拒否。
会津の砲術家が鷹司邸に発砲。
鷹司邸のどこからか火の手が上がった。
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