星を数え飽きたら

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 20……いや、15か。それが、この鉄格子つきの小窓から見ることのできる星のすべてだ。天気によって多少変動があるが、それ以上の星を見たことは、この2年、一度もない。  明後日、おれはこの獄を出るが、そのとき夜空を見上げても、いちいち星の数を数えることなどはしないだろう。棺桶だってもう少し寝心地がいいだろうと思うほど固いベッドの上でまどろみながら、漠然と思った。 「起床!」  居丈高な声で、覚醒した。飽くことなく繰り返されてきた日常。いつもどおり身支度を整えていると、格子の向こうで白髪交じりの看守が歯を見せた。 「おまえはそこで待ってろ」 「出所前に風呂にも入れないってのかよ」 「卒業寸前の奴にはいろんなことがあるからな。模範囚ぶってるが、そんなタマじゃないことはわかってる。他の囚人がよけいなことをしないように、後に入ってもらう」  おれの返事を待たずに、看守はさっさと行ってしまう。とはいえ、反論する気はなかった。確かに、おれはいい仲間とはいえない。歯ブラシの柄を削って作った即席のナイフを隠し持っていることを知らない奴はいないだろうが、出所前によからぬことを考える馬鹿が出てこないとも限らなかった。  数十分後に看守が呼びにきて、おれは無人のシャワー室に入った。無造作に頭を洗っていると、背後に人の気配がした。  咄嗟に振り返り、身構える。色あせた囚人服を着た小柄な体が、大きく振動した。 「おまえか」  おれが警戒を解くと、カズミはぎこちない笑みを浮かべた。困惑するように首を傾げて、安石鹸を洗い流すおれの動作を見守った。 「明日、出所だね」 「ああ」 「寂しくなる」  おれが黙っていると、沈黙を持て余すようにカズミは爪先で湯を裂いた。目はおれから逸らさなかった。全裸を凝視されているのに居心地の悪さを感じて、おれは手早く体を洗い、シャワーの雨をやませた。タオルをつかみ、体を反転させる。 「どけ」 「あ、ごめん」  小さく謝っておきながら、カズミは微動だにしなかった。押しのけようと伸ばした手が、空中で硬直した。  噎せ返るような湯気の中、おれははじめてカズミの顔を正面から見た。どこがどうかなんて、説明はできない。だが、カズミの様子は明らかにいつもとは違っていた。期するものがあった。反射的に、細い腕をつかんだ。 「だれだ」 「え……」 「なめた真似しやがった奴の名前をいえ」  おれの目は血走っていたに違いない。カズミは慄き、のけぞった。 「だれにもなにもされてない」  返事をするのが早すぎた。口数が多すぎた。嘘……目眩。かろうじて耐え、詰問を続けた。 「いえ。いわないならぶん殴る」  カズミの顔から血の気が引く。 「なにも……」  白い頬。手加減せずに張った。声も上げずに、カズミはタイルの上に転がった。 「さっさといえ」  囚人服の襟をつかみ、締め上げる。カズミはくぐもった声で吐いた。 「沢井……」 「知らねえな」 「新人だよ」 「なるほど。おれのことを知らないわけか」 「知ってたと思う。けど……」 「けど? けど、なんだ」  カズミはまた黙った。 「おれはなめられたってわけか。そうだな?」  沈黙。肯定しているのも同然だった。うなり、立ち上がった。解放されたカズミの喉が笛のような音を立てた。 「どこ行くんだよ」  踵を返したおれの足首に縋りついて、カズミが圧しころした声を上げる。 「決まってんだろ。そいつをぶち殺す」 「やめろよ。明日出所だろ」 「それがどうした」 「静雄!」  被虐的なカズミの叫び。こめかみに昇った血がゆっくりと下りた。 「やめてくれよ。そんなことしてほしいんじゃない」 「じゃあどうしてここにきた」  おれの問いに、カズミはうなだれた。顎に皺を浮かべ、呟いた。 「抱いてくれよ」  ため息。おれは足を撓らせてカズミを振りほどいた。カズミは引き下がらなかった。なお強く、おれにしがみついてきた。 「なんでおれになにもしないんだよ」 「おまえに興味はない」 「じゃ、なんで助けてくれるんだ」  見上げてくる色素の薄い瞳。切迫していた。おれの言葉を奪った。 「静雄がいなかったら、おれはとっくにやり殺されてた。見返りもないのに、なんでおれを庇う」  沈黙。深いため息とともに、おれはいった。 「おれがどうしてここにきたか、知ってるだろ」  カズミは頷いた。父親殺しの静雄。知らない奴はここにはいない。 「親父はおれの弟を犯してた。毎日だ。毎日」 「弟……」  カズミはうわごとのようにおれの言葉を反芻した。 「その弟に似てるのか、おれ」 「わからねえ。そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない」 「静雄の弟になりたい」 「やめろ」 「静雄に犯してほしい」 「やめろ!」  カズミの髪をつかんだ。引き上げ、シャワー室の壁に圧しつけた。  衝動。自制することができなかった。繋ぎの囚人服の襟をつかみ、強引に引き寄せた。カズミの白い背中が露になった。顔を寄せると、わずかに土の匂いが立ち上ってきた。  タイルの上に落ちた囚人服は濡れ、インディゴ・ブルーに変色した。踏みつけた。半裸のカズミの腰に張り詰めたものを圧し当てた。おれと壁の間に挟まれた体が大きく跳ねた。  カズミの臀部は赤ん坊のように滑らかで、しみひとつなかった。左手で肉を圧し広げると、白濁が太腿に筋を作って流れ出した。大量だった。  舌打ち。怒りに目尻が痙攣するのが自分でもわかった。  強引に圧し入った。カズミの喉が大きく隆起した。わずかに漏れ出たうめき声がタイル上を跳ね、おれは狼狽した。そのことにまた苛立った。  烈しく突き上げた。カズミは泣き声ひとつ上げなかった。苛立ちが増幅した。同時に、限界を感じた。嫌悪忌避していたはずの行為に、おれは没頭していた。情けないほどあっけなく、おれはカズミの中で炸裂した。  緩慢な動作で屈みこむと、カズミはずぶ濡れの囚人服をさして頓着するでもなく着た。直視することができずすぐに逸らした目は、ひどく虚ろだった。 「ごめんね」  肌に張りつく生地を指先で軽く引っ張りながら、カズミが呟く。 「謝るな」  おれはかろうじて答えた。カズミを見ようとはせずに、いった。 「おまえらは勘違いしている」 「勘違い」  頷いた。ぎこちなく首を捻って、カズミを見た。 「おれがやったのは父親じゃない。弟のほうだ」 「弟?」  カズミは息を呑んだ。色の抜けた唇を痙攣させて、聞き返してきた。犯される前と較べて、言葉づかいや表情が微妙に変化していることに、おれはようやく気づいた。 「弟を殺したのか」 「殺しちゃいねえよ。刺しただけだ」  カズミはなんともいえない視線を向けてきた。タイルの上にへたりこんでいるおれの傍らにしゃがみこんだ。 「どうして刺した?」 「わからねえ」 「弟を自分のものにしたかったのか」 「わからねえよ、そんなこと」  カズミは考え込むように膝頭に顎を乗せた。首を傾げておれを見た。 「いいんだぜ。おれを自分のものにしても」 「そんなことはしない」 「なんだ。つまんねえ」  カズミは子供のように唇をすぼめた。濡れた冷たい手が、短く刈ったおれの頭を撫でた。 「よかった?」  顔を上げた。カズミが穏やかに目を細めておれを見つめていた。 「おれの体、よかったか」 「……ああ」  おれは答えた。こみ上げてくるものがあった。カズミの囚人服の襟に鼻先を擦りつけて、おれは何度も頷いた。 「よかったよ。すげえ、よかったよ」  カズミは心底嬉しそうに微笑した。瞳がきらきらと輝いていた。  カズミの首すじからは、土の匂いがした。  厭味なほどの晴天だった。運動場では、揃いの囚人服を纏ったガキどもが緩慢に体を動かしていた。  沢井はバスケット・コートのわきでしゃがみこんでいた。手持ち無沙汰に親指の腹を噛みながら、ボールが跳ねるのを目で追いかけていた。にきび痕の目立つ、痩せた男だった。近寄ると、一重の目を上げてにらみつけてきた。 「なんだ、てめえ……」  立ち上がりかけた首すじに、歯ブラシの柄を突きたてた。一拍置いて、鮮血が噴き出した。沢井は唖然としたように目を見開いて、声も出さずに膝を折った。  悲鳴が上がった。看守が血相を変えて集まってきた。地面に圧しつけられながら、おれは漠然と考えた。もう星を見ることはないだろう。  おれがカズミを手に入れたのか、それともカズミがおれを手に入れたのか。だが、すぐにそんなことはどうでもよくなった。どうせおれには、なにひとつわかりはしない。  ただはっきりといえるのは、星がひとつ減ったということだ。だがやはりそれも、どうでもいいことだった。 おわり。
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