モンキー・ビジネス

1/1
2人が本棚に入れています
本棚に追加
/1ページ
 世の中にはいろいろな趣味を持つ人間がいる。熊谷登志男の場合は、しかし、少々特殊といえた。 「トシちゃん、晩御飯は?」 「いらない」 「さっき、声が聞こえたみたいだったけど、お友達でもきてるの?」 「きてないよ」  冷蔵庫を覗き込む間にも、背後の母親の視線はしつこくまとわりついてくる。この家に友達がきたことなど、ただの一度もない。怒鳴りつけてやりたいのをかろうじて堪え、牛乳パックを取り出す。この母親に殺意をおぼえることは稀でなかった。  コップに牛乳を注ぎ、一気に半分ほど飲み干す。自分で思っていた以上に喉が渇いていたらしい。登志男は全身で息をついた。腕時計に目を落とす。流行遅れのデザインのダイバーズウォッチは、ちょうど6時をさしていた。家の外も中も、ふだんと変わったところはなにもない。会話を諦めた母親が眺めるテレビのニュースは、テレビタレントの脱税を報道していた。  牛乳パックにコップ、土産もののロールケーキの箱を来客用の盆に載せて、階段を上がる。二階の自分の部屋は、外から施錠できるように鍵をつけかえたばかりだった。  すぐにはドアを開けない。盆を床に置き、耳をそばだてる。物音は聞こえてはこなかった。胸の高鳴りは期待のせいか、それとも恐怖のせいか、判別することができない。何度も深呼吸しながら、登志男はドアを押した。  息が止まるかと思った。目の前に立った少年が、黒い瞳でじっと登志男を見上げていた。長い前髪が、やわらかそうな額の表面で流れている。6、7歳ぐらいだろうか。この年代独特のあどけない表情に、かすかな戸惑いが浮かんでいた。 「おなか、空いてない?」  後ろ手に鍵をかけながら、ケーキの箱を差し出す。少年は興味を示さず、観察するように登志男を見つめつづけた。登志男はいたたまれなくなり、目を逸らした。  もともと、悪事には慣れていない。歩道橋の脇にひとりでいる少年を見つけたときには、つい抱き上げてしまったが、それも衝動的なことで、はじめから攫うつもりで近づいたわけでは決してない。自らの性癖は認めていたものの、これまでどおり、欲望と理性を共存させて生活できた。パソコンやDVDのなかの少年少女たちがいればそれでよかったのだ。それがこんなことになってしまったのは運命でしかないと、登志男は思った。 「ケーキ、食べようよ」  上擦った声でいうと、少年は小さく首を振った。 「甘いものは、苦手なんだよ。あいにくだけどね」  おとなびた口調だった。最近の子どもには珍しくない。登志男は少年の弾けるような肌に胸をときめかせながら、コップに牛乳を注いだ。 「大学生か」  小さな声に顔を上げる。少年の目は登志男を飛び越えて、書棚の参考書をとらえていた。 「漢字が読めるんだね」  おだてたつもりだったが、少年は無反応だった。爪先立ちで手を伸ばし、了解を得ようともせず、参考書のうちの一冊を手に取った。小さな手で投げ遣りにページを捲る。 「関数解析学とは、懐かしい。線形汎関数と共役空間、作用素のレゾルベントとスペクトル、コンパクト作用素、自己共役作用素のスペクトル分解定理。基礎理論の応用には欠かせない題材だな」  唖然とする登志男には頓着することなく、少年は参考書に目をはしらせる。途中で手を止め、顔をしかめた。 「きみねえ、微積分と複素関数論の初歩で躓いていては、どうにもならんじゃないか。それでよく進学できたものだな」  その言葉で、登志男はようやく我に返った。眼鏡の縁を指先で押し上げ、平静を装う。 「参ったよ。秀才なんだな」  頭がいいとはいえ、相手は子供である。まともに相手をすることはない。余裕を持った笑みを浮かべ、腕を組んだ。 「きみ、小学生だろ。塾に通っているの?」  登志男の質問に、少年は疲れたようなため息で答えた。眉間を指圧するしぐさは、まるで老人のようだった。 「義務教育は50年前に修了した。現在の所属は大学だよ」  堂々とした言葉に、登志男は口を開けていることしかできなかった。ようやく出た言葉は、なんとも情けないものだった。 「飛び級?」 「日本でそんなものが認められていないことぐらい、わかっているだろう。そこまで馬鹿なのかね」  少年は居丈高にいって、書棚から一冊の本を抜き出した。表紙を登志男に向けてみせる。 「これを見なさい」  登志男は流れる汗を手首で拭いながら、目を凝らした。有機化合物の合成、性質についての研究が記されたぶ厚い本である。図書館で借りてきたはいいものの、何度か開いただけで放置してある難解な書籍だ。監修として、明石周五郎の名が刷られてある。 「わたしがこの明石周五郎だ」  ため息が漏れた。素直で愛らしい子だろうと思っていたのに、あてがはずれた。苛立ちと悲しみが綯い交ぜになった気持ちをもてあまして、登志男は頭を抱えた。 「驚くのも無理はない。わたしでさえも、いまだに信じられないんだから。いや、予想していなかったわけではないが、まさか、これほどとは……」  科学、薬学の権威を名乗る少年は、大儀そうに腰を折り、呟いた。登志男の訝しげな視線にようやく気づき、苦笑いを浮かべてみせる。 「説明が必要だな……煙草はないのか?」  登志男がにらみつけると、少年は肩を竦めた。ベッドに深く腰かけて、疲れたように話しはじめた。 「アンチエイジングというのかね。ひとはだれでも、若くありたいと願うものだ。そのための薬を長年研究してきたのだが……」  噴き出しそうになった。いくら頭がいいとはいっても、やはり子供である。安手のテレビドラマにでも影響を受けたのかもしれない。登志男は軽い口ぶりで調子をあわせた。 「自分の体で薬を試した?」 「いや、栄養ドリンクと間違えて飲んでしまったのだ」  少年が真顔で答える。どうやら、本気で自分を博士だと信じているらしい。多感な時期にはありがちな夢想だ。登志男はかろうじて余裕を取りもどし、さりげなく少年の隣に座った。 「つまり、きみは偉い教授さんで、薬のせいで、老人から少年に若返ってしまったってわけね」 「厳密にいうと、若返っている」  過去形から現在進行形へと訂正して、少年は自分の掌をしげしげと眺めた。 「また小さくなっているな」  ぼそぼそといって、登志男のほうに手を差し出してみせる。 「ほら、さっきよりもあきらかに縮んでいるだろう。しかも、若返る速度が速まっているようだ」  登志男はまるで聞いていなかった。鼻から息を吐き出しながら、目の前の小さな白い紅葉を凝視した。平面やヴァーチャルの世界でしか見ることのできなかった滑らかな曲線が、そこに存在していた。  おそるおそる手を伸ばし、触れる。登志男の様子にさすがの少年も眉を顰めた。 「なにをしているのかね?」  登志男は魔力に導かれるかのように少年に近づいた。目を丸くしている少年の首に唇を寄せる。薄い皮膚同士が触れあおうとした瞬間、部屋の外から声がした。無視していると、声にノックが重ねられた。 「トシちゃん、お客様」  母の声は弾んでいるように聞こえた。舌打ちし、立ち上がった。母を遠ざけておいてから、ドアを開ける。 「逃げるなよ」  少年が口を開くよりも早く、ドアを閉めた。叫び声を上げるかどうかは、賭けだったが、うまくごまかす自信はあった。とにかく、来客を追い出さなくてはならない。登志男は大股に階段を降りた。  リビングで、若い男が待っていた。背が高く、眼鏡をかけた整った顔だちの男だ。母は台所でコーヒーでも淹れているらしい。上機嫌な鼻歌が聞こえてきた。勝手に家の中に入れたことに対して怒りが湧いたが、第三者の見ている前で非難できるほどの度胸はない。曖昧に頭を下げる登志男の全身を、男の鋭い視線が素早く行き来した。 「あのう……」 「度会といいます。医科大学で助教授をしております」  声を上げそうになった。かろうじて自制したが、度会という助教授は見逃さなかった。たたみかけるようにいった。 「時間がないので率直に尋ねますが、この家に子供がいますね。中学生……いや、小学生ぐらいの」 「いえ……いません」 「嘘をつくな」  度会は声を低め、登志男に詰め寄った。 「おまえが連れ去るのを見たひとがいるんだ。ここにいるんだろう」 「いませんよ。うちには子供はぼくひとりしか……」 「いいか、よく聞けよ、この変態野朗」  度会の手が、登志男のシャツの胸をつかむ。見た目にそぐわぬ力だった。登志男は思わず息を詰めた。 「ただでさえ危険が迫っているんだ。明石教授になにかしていたら、怪我ぐらいじゃ済まさないぞ」 「ぼくはなにも……」  蚊の鳴くような登志男の声を遮るように、烈しい声が響いた。子供の泣く声だったが、弾けるような大声だった。度会の表情が強張った。 「まずい」  短くいうと、度会は白衣のポケットから小型のケースを抜いた。中から取り出した注射器に、登志男の目は釘づけになったが、よく確かめる間もなく、度会に突き飛ばされた。  登志男の制止など耳にも入らない様子で、度会は階段を駆け上がっていった。 「なあに、今の声」  母親が目を丸くしてキッチンから出てくる。登志男は床にへたりこんだまま、動くことができなかった。  しばらくして、階段を降りてくるふたりぶんの足音が聞こえた。リビングに顔を出した度会の背後に、小柄な老人が立っていた。薄くなった白髪を撫でながら、痩せた顔を皺だらけにして笑う。 「いや、どうも、お騒がせいたしましたな」 「はあ……」  茫然としている母親と登志男を残して、ふたりはさっさと玄関に向かった。 「あまり心配かけないでくださいよ」 「なかなか楽しかったぞ。ちょっと変わっているが、いい青年だったな」 「変わっているのは教授のほうですよ。あの姿で外をうろついたりするから、こんなことになるんです」 「好奇心には勝てん。きみが治療薬を持ってきてくれるのはわかっていたから、心配はしとらんかったよ」 「間に合ったからよかったものの、胎児にまでなっていたら、注射もできなかったんですよ」 「わかった、わかった。そう怒らんでくれ」 「まったく……」  意味不明のやりとりをかわしながら、老人と青年は門を開け、のんびりとした足どりで出て行った。その後姿を窓から見つめながら、登志男は思った。世の中にはいろいろな趣味の人間がいるものだと。 おわり。
/1ページ

最初のコメントを投稿しよう!